1944年6月8日午後0時20分、ビアク島へ向かう輸送船団の中、駆逐艦「春雨」の右側を航行していたところに、米陸軍のB-25爆撃機とP-38戦闘機が襲いかかった。輸送隊3隻(五月雨・白露・春雨)のうち、被弾したのは春雨だけだった。司令駆逐艦として第27駆逐隊司令・白浜政七大佐を座乗させていた春雨は、海軍大佐ごと轟沈する。僚艦「五月雨」からは、大きな爆煙の柱が立ち上るのが望見されたという。
白露型駆逐艦5番艦・春雨は、白露型の中でも竣工が最も遅い艦のひとつだった。機関に関する諸問題に悩まされ、時雨の次に竣工が遅れたという、設計の難しさを体現するような艦である。1943年1月には米潜水艦「ワフー」の雷撃を受け、艦橋から前部を失う壊滅的な損傷を負いながらも、奇跡的に生き延びた。
そして——その春雨を最後に沈めたのは、艦尾からの喪失という、初代「春雨」(春雨型駆逐艦)が三重県鳥羽市で擱座沈没した際と同じ運命だった。代を継いで2隻が、共に艦尾を失う形で海に消えていく——歴史の奇妙な符合がこの艦名には刻まれている。
1937年8月26日 竣工
34.0kt
(第2駆逐隊→第27駆逐隊)
単装砲1基(計5門)
(計8射線)
白浜政七大佐(戦死・没後少将)
前部喪失も生還
渾作戦中、B-25の空襲を受け戦没
ロンドン海軍軍縮条約下に計画された初春型駆逐艦の後続艦として建造された一等駆逐艦。主要兵装と機関は初春型を踏襲したが、魚雷兵装は日本海軍初の四連装発射管を採用し、8射線を実現した。春雨は当初「有明型」5番艦として命名されたが、1934年の再編で白露型に類別された。日本海軍の艦船としては春雨型駆逐艦「春雨」に続いて2隻目にあたる——初代「春雨」は1911年、三重県鳥羽市の的矢湾で荒天により擱座沈没しており、この海域には今も殉難の碑が建っている。
春雨は1935年2月3日、舞鶴海軍工廠で起工した。1937年8月26日に竣工——白露型の中では時雨の次に竣工が遅れた艦で、これは機関に関する諸問題が原因だったという。「村雨」「夕立」「五月雨」と共に第2駆逐隊に編成され、1940年には第二艦隊・第四水雷戦隊に編入された。
8月7日のガダルカナル島の戦い開始で、インド洋通商破壊作戦「B作戦」は中止され、第2駆逐隊はソロモン方面へ転戦した。10月2日、5隻の駆逐艦でガ島輸送に成功するも、10月5日には空襲で僚艦「村雨」「峯雲」が損傷。春雨は3隻(朝雲・夕立・春雨)の一艦として揚陸を完了させている。11月、第三次ソロモン海戦では「夕立」が春雨と分離後、単艦で米艦隊へ突入し航行不能となった末に戦没——第2駆逐隊として初めての戦没艦だった。
1943年1月24日、トラック・ウェワク間を基地員収容のため往復していた春雨は、米ガトー級潜水艦「ワフー」に捕捉された。最初の魚雷3本を回避し、続けて撃たれた1本も避けたが、3射目の魚雷2本のうち1本が一番砲直下付近に命中する。ワフーは敵駆逐艦撃沈を確信したが、春雨は応急修理によって沈没を免れ、命からがらウェワクに戻った。その後「天津風」「浦風」に護衛されてトラックへ曳航される途中、艦体が分断し艦橋から前部を完全に失う。トラック泊地で再度修理を行い、本格的な修理のため横須賀へ曳航されることになった。
この間の3月5日、第2駆逐隊司令艦「村雨」がビラ・スタンモーア夜戦で米艦隊のレーダー射撃を受け沈没していた。春雨は5月末、損傷のひどいまま横須賀に帰港。第2駆逐隊は7月1日、村雨喪失と春雨の長期修理を理由に解隊され、春雨はいったん予備艦籍となる。8月から11月にかけて、横須賀で本格的な修理が行われた。
復帰後の第27駆逐隊は、空母(隼鷹・飛鷹・龍鳳)を護衛しつつ米艦隊に水上戦闘を挑む計画を持っていた。だが5月27日、米軍がビアク島に上陸を開始したことで、第27駆逐隊は急遽「渾作戦」に投入される。この作戦は、ビアク島への友軍支援と、米軍への陽動作戦という二つの側面を持っていた。
6月2日(3日とも)、戦艦「扶桑」、第五戦隊(羽黒・妙高)、第16戦隊(青葉・鬼怒・第19駆逐隊)、第27駆逐隊(春雨・五月雨・白露・時雨)からなる大艦隊が、ミンダナオ島ダバオを出発しビアク島へ向かった。だが翌3日、豊田副武連合艦隊司令長官から渾作戦一時中止命令が下る。米軍機動部隊出現の偵察報告が理由だったが、これは誤認だった。6月4日、改めて「渾作戦を再び実施せよ」との命令が出される。
作戦再開にあたり、第一次渾作戦参加艦艇から扶桑・青葉・津軽等が除外され、駆逐艦6隻・人員600名でのビアク島輸送計画が通達された。第27駆逐隊はソロンに立ち寄った後、青葉・鬼怒と分離。6月8日午前3時、陸軍部隊を載せた駆逐艦6隻(敷波・浦波・時雨・白露・五月雨・春雨)はソロンを出発し、再びビアク島へ向かう。輸送隊は輸送隊(敷波・浦波・時雨)と警戒隊(春雨・白露・五月雨)に分けられ、春雨は司令駆逐艦として警戒隊を指揮した。
6月8日12時20分、第19駆逐隊・第27駆逐隊はアメリカ陸軍のB-25爆撃機とP-38戦闘機の襲撃を受ける。輸送隊3隻の前方に五月雨、左側に白露、右側に春雨が配置されていた。時雨・白露・五月雨の損傷は軽微だったが、春雨は被弾して沈没した(時雨の記録では12時32分、五月雨の記録では12時42分)。第27駆逐隊司令・白浜政七大佐もこの時戦死した(戦死後、少将に昇進)。米軍機が去った後、五月雨と白露が救助に向かい、時雨が警戒を行う。五月雨は内火艇を降ろし、士官4名・下士官兵79名を救助した。
初代、二代と続けての艦尾喪失
初代「春雨」(春雨型駆逐艦)が三重県鳥羽市で擱座沈没したのと同じく、白露型「春雨」も反跳爆撃を艦尾に受けて戦没した。
——艦名に刻まれた、世代を超えた奇妙な符合。
第二次渾作戦部隊は春雨の沈没後もビアク島への輸送作戦を継続したが、夜になり米軍巡洋艦部隊に迎撃され撤退、ビアク島への輸送は失敗に終わった。ハルマヘラ諸島パジアンに帰投後、白露に救助されていた春雨の乗組員は五月雨に移乗してアンボン基地へ向かい、白露は時雨に合流するためダバオへ向かった。この一連の戦闘で約50名が戦死している。
春雨の戦没から1週間後の6月15日、僚艦「白露」も衝突事故で沈没した。第27駆逐隊は2隻(時雨・五月雨)となり、6月中旬のマリアナ沖海戦に参加することになる。10隻が建造された白露型駆逐艦のうち、この時点で残っていたのは時雨・五月雨のわずか2隻だった。
しかし、その生命力にも限界があった。渾作戦という大規模な輸送任務の司令駆逐艦として指揮を執っていた春雨は、B-25の超低空爆撃という、対処の難しい攻撃によって最後を迎える。司令・白浜政七大佐の戦死は、この艦が単なる一艦ではなく、作戦全体の指揮機能そのものを担っていたことを示している。
春雨が残したものは、一度壊れても再生する艦の強さと、それでも避けられない戦争の結末という、両極にある事実である。初代「春雨」と同じく艦尾を喪失して終わったこの艦の物語は、艦名に刻まれた巡り合わせの重さを今に伝えている。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦(2)
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書83『南東方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1975年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報・各艦公文備考
- ・Wikipedia「春雨 (白露型駆逐艦)」「白露型駆逐艦」「春雨 (春雨型駆逐艦)」