1943年11月2日深夜、ブーゲンビル島沖。旗艦「川内」が砲火を浴びて航行不能となり、後続していた姉妹艦「白露」と衝突した駆逐艦「五月雨」は、艦首を大きく傷つけながらも、米駆逐隊の追撃を人力操舵だけでかわし、戦場からの離脱に成功した。戦死5名、負傷5名——決して軽い被害ではない。だが五月雨はこの夜も、その後も、沈まなかった。
白露型駆逐艦6番艦・五月雨は、決して「派手な武勲艦」ではない。第三次ソロモン海戦では戦艦を誤射し、ブーゲンビル島沖では僚艦と衝突し、最後はガルワングル環礁で座礁して沈んだ——記録だけを並べれば、不運続きの艦に見えるかもしれない。しかし、その不運の合間に、五月雨はガダルカナルへの輸送任務をこなし、僚艦「夕立」「霧島」「夕張」「春雨」の生存者を幾度も救助し、白露型10隻の中で最後まで時雨と共に生き残った2隻のうちの1隻となった。
そして——艦の最期に立ち会ったのは、米潜水艦の魚雷ではなく、座礁という地味な現実だった。それでもなお、艦長は離礁を諦めず、運命を共にしようとした。その艦長を救ったのは、同期の海軍士官が指揮する一隻の駆逐艦だった。
1934年12月19日
1937年1月29日 竣工
有近六次 少佐
111.0m
艦本式タービン2基
連装砲2基4門
九三式酸素魚雷搭載
第27駆逐隊
最後まで残った2隻の一艦
ガルワングル環礁で戦没
ロンドン軍縮条約下、復元力不足で建造中止となった初春型の後継として計画された一等駆逐艦。日本海軍で初めて四連装魚雷発射管を採用し、八射線という重雷装を実現した。前期6隻(村雨型)は角張った艦橋、後期4隻は丸い艦橋を持つ。五月雨は前期型最終艦として竣工した。つまり——五月雨は「酸素魚雷の重雷装」と「未完成だった船体強度」という、白露型の長所と課題の両方を背負って戦場に出た艦だった。
五月雨は1934年12月19日、浦賀船渠で起工した。隣のドックでは、後に運命を共にする姉妹艦「時雨」が艤装中だった。1935年7月6日に進水し、1937年1月29日、白露型の前期型最終艦として竣工する。竣工直後から、五月雨は第2駆逐隊(村雨・夕立・春雨・五月雨)の一艦として、太平洋戦争開戦時にはフィリピン攻略戦、蘭印作戦、バリクパパン沖海戦、スラバヤ沖海戦と、息つく間もない南方作戦の最前線に投入されていく。
「五月雨の補給順序は哨戒艇のあと」
これに対し五月雨駆逐艦長・松原瀧三郎中佐は「命令は指揮系統の順による」と返信し、補給を強行した。
——1942年1月20日、ダラカン入泊時。第四水雷戦隊旗艦「那珂」からの信号と、第2駆逐隊司令・橘正雄大佐の命令が対立した一幕。
小さな逸話だが、この一件は五月雨という艦の性格をよく表している。上位部隊の指示と直属上官の命令が矛盾したとき、現場は組織の論理に従って迷わず動いた。この「指揮系統への忠実さ」は、後にガダルカナル方面で何度も繰り返される輸送任務・救助任務の中で、五月雨という艦の基調となっていく。
1942年11月12日深夜、ガダルカナル島へ接近する日本艦隊は悪天候の中で何度も反転し、寄せ集めの挺身艦隊は陣形が完全に崩れていた。混戦の中、五月雨は味方識別灯を掲げていたにもかかわらず、旗艦・戦艦「比叡」を機銃で誤射してしまう。射撃中止命令が轟音にかき消されて届かず、業を煮やした比叡が高角砲で威嚇射撃をして、ようやく事態は収まった。戦闘詳報にも「味方識別燈ヲ定メラレシハ混戦時ニ於ケル味方打防止上眞ニ有効ナリシモ之ヲ掲揚シ居ルニ拘ラズ12日夜比叡小口径砲ノ砲撃ヲ受タルコト」と、この混乱が率直に記録されている。
誤射の混乱は、夜戦という戦闘形態そのものの過酷さを物語っている。だが五月雨の役割はここで終わらない。第一夜戦の後、霧島と共に北上していた五月雨は、航行不能となった僚艦「夕立」の救援を命じられる。
この海戦で日本側は比叡・夕立・暁の3隻を失った。五月雨自身は燃料も不足し、夕立の生存者多数を抱えていたため、比叡救援の命令にも関わらず承認を得てショートランド泊地へ向かう判断を取る。救助した命を守ることと、次の命令を遂行すること——そのせめぎ合いの中で、五月雨は限られた燃料と人員という現実的な制約の中で最善の選択を取り続けた。
1943年11月2日未明、五月雨は第27駆逐隊(時雨・五月雨・白露)として軽巡「川内」と共にブーゲンビル島沖海戦に参加した。川内が戦闘開始からまもなく炎上・航行不能となり、白露も至近弾で舵故障を起こす中、続行していた時雨・五月雨・白露は互いに衝突しかける混乱に陥った。五月雨は白露と実際に衝突し、その後さらに米軍駆逐隊に追撃されて被弾。戦死5名、負傷5名を出しながらも、人力操舵という原始的な手段で離脱に成功した。つまり——電子機器も油圧も使えない状態で、人の手だけで艦を生還させたということだ。
この海戦で日本側は川内と初風を失い、妙高・羽黒・五月雨・白露が損傷した。五月雨が発射した魚雷は、米駆逐艦「フート」を大破させたと推定されている。混乱の中でも一定の戦果を上げ、損傷艦でありながら自力でラバウルへ帰還した——この「生還力」こそが、五月雨という艦を語る上で欠かせない特徴になっていく。
1944年に入っても、五月雨の任務は途切れなかった。サイパン・パラオへの船団護衛、竹輸送、渾作戦——そのいずれも、輸送と護衛という地味だが艦隊の生命線を支える任務だった。4月27日には、米潜水艦ブルーギルの雷撃で航行不能となった軽巡「夕張」の曳航を試みている。曳航は失敗し夕張は沈没したが、五月雨は最後までその場に留まり、できる限りの対応を尽くした。
1944年7月14日深夜、戦艦「武蔵」の直衛についていた五月雨は、強風と高波の中で艦隊から落伍し、一時行方不明となった。捜索に出た重巡「利根」に発見され、事なきを得たこの一件を、戦艦「大和」に乗艦していた第一戦隊司令官・宇垣纏中将は『戦藻録』にこう記している——「五月雨にスコール続く輸送かな」「スコールの後に五月雨忘れけり」。艦名の「五月雨」とスコールの天候を重ねた、戦場の中の小さな余白を感じさせる一句である。
そして1944年8月18日、運命の日が来る。鬼怒・時雨と共に航海中だった五月雨は、パラオ近海のガルワングル環礁で座礁した。火災も発生し、深刻な損傷を負う。同航の2隻は一旦パラオへ向かうが、潜水用具を運び再び現場に戻るなど、僚艦としての協力は続いた。だが離礁作業は難航し、B-24爆撃機の空襲にも晒される中、上層部は五月雨の放棄を検討し始める。
五月雨最後の艦長・大熊少佐は、離礁を諦めず、艦と運命を共にする覚悟だったという。だが救援に駆けつけた駆逐艦「竹」の艦長・田中弘国少佐は、大熊艦長の海軍兵学校同期だった。田中艦長の説得を受け、大熊艦長はようやく艦を完全に放棄することを決断する。乗組員は竹に救助され、フィリピン・セブ島で下艦した。同期という関係が、艦長を死地から引き戻した——記録に残る数少ない、人と人の結びつきの場面である。
1944年10月10日、五月雨は帝国駆逐艦籍から除籍された。これにより全10隻が建造された白露型駆逐艦は、姉妹艦「時雨」1隻のみを残すこととなった。五月雨の喪失は、時雨にとっても、最後の姉妹との永遠の別れだった。
現在、五月雨が眠るガルワングル環礁は水深10mほどの海域で、ダイビングスポットとなっている。2017年には水中写真家・戸村裕行が現地を調査し、船体の大部分は失われているものの、主砲やシャフトなど全体の2割ほどが今も現場に残されていることを確認した。80年近い時を経て、五月雨は今もパラオの海で静かに眠っている。
しかし、その堅実さは万能ではなかった。第三次ソロモン海戦では味方を誤射し、ブーゲンビル島沖では僚艦と衝突した。酸素魚雷という強力な兵装を持ちながら、決定的な戦果を単艦で挙げる機会には恵まれなかった。最後の座礁も、敵の攻撃ではなく、自然の地形がもたらした結果だった。輝かしい武勲艦ではない。だが、輝かしさだけが艦の価値を決めるわけではない。
五月雨が残したものは、派手な戦果ではなく、「生き延びて、次の任務に向かう」という地味な持続力そのものだ。白露型10隻のうち、時雨と並んで最後まで残った2隻の一艦であるという事実が、何よりもそれを物語っている。今を生きる私たちに、この艦が問いかけるのは——目立つ成功だけが、価値のあるすべてではない、ということかもしれない。
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「沈まぬ意志は、誇張も装飾もいらない——五月雨、最後まで任務に生きた駆逐艦」
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書『南東方面海軍作戦(2) ガ島撤収まで』朝雲新聞社
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書『南東方面海軍作戦(1) ガ島奪還作戦開始まで』朝雲新聞社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続篇』光人社、1984年
- ・重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦』潮書房光人社、2014年
- ・寺内正道ほか『海軍駆逐隊』潮書房光人社、2015年
- ・須藤幸助『駆逐艦「五月雨」出撃す』光人社
- ・宇垣纏『戦藻録』原書房、1968年
- ・Wikipedia「五月雨 (駆逐艦)」