「137発の爆弾をすべてかわした艦」——ミッドウェーで飛龍乗員を救い、タウイタウイでハーダーに散った陽炎型14番艦「谷風」の全記録

1944年6月9日22時過ぎ、フィリピン諸島タウイタウイ湾口。対潜警戒中の駆逐艦「谷風」から900メートルの距離に、米潜水艦ハーダーが忍び寄っていた。放たれた魚雷4本のうち、1本目は艦の前方を通過し外れたが、2本目・3本目が左舷艦首と左舷一番砲塔から艦橋真下にかけて命中。谷風は22時25分、轟沈した。その爆発はあまりに激しく、水中で見ていたハーダーの潜望鏡までもが閃光に眩み、艦体そのものが揺さぶられたという。艦長以下114名が還らなかった。

陽炎型14番艦として1941年4月に竣工した「谷風」は、この2年前、ミッドウェー海戦で全く逆の立場に置かれたことがある。集中攻撃を受けて漂流する空母「飛龍」の生存者を救うため単艦で派遣された谷風は、36機とも48機ともいわれる敵機の波状攻撃を一身に受けながら、艦長・勝見基中佐の巧みな操艦によってそのほとんどをかわし続けた。至近弾の破片が二番砲塔に飛び込み6名の戦死者を出した以外、致命傷は一つも受けなかった。

そして——この時、谷風が一身に敵機を引き受けたことには、目に見えない意味があった。同じ頃、他の駆逐艦は救助した空母乗員の負傷者を、戦艦へ移乗させる作業の真っ最中だった。もし谷風が敵の目を引きつけていなければ、この無防備な移乗作業こそが標的にされ、さらなる惨事を招いていた可能性が高い。谷風は、目立たぬところで艦隊そのものを救っていたのである。

■ 陽炎型14番艦「谷風」基本諸元 ■
建造所
藤永田造船所
起工 1939年10月18日(仮称第30号艦)
命名 / 進水 / 竣工
1940年8月30日 / 11月1日 / 1941年4月25日
基準排水量
2,033t
全長118.5m
最大速力
35.0ノット
出力52,000馬力
主砲
三年式12.7cmC型連装砲
3基6門
魚雷
61cm4連装発射管×2基
(九三式酸素魚雷16本)
艦長
勝見基中佐
ミッドウェー時の艦長
所属駆逐隊
第十七駆逐隊
(浦風・磯風・浜風、後に雪風)
最終・結末
1944年6月9日
タウイタウイ湾口 戦没
戦死114名 / 救助126名
機動部隊の護衛として——真珠湾からセイロン沖まで

谷風は1939年10月18日、藤永田造船所で仮称第30号艦として起工した。同社では他に黒潮・夏・浦風・舞風の陽炎型4隻も建造している。1940年8月30日、「谷風」と命名(同日、陽炎型15番艦「野分」も命名)。1941年4月25日に竣工し呉鎮守府籍となる。4月28日には第一航空艦隊・第一航空戦隊に編入されたが、5月1日付で第十七駆逐隊(浦風・磯風・浜風)に編入された。

1941年12月8日、真珠湾攻撃では第一水雷戦隊(旗艦「阿武隈」)所属の第十七駆逐隊として、第十八駆逐隊・「秋雲」と共に南雲機動部隊を護衛する数少ない任務を担った。空母は不在だったため最大の戦果こそ逃したものの、多くの戦艦を機能不全に陥れる大戦果を挙げている。12月下旬のウェーク島攻略では、第八戦隊(利根・筑摩)と共に第二航空戦隊(蒼龍・飛龍)を護衛。続いてラバウル攻略、ダーウィン空襲、ジャワ島攻略、セイロン沖海戦と、機動部隊の外縁を守り続けた。

■ 名前が示す風の系譜
「谷風」とは、昼間に谷から山へ吹き上げる風を意味する。対照的に、夜に山から谷へ吹き下ろす風は「山風」と呼ばれる(こちらは白露型駆逐艦の艦名)。谷風という艦名は2代目で、初代は1919年竣工・1935年除籍の江風型駆逐艦だった。除籍後は「廃駆逐艦第19号」と改称され、呉軍港で浮き桟橋として使われ続け、解体されたのは第二次大戦後のことだったという。皮肉にも、初代より先に2代目が戦没することになった。
■ 谷風 全戦歴ハイライト ■
【1941年12月8日】:真珠湾攻撃。第十七駆逐隊として機動部隊を護衛
【1942年6月5日】:ミッドウェー海戦。単艦で飛龍生存者救援に向かい、敵機を一身に引き受ける
【1942年8月18-24日】:一木支隊輸送、ラビの戦い
【1942年10月26日】:南太平洋海戦。以後は南方船団護衛が主任務に
【1943年7月】:クラ湾夜戦。涼風と共同で米軽巡「ヘレナ」を撃沈
【1944年3月31日】:第十六駆逐隊解隊、雪風編入で異例の5隻編成に
【1944年6月9日】:タウイタウイ湾口で米潜水艦ハーダーに撃沈される
エピソード① ミッドウェー——単艦で敵機を引き受けた男

1942年6月5日、ミッドウェー海戦。空母「飛龍」は集中攻撃を受けて航行不能となり、味方駆逐艦「巻雲」の雷撃(介錯)によって処分されようとしていた。しかし、水上機母艦「鳳翔」から発艦した九六式艦上攻撃機が、まだ浮いている飛龍の飛行甲板上に多数の人影を発見する。彼らは盛んに手を振っていた——生存者だった。この報告を受けた南雲忠一中将は、谷風に単艦での救援を命じる。

現場へ急行した谷風を待っていたのは、36機とも48機ともいわれる米軍機の波状攻撃だった。艦長・勝見基中佐の巧みな操艦により、谷風は爆弾の雨をまるでステップを踏むようにかわし続けた。主砲・機銃を空に向けて撃ち続け、榴弾を撃ち尽くすと徹甲弾や演習弾まで装填して反撃を継続。至近弾の破片1発が二番砲塔に飛び込み弾薬に引火、砲員6名が戦死したが、これ以外に致命的な被害を受けることはなかった。結局、飛龍の生存者を発見することはできず(既に総員退艦済みだったとみられる)、谷風は空しく引き揚げることになった。

■ 「無駄足」が艦隊を救った
結果だけを見れば谷風の飛龍捜索は空振りに終わった。しかし、飛龍や重巡「最上」「三隈」を追っていた敵機のすべてを谷風が一身に引き受けたことで、本隊もこれらの艦も発見を免れ生き延びることができた。しかも同じ頃、他の駆逐艦は空母4隻から救助した負傷者を戦艦へ移乗させる、極めて無防備な作業の真っ最中だった。つまりどういうことか——もし谷風が敵の目を引きつけていなければ、この移乗作業中の艦隊が発見され、さらなる惨事になっていた可能性が高い。谷風の「囮」としての奮闘は、記録に残る戦果以上の意味を持っていた。

とはいえ、ここからが本当の試練だった。駆逐艦が積める燃料には限りがある。機関をこれだけ酷使して生き延びた谷風にとって、この後、無事に本隊まで帰り着けるかどうかもまた、大きな賭けだった。

エピソード② 一木支隊とラビの戦い——ガダルカナルの泥沼へ

1942年8月18日、谷風は浜風・浦風・陽炎・嵐・萩風と共に、陸軍一木支隊先遣隊を乗せてトラック泊地を出撃、ガダルカナル島へ向かった。だが上陸した一木支隊は、予想を超える敵の重装備の前にイル川渡河戦で壊滅する。日本側はなおもヘンダーソン飛行場奪還を楽観視しており、並行してニューギニア島の攻略も進めていた。8月24日、谷風は今度はラバウルからラビへの輸送を実施。この時、第十七駆逐隊は第十八戦隊の指揮下に入り、磯風を除く3隻と天龍型軽巡2隻(天龍・龍田)が輸送船団を護衛した。しかし海図の誤りから誤った場所への揚陸となり、ラビの戦いは失敗に終わる。

この失敗の後、部隊は再びガダルカナル島へ向き直る。谷風をはじめ多くの駆逐艦が、輸送量の不足を回数で補う「鼠輸送」に投入された。駆逐艦に積めるだけの兵器・物資しか前線に送れないこの方式は、根本的な問題——ヘンダーソン飛行場の無力化——を解決できない限り、苦肉の策に過ぎなかった。飛行場を無力化できなければ艦砲射撃は一時しのぎにしかならず、それを阻止しようとする敵機動部隊も現れる。結局、空母を絡めた大規模な海戦が避けられなくなるのは時間の問題だった。この頃の輸送任務の最中、谷風は艦長・勝見基中佐を戦死という形で失っている。

エピソード③ クラ湾夜戦——軽巡「ヘレナ」撃沈

1942年10月26日の南太平洋海戦の後、谷風は主に南方での船団護衛任務に従事するようになる。そして1943年7月、クラ湾夜戦(コロンバンガラ島への輸送作戦をめぐる夜間水上戦闘)で、谷風は僚艦「涼風」と協力して米軽巡洋艦「ヘレナ」を撃沈するという大戦果を挙げた。この海戦は、日本側が得意とする夜間水雷戦の面目躍如といえる戦いで、レーダーを持たない日本駆逐艦が、視認と勘、そして猛訓練で鍛え上げた砲雷撃技術によって連合軍艦隊を打ち破った数少ない事例の一つだった。護衛と輸送に徹してきた谷風にとって、これは数少ない、しかし確実な水上戦闘の実績だった。

エピソード④ 「雪風は僚艦を食い尽くした」——不本意な5隻編成

1944年2月12日、第十七駆逐隊は重巡洋艦部隊を護衛してトラック泊地からリンガ泊地へ向かった。2月16-17日のトラック島空襲では、第十戦隊旗艦「阿賀野」、第四駆逐隊「舞風」が撃沈される。この頃、陽炎型4隻で構成されていた第十六駆逐隊は、「時津風」がビスマルク海海戦で、「初風」がブーゲンビル島沖海戦で相次いで沈没し、「天津風」も米潜水艦レッドフィンの雷撃で大破・長期修理中となり、健在なのは「雪風」1隻だけになっていた。3月31日、第十六駆逐隊は解隊され、雪風は第十七駆逐隊に配属される。

当時谷風に乗艦していた山田看護兵曹(谷風沈没後は浜風、さらに雪風へと異動)の証言によれば、この編入は必ずしも歓迎されなかったという。「雪風は十六駆で僚艦を全部食い尽くした」と、谷風の乗組員の間で囁かれたというのだ。前例のない5隻編成となり、艦船記号も5番艦分は定められていなかったため、雪風は便宜上、煙突に五角の輪を描いて識別したという。5月28日にタウイタウイへ進出、6月1日時点で第十七駆逐隊は第一小隊(司令駆逐艦磯風・浦風・谷風)と第二小隊(浜風・雪風)で編成されていた。

エピソード⑤ タウイタウイ湾口——ハーダーの牙

1944年6月9日、タウイタウイ泊地では米軍潜水艦の活動により日本海軍駆逐艦の撃沈が相次いでいた。湾外に敵潜水艦出現の報を受け、磯風(十七駆司令艦)・谷風・島風・早霜がタウイタウイ湾口で対潜警戒に従事する。午後10時過ぎ、谷風はボンガオ島より229度、9浬付近を航行していた。同時刻、米潜水艦ハーダーが谷風から900メートルの距離で魚雷4本を発射する。1本目は谷風の前を通過して外れたが、2本目・3本目が左舷艦首と左舷一番砲塔から艦橋真下にかけて命中。4本目は逸れていった。艦首、続いて艦中央部への被雷を受けた谷風は、22時25分に轟沈した。

■ 6月9日、タウイタウイ湾口の時系列 ■
22:00頃
ハーダー、谷風から900mの距離に接近
直後
魚雷4本発射。2本目が左舷艦首、3本目が左舷一番砲塔〜艦橋真下に命中
22:25
大爆発を起こしながら轟沈。爆発の閃光がハーダーの潜望鏡を眩ませる
直後
水中で搭載機雷が誘爆、漂流中の脱出者に多数の死傷者
磯風・沖波が救助。戦死114名、救助126名
■ 谷風を沈めた潜水艦、その後の顛末
翌6月10日、渾作戦に従事して戦艦「大和」「武蔵」を護衛していた駆逐艦「沖波」が、再びハーダーと交戦した。ハーダーは沖波を雷撃・撃沈したと報告し、沖波側もハーダーに爆雷攻撃を行い撃沈確実と報告している。実際にはどちらも致命傷には至らず、沖波は生き延びた。ハーダー自身は同年8月、第22号海防艦によって撃沈されている。6月14日、谷風の負傷者は磯風に移乗し、フィリピンのバコロド島へ移動した。
猫工艦の考察

谷風の本質は、目立たない「引き受け役」に徹することで、艦隊全体を救い続けた駆逐艦だったという点にある。ミッドウェーでの単艦出撃は、結果としては何も救えなかった「無駄足」に見えるかもしれない。しかし敵機を一身に引きつけたことで、無防備だった移乗作業中の艦隊は守られた。この目に見えにくい貢献こそが、谷風という艦の真価だったといえる。

しかし、その優れた操艦技術と回避能力をもってしても、レーダーで探知し正確に距離を測る米潜水艦の魚雷には抗えなかった。ハーダーという、後に米海軍屈指の撃墜王とも称される潜水艦の前に、谷風はほとんど反撃の機会もなく轟沈した。艦の爆発があまりにも激しく、攻撃した側の潜水艦までもが動揺したという事実は、この艦が最後まで積んでいた酸素魚雷・弾薬の威力を物語ると同時に、太平洋戦争後半における米潜水艦の技術的優位を示してもいる。

谷風が残したものは何か。それは、記録に残る戦果だけでは測れない「縁の下の犠牲」の価値である。ミッドウェーで示した捨て身の奮闘、クラ湾夜戦でのヘレナ撃沈、そして最後まで僚艦の盾であり続けた第十七駆逐隊での日々——谷風の艦歴は、太平洋戦争における駆逐艦の役割の複雑さを、静かに物語っている。猫工艦は、目立たぬところで艦隊を守り抜いた谷風の意志に、深い敬意を表したい。

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単艦で敵機を引き受けた艦——「谷風」の意志を、その身に纏え

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■ 参考文献・資料

  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書各巻(南東方面海軍作戦・中部太平洋方面海軍作戦)朝雲新聞社
  • ・アジア歴史資料センター(JACAR)谷風関連公文書・第十七駆逐隊戦時日誌戦闘詳報
  • ・ウォルター・ロード著、実松譲訳『逆転 信じられぬ勝利』フジ出版社、1969年
  • ・相良辰雄「クラ湾夜戦 大砲と魚雷の戦い」『丸別冊 太平洋戦争証言シリーズ1』潮書房、1985年
  • ・宮尾直哉『空母瑞鶴から新興丸まで 海軍軍医日記抄』近代文藝社、1992年
  • ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • ・Wikipedia「谷風 (陽炎型駆逐艦)」「陽炎型駆逐艦」「磯風 (陽炎型駆逐艦)」「浦風 (陽炎型駆逐艦)」
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