白露型駆逐艦 山風——改白露型最初の喪失艦・諸元と全戦歴

白露型 · 8番艦(改白露型・海風型2番艦) · 第24駆逐隊
YAMAKAZE 駆逐艦 山風
激戦を生き抜いた艦が、静かに消えた

1937年竣工、白露型駆逐艦8番艦(改白露型)。タラカン攻略でオランダ敷設艦を単艦撃沈し、スラバヤ沖海戦では英重巡エクセター・蘭軽巡ジャワの生存者100名超を救助した。1942年6月、日本本土近海を単艦航行中に米潜水艦ノーチラスの雷撃を受け戦没。改白露型最初の喪失艦となった。

諸元データ
竣工時兵装基準・サマリー
艦型
白露型8番艦
建造所
浦賀船渠
基準排水量
1,368t(公表値)
最大速力
34.0kt
主砲
12.7cm砲5門
魚雷兵装
61cm4連装発射管2基
(計8射線、魚雷16本)
艦名山風(やまかぜ)
艦型・番艦白露型(一等駆逐艦)8番艦(改白露型・海風型2番艦)
艦名の由来海風型駆逐艦「山風」に続き2隻目(初代は後に第八号掃海艇と改名)
建造所浦賀船渠株式会社
起工日1935年(昭和10年)5月25日
進水日1936年(昭和11年)2月21日
竣工日1937年(昭和12年)6月30日
除籍日1942年(昭和17年)8月20日
類別一等駆逐艦
全長102.24m(竣工時公表値、白露型公表値ベース)
全幅9.67m(竣工時公表値)
吃水2.77m(平均吃水、竣工時公表値)
機関艦本式タービン2基2軸、艦本式重油専焼缶3基、出力42,000馬力(白露型標準値)
速力34.0kt(竣工時公表値)
航続距離4,000海里/18kt(計画値、白露型標準)
乗員226名(白露型標準値)
主砲12.7cm砲:5門(連装2基・単装1基)
魚雷発射管61cm4連装水上発射管:2基(計8射線・魚雷16本)
機銃13mm連装機銃:2基
爆雷爆雷投射機2基、爆雷×16
所属駆逐隊履歴第24駆逐隊(江風・海風、1937年6月〜司令駆逐艦に指定)→第一水雷戦隊(1942年4月10日〜)→第二水雷戦隊(行方不明後の書類上の編入、1942年7月14日)
主要艦長履歴野間口兼知少佐(初代、1937年6月30日〜)/吉川潔少佐(1938年10月5日〜、後に白露型2隻艦長兼務)/豊島俊一少佐(1939年11月15日〜)/浜中脩一少佐(1941年9月10日〜戦没時、乗組員全員と共に戦死)
特記事項①1942年1月12日、タラカン攻略でオランダ敷設艦「プリンス・ファン・オラニエ」を撃沈、生存者5名を救助
特記事項②1942年3月1日、スラバヤ沖海戦で英重巡エクセターの生存者67名、蘭軽巡ジャワの生存者37名を救助
特記事項③陽炎型「嵐」との艦名混同問題(漢字縦書きで「山風」が「嵐」と読めるため郵便物誤配送が多発)
最終結末1942年6月25日、東京湾沖で米潜水艦ノーチラスの雷撃を受け沈没(魚雷4本中2本命中)。浜中脩一艦長以下乗組員全員戦死(戦死認定は6月23日付)。行方不明の発覚は7月2日と1週間以上遅れた
■ 改白露型(海風型)駆逐艦について
第二次軍備補充計画(②計画)で計画された白露型の後期4隻(海風・山風・江風・涼風)は、第四艦隊事件の影響で船体構造の設計が若干改められ「改白露型」(海風型)と呼ばれる。最大の特徴は艦橋形状の変更で、海風建造時に実物大模型を製作して決定されたこの形状は、後の朝潮型・陽炎型にも引き継がれた。山風は浦賀船渠で建造され、同船渠では当時「時雨」「五月雨」も同時に建造されていた。
全戦歴タイムライン
竣工から戦没・除籍まで
1934年11月24日 — 命名
浦賀船渠建造艦として「山風」命名
  • 1935年5月25日起工。1936年2月21日進水(当時、浦賀船渠は白露型3隻(時雨・五月雨・山風)を同時建造中)。
1937年5月31日
第24駆逐隊編成(江風・海風)
  • 司令久宗米次郎大佐。初代司令駆逐艦は「江風」(江風は山風より先に竣工)。佐世保警備戦隊に編入。
1937年6月30日 — 竣工
第24駆逐隊編入、司令駆逐艦に
  • 野間口兼知少佐が初代艦長に。竣工と同時に佐世保へ回航。7月18日、司令駆逐艦が江風から山風に変更。7月28日、各艦隊は佐世保警備戦隊から除かれる。
1937年9月2日 — 第二次上海事変
対地砲撃に参加
  • 軽巡2隻(由良・鬼怒)、小型艦艇(子日・春雨・海風・山風・隼・千鳥)で呉淞砲台・劉河鎮方面を砲撃。10月20日、支那方面艦隊編制と共に第二航空戦隊(空母加賀)に編入。12月1日、第一水雷戦隊に編入、南京攻略戦に伴う揚子江遡上作戦に従事。
1938年10月5日〜1940年11月
艦長・司令の交代続く
  • 野間口少佐が浦波艦長へ転任、吉川潔少佐が二代目艦長に。12月15日、24駆司令が中川浩大佐に交代。1939年10月、吉川中佐は白露型2隻(山風・江風)艦長兼務。11月15日、豊島俊一少佐が三代目艦長に。1940年10月、司令が松原博大佐に交代。11月15日、第二艦隊・第四水雷戦隊(西村祥治少将、旗艦那珂)に編入。
1941年2月3日
僚艦涼風と衝突、艦首下部損傷
  • 有明海東方で訓練中に衝突。同時期、陽炎型「嵐」との艦名混同による郵便物誤配送問題が発生、両艦とも対応策を通達。
1941年7月25日〜9月10日
司令・艦長交代
  • 24駆司令が平井泰次大佐に交代。9月10日、豊島艦長が磯風艦長へ転任、浜中脩一少佐が四代目(最後の)艦長に着任。
1941年11月26日〜12月
フィリピンの戦いに従事
  • 第三艦隊司令長官・高橋伊望中将指揮下に入り日本本土を出発。開戦後は南方部隊に属しレガスピー上陸作戦・ラモン湾上陸作戦に従事。
1942年1月12日 — タラカン攻略
オランダ敷設艦を単艦撃沈
  • タラカン島守備隊降伏後、秘匿陸上砲台の砲撃で掃海艇2隻が短時間で撃沈される事態の中、「山風」は脱出を図るオランダ敷設艦「プリンス・ファン・オラニエ」を発見。
  • 第38号哨戒艇と共にこれを撃沈、生存者5名を救助。蘭印方面における初の水上艦同士の交戦で、タラカン攻略部隊全員の士気を高揚させた。
1942年2月11-24日
米潜水艦シャークを撃沈(推定)
  • マナド沖合で浮上潜水艦を発見、砲撃による撃沈を報告。24日、駆逐艦「雷」も敵潜水艦撃沈を報告。米潜水艦シャークは山風か雷のどちらかに撃沈されたとされ、アメリカ軍は山風による撃沈と認定。
1942年2月22日〜3月1日 — スラバヤ沖海戦
エクセター・ジャワ生存者の救助
  • 第五戦隊(那智・羽黒)指揮下、第7駆逐隊1小隊(・漣)と共に行動。2月27日、第二水雷戦隊に一時臨時編入されるが会敵せず、第五戦隊指揮下に復帰。
  • 3月1日、那智・羽黒・山風・江風が脱出を図る英重巡「エクセター」、駆逐艦2隻(ポープ・エンカウンター)と遭遇。重巡2隻(妙高・足柄)、駆逐艦2隻(雷・曙)、空母龍驤艦載機と共同で3隻を撃沈。
  • 山風はエクセターに魚雷2本発射、敵魚雷1本が艦底を通過と報告。残燃料が乏しい中、エクセター生存者67名を救助。江風が救助していたジャワ生存者37名も収容。共に交戦した第6駆逐隊(雷・電)も多くの英国軍艦乗員を救出。
1942年3月3-5日〜4月30日
第一水雷戦隊編入
  • 第五戦隊指揮下を離れる。4月10日、第一水雷戦隊(大森仙太郎少将、旗艦阿武隈)に編入。4月30日、警戒部隊編入。
1942年6月上旬 — ミッドウェー海戦
給油艦護衛
  • 第九戦隊司令官・岸福治少将(旗艦北上)の警戒隊所属。第一艦隊司令長官高須四郎中将直率の警戒部隊と行動。山風は第二補給隊の特設給油艦2隻(さくらめんて丸・東亜丸)を護衛。
  • 6月17日、各艦は横須賀へ到着。
1942年6月21-23日
大湊への護衛任務、単艦で出発
  • 第二戦隊・第九戦隊の西日本回航護衛のため横須賀を出発。山風は油槽船2隻(神国丸・日本丸)を護衛し大湊へ。
  • 6月23日午前11時30分、大湊入泊。午後1時、単艦で大湊を出発し柱島へ向かう。午後7時45分の連絡を最後に消息を絶つ。
1942年6月25日 — 戦没
米潜水艦ノーチラスの雷撃
  • 駆逐艦「羽風」(第34駆逐隊)が浮上潜水艦を発見し爆雷攻撃。午前4時20分、1000m離れた地点に「山風」と思しき駆逐艦を発見し協同攻撃を依頼。
  • 同日、東京湾沖で米潜水艦ノーチラスが山風に魚雷4本発射、2本命中で沈没。浜中脩一艦長以下乗組員全員戦死(戦死認定は6月23日付)。
  • 沈没地点:北緯34度34分・東経140度26分。ノーチラスは沈没する山風の写真を撮影、一番砲塔の日の丸が確認できる。
1942年7月1-14日
行方不明の発覚と捜索
  • 7月2日、横須賀鎮守府は山風の行方不明を初めて認知。「奇怪なる結果」として戦時日誌に記録。関東地方の航空隊が対潜哨戒を兼ねて捜索するが手遅れ。襟裳岬沖合で兵員用の机らしき木片発見、海防艦「八丈」等が調査出動。
  • 7月14日、第24駆逐隊(海風・江風・涼風)は第二水雷戦隊に編入、行方不明の山風も書類上同水雷戦隊に所属。
1942年8月20日 — 除籍
帝国駆逐艦籍・第24駆逐隊・白露型から除籍
  • 山風は改白露型4隻の中で最初の喪失艦となった。
まとめ
激戦を生き抜いた艦が、静かに消えた
白露型8番艦・山風は、タラカン攻略でオランダ敷設艦を単艦で撃沈し、スラバヤ沖海戦では英重巡エクセター・蘭軽巡ジャワの生存者100名超を救助した、蘭印作戦の激戦を生き抜いた艦である。

しかし、その艦を最後に沈めたのは、激しい海戦の中ではなく、日本本土近海での単艦航行という、最も無防備な瞬間だった。さらにこの艦の最期を特異なものにしているのは、被害発生から発覚までの空白の時間だ。横須賀鎮守府自身が「奇怪なる結果」と記録したように、行動予定の報告と見張りの欠落が重なり、捜索が始まったのは沈没から1週間以上が経過した後だった。

山風が残したものは、戦果としての記録だけではない。日常的な航行の中にも潜む見えない危険と、それに気づくまでの空白がもたらす結果という、戦争という現実の別の側面を、この艦の最期は静かに物語っている。

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■ 参考文献・資料

  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書26『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年
  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書46『海上護衛戦』朝雲新聞社
  • ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • ・木俣滋郎『潜水艦攻撃』図書出版社
  • ・歴史群像編集部『真実の艦艇史2』学習研究社、2005年
  • ・歴史群像編集部『水雷戦隊II』学習研究社、1998年
  • ・雑誌「丸」編集部『写真太平洋戦争 第3巻』光人社
  • ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報・横須賀鎮守府戦時日誌
  • ・Wikipedia「山風 (白露型駆逐艦)」「白露型駆逐艦」
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