1944年2月1日、トラック泊地北水道。改白露型(海風型)4隻の最後の生き残りとなっていた駆逐艦「海風」は、米潜水艦「ガードフィッシュ」の魚雷を受けた。乗員約50名が艦と運命を共にした。これで山風、江風、涼風と続いた喪失劇が完結し、改白露型4隻はすべて海に消えたことになる。艦長・中尾小太郎少佐は沈む前に脱出し、生き延びた。
白露型駆逐艦7番艦・海風は、海風・山風・江風・涼風の4隻からなる「改白露型」(海風型)のネームシップ的存在である。第24駆逐隊として太平洋戦争のほぼ全期間、フィリピン攻略戦から蘭印作戦、ガダルカナル輸送、ニュージョージア方面輸送と、地味だが過酷な任務を背負い続けた。
そして——海風には、他の改白露型3隻にはない特徴がある。山風はノーチラスに撃沈され、江風はベラ湾夜戦で沈み、涼風も雷撃で失われたが、いずれも一度は敵艦と砲火を交えた経験を持っていた。しかし海風は、太平洋戦争を通じて一度も敵艦を撃沈することなく、輸送と護衛の任務に従事し続けた艦だった。中破・大破を繰り返しながらも生き延び、最後は改白露型唯一の生存艦として戦い続けた末に、トラック泊地の近海で力尽きることになる。
1937年5月31日 竣工
34.0kt
(改白露型・海風型1番艦)
単装砲1基(計5門)
(計8射線)
(海風・山風・江風・涼風)
(輸送・護衛に専従)
トラック泊地北水道で米潜水艦の雷撃により戦没
第二次軍備補充計画(②計画)で計画された白露型の後期4隻(海風・山風・江風・涼風)は、第四艦隊事件の影響で船体構造の設計が若干改められ、「改白露型」または「海風型」と呼ばれる。最大の外観的特徴は艦橋形状の変更で、海風建造時に実物大模型を製作して決定されたこの形状は、後の朝潮型・陽炎型にも引き継がれた。帝国海軍の公式分類では白露型の一艦だが、改設計の最初の艦として、海風は改白露型1番艦とされることもある。日本海軍の艦船としては海風型駆逐艦(初代)「海風」に続いて2隻目にあたる。
海風は1935年5月4日、舞鶴工廠で起工した。第四艦隊事件のため一時工事を中断し、1936年5月から再開。11月27日に進水、1937年4月15日には成富武光少佐が初代艦長となり、5月31日に竣工した。竣工と同日、海風型2隻(海風・江風)により第24駆逐隊が編制される。司令駆逐艦は「江風」に指定されたが、姉妹艦(山風・涼風)も順次編入され、海風型4隻が揃った。
太平洋戦争開戦時、第24駆逐隊(海風・江風・山風・涼風)は第四水雷戦隊として比島部隊(後の蘭印部隊)に所属。レガスピー上陸作戦、ラモン湾上陸作戦に従事した後、1942年1月からは蘭印作戦に加わり、タラカン・バリックパパン・マカッサル・ジャワ島およびスラバヤ・パナイ島の各攻略作戦に参加した。
2月下旬のスラバヤ沖海戦では、第四水雷戦隊の他艦が活躍する中、「海風」と朝潮型「夏雲」は輸送船団護衛を命じられたため、戦闘に参加していない。改白露型の僚艦たちがその後何らかの戦果や激戦を経験していく中、海風だけはこの記念碑的な海戦から外れていた。これは、海風という艦の艦歴を象徴する最初の出来事だった。
6月、ミッドウェー海戦では主力部隊の護衛に従事。日本本土帰投直後の6月23日、姉妹艦「山風」が東京湾沖で米潜水艦ノーチラスの雷撃により撃沈され、改白露型最初の喪失艦となった。第24駆逐隊は3隻(海風・江風・涼風)編制となり、7月14日には第二水雷戦隊(田中頼三少将、旗艦神通)に編入される。
9月2日、村上暢之助大佐は24駆司令を解任され、後任は夕立初代駆逐艦長・中原義一郎中佐となった。9月7日、9日、11日、13日と、海風は輸送・対地砲撃・偵察任務を繰り返し従事する。9月9日には敵輸送船団発見の報を受けてガ島へ突入したが、輸送船団は存在せず哨戒艇1隻撃破にとどまった。9月24日、第24駆逐隊司令・中原中佐座乗の海風を含む輸送隊は、米軍機の夜間空襲を受け揚陸を断念。この戦闘で海風は陽炎型「浦風」と共に小破した。
11月18日、ブナおよびラエへの輸送作戦中、海風はB-17の爆撃を受けて大破、航行不能となった。駆逐艦「朝潮」に曳航されてラバウルに戻る。これは海風が経験した最大級の損害だった。応急修理の後、12月末にトラック泊地経由で横須賀へ戻り、1943年1月から本格修理に入った。
1943年5月8日、コロンバンガラ輸送のため出撃していた第15駆逐隊(親潮・黒潮・陽炎)が機雷と空襲で3隻とも沈没する事態が発生した。輸送任務を終え帰投中だった海風と僚艦「萩風」は、まだ沈んでいなかった親潮・陽炎の救援のために反転し、触雷を覚悟して現場を捜索した。結局、舟艇でやってきた陽炎の士官から3隻の沈没と生存者陸上収容を知らされ、ラバウルに帰投している。前年に大破した自艦の経験が、僚艦救援への躊躇のない反転判断につながったのかもしれない。
1943年8月、海風は主力部隊(戦艦大和・長門・扶桑、空母大鷹、巡洋艦愛宕・高雄・能代)と共に呉を出撃しトラックへ進出。トラック到着後、24駆司令駆逐艦は「海風」に変更された。だが姉妹艦の喪失は止まらなかった。8月6日、ベラ湾夜戦で「江風」が沈没。1944年1月25日、ポナペ島北東で「涼風」が米潜水艦の雷撃により沈没。残る改白露型は海風1隻となった。
涼風喪失からわずか8日後の2月1日、海風はトラック泊地北水道付近で米潜水艦「ガードフィッシュ」の雷撃に遭い沈没した。乗員約50名が艦と運命を共にした。艦長・中尾小太郎少佐は沈む前に脱出し、運良く生き延びて、後に秋霜の艦長に着任している。この沈没により、改白露型(海風型)4隻はすべて姿を消したことになる。
海風の艦歴を特徴づけるのは、撃沈数ではなく、その不在だ。山風・江風・涼風がそれぞれ何らかの戦果を挙げる機会を経験した中、海風は太平洋戦争を通じて敵艦を1隻も沈めることがなかった。主に輸送任務に従事し、激しい対空戦闘を何度も経験して中破・大破を繰り返した「苦労艦」でありながら、戦果という形では何も残せなかった艦である。それでも、改白露型4隻の中で最後まで生き残ったのは海風だった。トラック北水道での沈没は、まさにその「最後の生存艦」としての立場の末に訪れた結末だった。
僚艦・親潮・陽炎の沈没現場へ躊躇なく反転した判断、ブナ輸送で受けた大破を乗り越えた経験——海風は派手な戦果を残さなかったが、地味な任務をひたすら遂行し続けた艦だった。改白露型4隻の中で最後まで生き残ったという事実は、この艦の本質的な堅実さを物語っている。
海風が残したものは、撃沈数のゼロという記録そのものだ。それは、戦争の中で目立たない仕事を黙々と続けた、多くの艦と兵士たちの存在を象徴している。
■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書26『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書29『北東方面海軍作戦』朝雲新聞社
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書46『中部太平洋方面海軍作戦』朝雲新聞社
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書49『南東方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1971年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書83『南東方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1975年
- ・宇垣纏『戦藻録』原書房、1968年
- ・高松宮宣仁親王『高松宮日記』中央公論社
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
- ・Wikipedia「海風 (白露型駆逐艦)」「白露型駆逐艦」