1944年9月12日午前1時55分、南シナ海・海南島東方洋上。船団護衛部隊旗艦の海防艦「平戸」が米潜水艦「グロウラー」の魚雷で轟沈し、護衛司令官・梶岡定道少将が戦死した。旗艦を失い混乱する船団の中で、駆逐艦「敷波」はただひとり対潜掃討を続けていた。だが午前6時55分、グロウラーが放った魚雷2本が敷波の艦体に立て続けに命中する。沈没までに要した時間は、わずか4分だった。
吹雪型(特型)駆逐艦12番艦・敷波は、開戦から沈没まで実に2年9ヵ月、太平洋戦争のほぼ全期間を生き抜いた艦である。マレー作戦、ジャワ・アンダマン攻略、ミッドウェー、ガダルカナル輸送、バタビア沖海戦、第三次ソロモン海戦、ビスマルク海海戦——日本海軍が経験した主要な戦域のほとんどに、敷波は確かに存在していた。そして、その存在の多くは「沈める側」ではなく、「助ける側」としてのものだった。
そして——その敷波が最後に守ろうとしたのは、輸送船団ではなく、すでに沈みかけた僚艦と、海に漂う乗組員たちだった。「磯波」「浦波」「綾波」と共に第19駆逐隊を編成した敷波の物語は、派手な撃沈報告ではなく、誰かを救うために引き返し続けた記録として読むべきものだ。
(特II型2番艦)
(磯波・浦波・綾波・敷波)
3基6門
9射線
(1944年4月〜戦没)
2年9ヵ月生存
米潜水艦の雷撃で戦没
ワシントン海軍軍縮条約による主力艦保有制限を受け、補助艦艇の戦力強化を狙って建造された一等駆逐艦。凌波性能を追求した船形と、艦橋を密閉式に改めるなど居住性を改善し、排水量に対して重武装(12.7cm連装砲3基、61cm魚雷9射線)を実現した。当時の列強海軍に衝撃を与えた革新艦で、全24隻が建造された。敷波は11番艦・綾波以降の「特II型」(仰角75度の高角砲塔を採用)に属する。つまり——敷波は、世界の駆逐艦設計を変えた艦型の、改良された後期グループの一艦だった。
敷波は舞鶴工作部で建造され、一等駆逐艦に類別された。竣工後は「磯波」「浦波」「綾波」と共に第19駆逐隊(第二艦隊第二水雷戦隊)を編成。1937年の日中戦争では上海・杭州湾上陸作戦に参加し、太平洋戦争開戦時にはマレー半島攻略作戦の支援として、開戦前からひそかに出撃していた。
1942年(昭和17年)、ジャワ島攻略戦の最終局面で発生したバタビア沖海戦で、敷波は米重巡洋艦「ヒューストン」の撃沈に貢献した。この海戦は連合軍艦隊にとって痛手となり、蘭印作戦の成功を決定づける戦果のひとつとなった。地味な輸送・護衛任務が多い敷波の艦歴の中で、これは数少ない「攻める側」としての記録である。
1942年6月のミッドウェー作戦では主力部隊の護衛として参加。8月、ガダルカナル島の戦いが始まると、敷波はショートランド泊地に進出し、10月末までにガダルカナル島への輸送(鼠輸送)に10回従事した。一回の戦闘で得られる戦果よりも、10回という回数の積み重ねこそが、この時期の敷波の任務の本質を表している。
この海戦で姉妹艦「綾波」は「ソロモンの黒豹」と呼ばれる伝説的な戦果を単艦で挙げたが、その壮絶な代償として戦没した。敷波は綾波とは別動の哨戒位置にあり、直接の交戦には至らなかったとされる。だが、同じ第19駆逐隊の一艦として、この夜の混戦を肌で経験したことは間違いない。海戦後、敷波は磯波・日進と共に内地へ帰投した。
1943年3月、ニューギニア・ラエへの陸軍増援輸送「八十一号作戦」のため、木村昌福少将率いる第三水雷戦隊の駆逐艦8隻(白雪・浦波・敷波・朝潮・荒潮・朝雲・時津風・雪風)が輸送船団を護衛してラバウルを出撃した。出撃前、参謀の一人が「敵航空戦力によって全滅させられるだろうから中止すべきでは」と提言したが、上層部からの回答は「命令だから全滅覚悟でやってもらいたい」だったという。連合軍機による反跳爆撃・低空爆撃・中高度爆撃という、当時の日本側が経験したことのない波状攻撃の前に、船団は壊滅的な被害を受けた。
ビスマルク海海戦は日本側にとって輸送船8隻全滅、駆逐艦4隻喪失という、想定をはるかに超えた惨敗だった。その中で敷波が選んだ行動は、敵に背を向けて生還することではなく、安全圏へ救助者を移してから、もう一度危険な戦場へ戻ることだった。一度逃げ切った船が、自らの意思で引き返す——この判断には、単なる命令遂行を超えた何かがある。
ビスマルク海海戦後、敷波は呉に帰投して機銃増備工事を実施。1943年1月には丙一号輸送(釜山〜ウェワク間)に従事し、その後もスルミ、ラエ、コロンバンガラ島への輸送作戦を続けた。6月にはマカッサルで空襲を受けて損傷した軽巡「鬼怒」を、僚艦「球磨」と共にスラバヤまで護衛。7月22日、スラバヤでの空襲により5名が戦死している。1944年に入ってからもアンダマンへの陸軍部隊揚陸、ビアク・ソロンへの輸送と、敷波の任務は途切れることなく続いた。
そして1944年8月1日、シンガポール沖で座礁事故を起こす。だが敷波は離礁に成功し、応急修理の後、本格修理のため内地へ向かう船団「ヒ72船団」の護衛に協力することになった。この座礁からの回復が、敷波にとって最後の任務への扉を開くことになる。
「命令だから全滅覚悟でやってもらいたい」
輸送掩護の航空兵力不足を懸念する現場参謀の進言に対し、上層部はこう回答したという。
——1943年3月、八十一号作戦(ビスマルク海海戦)出撃前。第三水雷戦隊参謀・半田仁貴知少佐と第八艦隊作戦参謀・神重徳大佐の間のやり取りとして伝わる。
1944年9月12日午前1時55分、ヒ72船団は海南島東方洋上で米潜水艦「グロウラー」の雷撃を受けた。船団護衛部隊旗艦の海防艦「平戸」に魚雷1本が命中し、護衛司令官・梶岡定道少将が戦死。旗艦を失い混乱する船団の中、敷波は対潜掃討を続けていたが、午前6時55分、グロウラーの再攻撃で魚雷2本が立て続けに命中。船体はわずか4分で沈没した。駆逐艦長・高橋達彦少佐以下乗員200名余りが戦死し、67名が海防艦「御蔵」に救助された。同年10月10日、除籍。
しかし、その堅実さは安全を保証するものではなかった。第三次ソロモン海戦では姉妹艦綾波が壮絶な戦果と共に戦没し、ビスマルク海海戦では「全滅覚悟」という命令の下、僚艦4隻が失われた。敷波自身も、最後はわずか4分で海に消えた。輸送と救助という地味な任務を2年9ヵ月続けた末に訪れた最期は、決して劇的な勝利の代償ではなく、潜水艦という見えない敵による、唐突な結末だった。
敷波が残したものは、輝かしい撃沈数ではなく、「引き返すことを選んだ船」という記憶だ。一度逃げ切った敵地に戻ってでも僚艦を救おうとする判断——それは今を生きる私たちにも、何が本当の任務なのかを問いかけている。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書『海軍進攻作戦』朝雲新聞社
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書『南西方面海軍作戦 第二段作戦以降』朝雲新聞社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年
- ・雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集16 駆逐艦 吹雪型[特型]』光人社、1997年
- ・海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年
- ・三十糎艦船連合呉支部「駆逐艦敷波戦没者慰霊碑」記録
- ・Wikipedia「敷波 (吹雪型駆逐艦)」