1942年11月14日深夜、サボ島南水道。旗艦「川内」が浦波隊支援のため離れていき、駆逐艦「綾波」はたった一艦でサボ島西側に残された。サボ島の影に紛れ、味方からの無線も届かなくなる。そこへ突如、巡洋艦と思われた艦影が現れた。その正体は、米海軍最新鋭の戦艦「ワシントン」「サウスダコタ」を含む6隻だった。綾波は迷わず、単艦でこの艦隊に突撃する。
吹雪型駆逐艦11番艦・綾波は、特II型(綾波型)のネームシップである。艦橋構造物の大型化、主砲の仰角を75度まで引き上げたB型砲の採用——吹雪型(特I型)からの進化を体現する艦として、第19駆逐隊(綾波・敷波・浦波・磯波)の一艦として太平洋戦争を戦い続けた。
そして——綾波が本当の伝説になったのは、たった一夜の出来事だった。米駆逐艦2隻を撃沈し、1隻を炎上させ、新鋭戦艦の電気系統まで一時不能にしたその戦いぶりは、戦後「ソロモンの黒豹」「ソロモンの鬼神」という異名として語り継がれることになる。
1930年4月30日 竣工
38.0kt
(綾波型ネームシップ)
3基6門(仰角75度)
3基9射線
(戦没時生存)
6隻に突入、異名「黒豹」
第三次ソロモン海戦の翌朝、サボ島近海で沈没
ワシントン海軍軍縮条約による主力艦保有制限の中、補助艦艇の戦力強化を目的に建造された一等駆逐艦「吹雪型(特型)」。昭和2年度計画で建造された綾波以降の10隻は、艦橋構造物が特Ⅰ型より大型化し、缶室吸気口を「お椀型」に変更(以後の日本海軍駆逐艦の標準形状となった)、主砲も仰角40度のA型から75度まで引き上げたB型砲に進化した。綾波はこの特Ⅱ型のネームシップとして藤永田造船所で建造された。竣工当初は「第四十五号駆逐艦」と呼ばれていたが、後に「綾波」と改名された。日本海軍の艦船としては神風型駆逐艦(初代)「綾波」に続いて2隻目にあたる。
綾波は1928年1月20日、藤永田造船所で起工した。1930年4月30日に竣工し、「磯波」「浦波」「敷波」と共に第19駆逐隊を編制する。日中戦争では上海・杭州湾で活躍。1934年の友鶴事件、1935年の第四艦隊事件を経て、海軍は全艦艇の復原性・強度検査を実施。綾波も主砲換装等、重心低下のための改修を受けている。
1942年8月、ガダルカナル島の戦いが生起すると、綾波はインド洋作戦(B作戦)の準備を中断し、ショートランド泊地へ進出。以後、ガダルカナル島への鼠輸送に7回従事した。地味だが過酷な任務を繰り返し、艦も乗員も消耗していく中、11月、綾波の艦歴で最も激しい一夜が訪れる。
11月14日深夜、近藤信竹中将麾下の前進部隊はガダルカナル島飛行場砲撃に向かっていた。射撃隊(愛宕・高雄・霧島)、直衛隊(長良以下駆逐艦多数)の前路警戒として、第三水雷戦隊(川内・綾波・敷波・浦波)がサボ島付近を航行する。掃討隊は「川内・綾波」がサボ島西側、「敷波・浦波」が東側へ分離した。サボ島東側を航行していた「浦波」が、単縦陣で航行する敵艦隊らしき艦影を発見。報告を受けた「川内」は浦波隊支援のためサボ島北側を通って急速に離れていく。こうして綾波だけが、当初の予定通りサボ島西側に単艦で残されることになった。
この夜、川内はずっと離れていたと見えて、姿を見ていません
綾波艦長・作間英邇中佐は、戦後この夜をこう振り返っている。
——1942年11月14日深夜、サボ島西方。サボ島が遮蔽物となり、味方との連携が断たれた状況での単艦行動だった。
日本側はこの戦いを「大型巡洋艦1隻と駆逐艦2隻を撃沈」と記録し、大本営発表でも「米軍戦艦複数隻を撃沈」と発表された(後に誤認と判明)。アメリカ側の記録では綾波の魚雷攻撃は命中していないとされるが、駆逐艦としては異例の大戦果——実質的に駆逐艦2隻撃沈、1隻炎上という結果を残したことは間違いない。サウスダコタの電気系統不調は、後年の検証では綾波の砲撃ではなく自艦の主砲発射の衝撃によるヒューマンエラーだったとも指摘されているが、明確な根拠はなく異説扱いとなっている。
単艦での激闘の末、綾波は被弾し航行不能となった。米側の記録によれば、戦艦ワシントン・サウスダコタを含む艦隊からの反撃により損傷を重ね、翌11月15日、サボ島南東3海里の地点で沈没した。この戦闘で日本側は戦艦2隻(比叡・霧島)、重巡1隻(衣笠)、駆逐艦3隻(夕立・暁・綾波)、輸送船11隻という大損害を被り、ヘンダーソン飛行場の破壊にも失敗した。米軍も軽巡2隻・駆逐艦7隻を喪失する激戦だったが、結果としてガダルカナル島の防衛に成功している。
綾波の戦いぶりは、後に「黒豹」あるいは「ソロモンの鬼神」という異名で語られるようになった。同じ海戦の数日前に単艦突入した「夕立」の戦果が混乱を極め正確な数字が判明しないのに対し、綾波の戦いは綾波1艦だけが戦場にいたという状況のため、戦果の検証がしやすく、現代に至るまで誇るべき戦果として語り継がれている。なお「黒豹」の異名は、第三次ソロモン海戦で夕立艦長を務めた吉川潔少将(当時)にも冠せられており、必ずしも綾波だけの専有の異名ではない。
日本側の戦果報告には誤認も含まれていたが、それでも実質的に駆逐艦2隻を撃沈・炎上させたという事実は揺らがない。同じ海戦で夕立の戦果が混乱を極めた一方、綾波の戦いは単艦だけの記録として検証しやすく、それゆえに「ソロモンの黒豹」という異名が、誇張なく今に語り継がれている。
綾波が残したものは、撃沈数だけではない。孤立という不利な状況下でも戦い抜いたという事実、そして乗員8割以上の生還率という結果——勇戦と生存が両立したこの艦の艦歴は、戦争という記録の中で稀有な存在として残されている。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書62『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』朝雲新聞社
- ・片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、2003年
- ・福井静夫『(写真)日本海軍全艦艇史資料篇』ベストセラーズ、1994年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・『日本駆逐艦史』海人社、世界の艦船No.453、1992年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
- ・Wikipedia「綾波 (吹雪型駆逐艦)」「吹雪型駆逐艦」