「雪風に神宿る」——真珠湾からレイテ、坊ノ岬沖まで戦い抜いた甲型駆逐艦38隻唯一の生存艦「雪風」の全記録

1945年4月7日、坊ノ岬沖。戦艦「大和」への海上特攻を護衛する第二水雷戦隊は、米軍機約400機の猛攻に晒されていた。軽巡「矢矧」、駆逐艦「浜風」「朝霜」「霞」が次々と沈み、「冬月」は中破、「涼月」は大破する中、駆逐艦「雪風」の艦橋では、寺内正道艦長が天井の窓から身を乗り出し、航海長の右肩を蹴っては面舵、左肩を蹴っては取舵と指示を出し続けていた。魚雷1本が艦底をすり抜け、ロケット弾が食料庫に命中しても不発――大和が沈み、僚艦が次々と姿を消す中、雪風はほぼ無傷でこの海域を生き延びた。

陽炎型駆逐艦19隻、そしてほぼ同型の夕雲型19隻を合わせた「甲型駆逐艦」38隻の中で、終戦まで生き残ったのは雪風ただ1隻だった。1940年1月の竣工から坊ノ岬沖まで、真珠湾こそ参加しなかったものの、スラバヤ沖、第三次ソロモン海戦、マリアナ沖、レイテ沖――太平洋戦争の主要海戦のほとんどに参加しながら、大きな損傷を一度も受けなかった。

そして——単に運が良かっただけではない。雪風の乗員たちは、この艦を語るとき必ずこう付け加える。「艦長と乗員の一体感が、雪風の強運を引き寄せたのだ」と。歴代艦長の巧みな操艦、そして「雪風は不沈艦です」と乗員が信じ続けた意志こそが、この艦を戦争の終わりまで運び続けた。

建造所・起工
佐世保海軍工廠
1938年8月2日
進水・竣工
1939年3月24日進水
1940年1月20日竣工
基準排水量・全長
2,033トン
118.5m
最大速力・出力
35.5ノット
52,000馬力
主砲
12.7cm連装砲C型
3基6門
魚雷兵装
61cm4連装発射管2基
九三式酸素魚雷16本
所属駆逐隊
第16駆逐隊→第17駆逐隊
(浦風・磯風・浜風・谷風)
特筆データ
甲型駆逐艦38隻中
唯一の生存艦
最終結末
終戦後、賠償艦として中華民国へ
「丹陽」として1965年まで現役

「雪風」は1938年8月2日、佐世保海軍工廠で起工した。1939年3月24日進水、1940年1月20日に竣工。陽炎型駆逐艦19隻の8番艦として、僚艦「黒潮」とはわずか1週間差の竣工だった。第16駆逐隊(黒潮・初風)に編入され、第二艦隊・第二水雷戦隊に所属。

1941年12月8日の開戦時、雪風は真珠湾攻撃には参加していない。初陣は12月11日、フィリピン中部レガスピー攻略戦。以後、南方作戦の攻略戦を転々とし、1942年2月27日、初の本格的海戦となるスラバヤ沖海戦に参加した。この海戦は日本側の大勝に終わったが、雪風自身が発射した魚雷は敵の転舵によって命中しなかった。それでも海に投げ出された敵兵約40名を救助している。

■ 「雪風」の全戦歴ハイライト ■
【1942年2月27日】:スラバヤ沖海戦、敵兵約40名を救助
【1942年11月12-13日】:第三次ソロモン海戦。米駆逐艦2隻撃沈に貢献、戦艦「比叡」を救援
【1943年11月2-3日】:ラバウル空襲を予見し、いち早く湾外へ脱出
【1944年3月31日】:前例のない5隻編成、第17駆逐隊の5番艦に
【1944年10月25日】:サマール沖海戦、米護衛空母群へ突撃
【1945年4月7日】:坊ノ岬沖海戦。大和沈没後もほぼ無傷で生還
【1945年4月7日夜】:大破した僚艦「磯風」を処分
【終戦後】:中華民国へ引き渡され「丹陽」として1965年まで現役
エピソード① 第三次ソロモン海戦——戦艦「比叡」を救った駆逐艦

1942年11月12日深夜から13日にかけての第一次夜戦で、雪風は僚艦「春雨」と共同で米駆逐艦「カッシング」を、戦艦「比叡」と共同で米駆逐艦「ラフィー」を撃沈したとされる。雪風の12.7cm砲弾3発と魚雷1本がラフィーに命中し、艦尾弾薬庫の爆発を誘発したという。

夜戦終了後、操舵不能となった挺身攻撃隊旗艦「比叡」の護衛を命じられた雪風は、一時戦場離脱の命令を受けて単艦で航行していたが、その途中で軽巡「長良」と遭遇。比叡が航行不能・火災発生中と手旗信号で伝えられると、雪風は迷わず比叡の救援に急行した。午前4時20分、雪風は最も早く比叡のもとに到着する。

通信能力を失っていた比叡へ、第十一戦隊司令部は最初に到着した雪風への移乗を決定。午前6時15分、比叡に乗っていた阿部弘毅中将らが雪風に移乗し、雪風は一時的に戦隊旗艦となった。戦艦用の大きな中将旗を掲げたことで敵機の標的にもなり、至近弾で汽缶に亀裂が入り発電機も故障、最大速力が出せなくなる。それでも雪風は比叡の乗組員救助にあたり続けた。

■ 11月12-13日、比叡救援の時系列 ■
夜戦後
雪風、カッシング・ラフィー撃沈に貢献
04:20
雪風、最も早く比叡のもとに到着
06:15
阿部中将らが雪風に移乗。雪風、一時的に戦隊旗艦に
日中
至近弾で汽缶に亀裂、発電機故障。最大速力発揮不可能に
比叡処分命令が出るも山本長官の中止命令で撤回。最終的に比叡は自沈
■ 医務室で見つかった「味方の弾片」
比叡救援に向かう途中、雪風は被害箇所(医務室)の修理中に弾丸の破片を発見した。その弾底部には佐世保軍需部の刻印があり、味方からの誤射だったことが判明する。雪風の砲術科員は「比叡の副砲の弾だろう」と推測したという。つまりどういうことか——雪風を通じて損傷を与えた「敵」の中には、味方の混乱も含まれていた。それでも雪風はこの海戦を大きな損傷なく乗り切っている。
エピソード② 「呉の雪風、佐世保の時雨」——強運艦の由来

駆逐艦の墓場と呼ばれるほど損失の激しかったソロモンの戦いにおいて、雪風と駆逐艦「時雨」は、いつも必ず帰ってくる不死身の艦として、士官・水兵の間で評判になった。「先に沈むのは呉の雪風か、佐世保の時雨か」という物騒な賭けの言葉が縮まって、このあだ名が定着したという。第二十七駆逐隊司令として時雨に乗っていた原為一大佐によれば、これは単なる縁起担ぎのあだ名ではなく、両艦の武勲と生還率の高さを称える、本気の評判だった。

1943年11月2日から3日にかけて、ラバウル泊地が空襲を受けた際、在泊艦艇の中で最も早く機関を動かし湾外へ脱出したのが「時雨」だった。しかしその時雨でさえ、空襲を予想して最初から湾外に停泊していた雪風を見て驚いたというエピソードが残っている。歴代艦長には操艦の名手が揃っており、ある艦長は雪風を離任する際、部下たちにこう言い残した。「武運の神に守られているのは雪風だ。私が去っても雪風は沈まない――雪風に神宿る」。

1944年3月31日、時津風・初風の戦没、天津風の大破により事実上1隻となっていた第16駆逐隊が解隊され、雪風は第17駆逐隊(浦風・磯風・浜風・谷風)の5番艦に編入された。通常4隻編成の駆逐隊が前例のない5隻編成になったことに、僚艦の乗員からは「雪風は16駆で僚艦を全部食い尽くした」という、歓迎とも皮肉ともつかない声が上がったという。

■ 「雪風は不沈艦です」——輸送船団での約束
1943年3月、ニューギニア方面への陸軍輸送任務で、雪風は同乗していた陸軍兵たちに「雪風は不沈艦です。安心してください」と元気づけたという。輸送船「旭盛丸」が撃沈された際は生存者を救助し、朝雲と共に船団を離れて目的地ラエへ急行、約束通り陸軍兵全員を送り届けている。しかし翌日、船団に復帰した後、反跳爆撃という新戦術による米軍機の猛攻で輸送船7隻・護衛駆逐艦4隻が失われる惨事(ダンピール海峡の悲劇)に見舞われた。陸海軍合わせて3,600名以上の犠牲者を出したこの戦闘でも、雪風自身は生き延びている。
エピソード③ 坊ノ岬沖——大和と共に、そして磯風を見送って

1945年4月7日、戦艦「大和」による沖縄への海上特攻(天一号作戦)に、雪風ら第十七駆逐隊の残存艦も護衛として同行した。死を覚悟した特攻作戦を前に、共に出撃した多くの艦が煙突に必死の証である菊水の紋章を描いたが、雪風だけは違った。艦長の「俺たちはいつも通りやればいいんだ」という一言で、紋章は描かれなかった。乗組員たちも、必ず生きて帰るつもりだったという。

正午過ぎから約400機の米軍機による猛攻が始まり、午後2時23分、大和は沈没。軽巡「矢矧」、駆逐艦「浜風」「朝霜」「霞」も相次いで沈み、「冬月」は中破、「涼月」は大破した。この中で雪風は、寺内正道艦長が艦橋の天井から身を乗り出し、航海長の肩を蹴って面舵・取舵を指示するという独特の操艦で、敵機の攻撃をほとんど回避し続けた。魚雷1本が艦底をすり抜け、ロケット弾が食料庫に直撃するも不発。機銃掃射と至近弾で3名が戦死、15名が負傷したが、艦の損傷は機銃1基の大破と主砲盤電路の故障のみで、戦闘力にはほぼ影響がなかった。雪風は対空砲火で米軍機1機を撃墜してもいる。

戦闘終了後、この日さらにもう一つの任務が雪風を待っていた。至近弾で機械室に浸水し航行不能となった僚艦「磯風」を、二水戦司令官・古村啓蔵少将(初霜に救助されていた)が処分するよう命じたのである。雪風はまず雷撃を試みるが魚雷は磯風の艦底を通過。次に砲撃を行うも方位盤の狂いで命中せず、最終的に魚雷が命中して搭載魚雷が誘爆、磯風は22時40分に沈没した。磯風乗員は事前に雪風へ移乗しており、この処分をもって第17駆逐隊司令艦は磯風から雪風へと引き継がれた。

猫工艦の考察

雪風の本質は、単なる幸運ではなく、乗員と艦長が一体となって積み重ねた「生き残るための技術」にある。寺内艦長の独特な操艦法、歴代艦長たちの巧みな判断、そして「雪風は不沈艦だ」と信じ続けた乗員たちの士気――これらが噛み合った結果として、この艦は結果的に「強運艦」と呼ばれるに至った。真珠湾こそ参加しなかったが、スラバヤ沖からレイテ沖、坊ノ岬沖まで、太平洋戦争の主要な激戦のほとんどを経験しながら、大きな損傷を一度も負わなかったという記録は、単なる偶然の産物ではない。

しかし、生き残り続けたことは、同時に多くの喪失を見届け続けることでもあった。同じ第16駆逐隊の黒潮・初風・時津風を、そして坊ノ岬沖では矢矧・浜風・朝霜・霞、さらには自らの手で処分した磯風を、雪風は見送り続けた。甲型駆逐艦38隻の中で唯一生き残ったという記録の裏には、それだけ多くの僚艦の最期に立ち会い続けたという重みがある。

雪風が残したものは何か。それは、戦争を生き延びた艦がその後も「丹陽」として第二の人生を歩み、1971年にその舵輪と錨だけが日本に帰り、江田島の教育参考館に静かに安置されているという事実である。艦そのものは戦後も海を渡り続けたが、最後は「帰るべき場所」に、その魂の断片を残した。猫工艦は、生き残り、そして見送り続けたこの艦の意志に、深い敬意を表したい。

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■ 参考文献・資料

  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書31・戦史叢書各巻(南東方面海軍作戦・捷号作戦関連)朝雲新聞社
  • ・アジア歴史資料センター(JACAR)雪風関連公文書・第十戦隊戦時日誌
  • ・豊田穣『雪風ハ沈マズ』文春文庫、1981年
  • ・吉田俊雄『戦艦比叡』学研M文庫、2001年
  • ・相良俊輔『怒りの海』光人社NF文庫
  • ・学習研究社『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.19 水雷戦隊II 陽炎型駆逐艦』1998年
  • ・Wikipedia「雪風 (駆逐艦)」「陽炎型駆逐艦」「磯風 (陽炎型駆逐艦)」
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