1942年6月5日16時15分、ミッドウェー海戦。集中攻撃を受けて総員退艦が決定した空母「蒼龍」の姿を見届けた駆逐艦「浜風」は、一通の電文を打った。「蒼龍沈没セリ 一六一五」。わずか十数文字のこの電報は、日本海軍が誇った主力空母4隻のうち3隻がこの日すでに失われ、帝国海軍の戦争の潮目が変わった瞬間を、静かに記録することになった。浜風はこの日、僚艦「磯風」と共に蒼龍の生存者を救助している。
陽炎型13番艦として1941年6月に竣工した「浜風」は、その3年10ヶ月の艦歴の中で、空母「蒼龍」「飛鷹」「信濃」、戦艦「武蔵」「金剛」、駆逐艦「白露」——帝国海軍を代表する主力艦の沈没に、実に多く遭遇し続けた艦だった。戦後、広島県呉市の呉海軍墓地に建てられた「第十七駆逐隊之碑」に並ぶ慰霊碑には、浜風が「第二次大戦中作戦参加の最も多い栄光の駆逐艦」であり、数々の輝かしい戦果と共に、これらの主力艦の乗員救助、そしてガダルカナル島の陸軍将兵救助でも、帝国海軍屈指の記録を持つ艦であったと刻まれている。戦友会「浜風会」の試算では、正確な人数が判明している武蔵・金剛・信濃の救助者だけで約1,500名、資料の乏しい蒼龍・赤城・飛鷹・白露分を合わせればおよそ3,000名、さらにガ島撤退で救った将兵が約2,000名——浜風はその小さな艦体で、実に5,000名にも及ぶ命を救い続けたことになる。
そして——1945年4月7日、戦艦「大和」と共に沖縄への海上特攻に出撃した浜風は、坊ノ岬沖でその生涯を閉じる。数えきれないほどの生存者を救い続けてきた艦にとって、この日ばかりは、自らが救われる側に回ることさえ叶わなかった。
2,752t(戦時最終)
(全周囲シールド)
九三式酸素魚雷16本
第十七駆逐隊
坊ノ岬沖 戦没
浜風は1939年11月20日、浦賀船渠で仮称第29号艦として起工した。竣工前の1941年11月、まだ艤装中だった浜風は東宝映画「八十八年目の太陽」(滝沢英輔監督)に、劇中の架空駆逐艦「ハヤカゼ」役として出演している。実戦を前にした一隻の駆逐艦が、スクリーンの中で「別の艦」を演じていたという事実は、開戦前夜という時代の空気を静かに物語る。1941年6月30日に竣工すると、浜風は即日呉鎮守府籍に編入され、僚艦「浦風」「磯風」「谷風」と共に第十七駆逐隊に加わった。
竣工前の建造中の姿が映画に使われるというのは、当時の海軍艦艇では珍しいことではなかったが、実際にわずか数ヶ月後には太平洋戦争の最前線で戦うことになる艦が、平時の娯楽映画に「架空の艦」として登場していたという事実には、独特の奇妙な余韻がある。つまりどういうことか——浜風の艦歴は、開戦というその境界線をまたいで始まっている。
1941年12月8日、真珠湾攻撃では第十七駆逐隊(浦風・磯風・谷風・浜風)が第一水雷戦隊(司令官大森仙太郎少将、旗艦「阿武隈」)に所属し、南雲機動部隊の護衛としてハワイへ向かった。同作戦の護衛駆逐艦は他に第十八駆逐隊(陽炎・不知火・霞・霰)と「秋雲」がいるのみで、朝潮型2隻を除けば全て陽炎型という、新鋭駆逐艦だけによる護衛体制だった。12月下旬のウェーク島攻略では、第八戦隊(利根・筑摩)および「谷風」と共に第二航空戦隊(蒼龍・飛龍)を護衛している。
1942年4月、機動部隊は英東洋艦隊をインド洋から一掃するためセイロン島へ向かった。修理のため不在の空母「加賀」を除く5隻の空母と金剛型戦艦4隻という重厚な編成で、4月5日にコロンボ、9日にはトリンコマリーを空襲。劣勢を悟った英艦隊は多くをすでに撤退させていたが、それでもこの戦いで空母「ハーミーズ」、重巡「ドーセットシャー」「コーンウォール」、駆逐艦「ヴァンパイア」「テネドス」が撃沈された。第十七駆逐隊はこの機動部隊護衛の一員として作戦に従事し、英東洋艦隊はこの後、長くインド洋に戻ってくることはなかった。
1942年6月5日、ミッドウェー海戦。第十七駆逐隊は今回も機動部隊の護衛にあたっていた。だがこの日、輝かしい戦果を挙げ続けてきた主力空母4隻のうち3隻が、次々と炎に包まれていった。被弾炎上した空母「蒼龍」は3発の直撃弾で機関を停止し、艦内各所で火災が発生。あっという間に総員退艦が決定される。浜風は僚艦「磯風」と共に(当初護衛にあたっていたのは駆逐艦「巻雲」だったとされる)蒼龍の退避を試みたが、火の勢いは止まらなかった。
蒼龍が力尽きると、生存者は急いで浜風・磯風の救助を受けた。この時すでに空母「加賀」も炎上し、「赤城」も同じ運命をたどりつつあり、洋上には幾筋もの黒煙が立ち込めていたという。浜風はこの光景を見届け、「蒼龍沈没セリ 一六一五」と打電した。わずか十数文字のこの電報は、日本海軍の主力空母4隻のうち3隻が失われたこの日の惨状を、簡潔かつ的確に伝える記録として残ることになった。
「蒼龍沈没セリ 一六一五」——事務的とも言えるこの短い電文は、日本海軍がミッドウェーで喫した歴史的敗北の瞬間を、感傷を排して淡々と伝えている。つまりどういうことか——浜風は戦果を挙げる艦であると同時に、帝国海軍の運命の転換点を記録し続ける「目撃者」でもあった。
6月14日に呉へ帰投した浜風は、翌15日には空母「瑞鶴」を駆逐艦「朧」「秋月」と共に護衛して北方へ移動、アリューシャン方面作戦に従事した。7月14日の艦隊再編で第七駆逐隊が第十戦隊から転出し、代わって陽炎型4隻(雪風・時津風・初風・天津風)の第十六駆逐隊が編入され、浜風ら十七駆の僚艦となる。
1942年8月7日、米軍がガダルカナル島に上陸し、太平洋戦争最大級の消耗戦が始まった。浜風は8月8日に本土を出港。8月18-19日、第四駆逐隊司令・有賀幸作大佐指揮下の陽炎型6隻(嵐・萩風・陽炎・谷風・浦風・浜風)は、陸軍一木支隊先遣隊をトラック泊地からガダルカナル島へ輸送した。揚陸は成功したが、送り届けたわずか約900名の兵は、17駆がラバウルに帰投した8月21日、イル川渡河戦でほぼ全滅している。浜風は、自らが運んだ兵士たちの運命の結末を、間接的にではあるが知ることになった。
続いてニューギニア島のラビ攻略作戦にも投入された。「磯風」を除く十七駆と天龍型軽巡2隻がラバウルからラビへ向かうが、海図の誤りにより間違った場所に揚陸してしまう。上陸した陸戦隊も道に迷い、海上との連絡も途絶えた。浜風は最後まで現地に残り、対地砲撃と信号連絡を試み続けたが、応答は得られず、やむなく単艦でラバウルへ引き返した。
海図の誤りという初歩的なミスから始まったラビの戦いは、日本軍の南太平洋方面作戦がまだ手探りの段階だったことを物語っている。浜風が最後まで送り続けた信号に応答がなかったという事実は、通信・連絡体制の不備が前線でどれほど致命的な混乱を生むかを示す一例でもある。この作戦は、8月18日から始まったガダルカナル島の戦いと並行して進行しており、日本軍は複数の戦線で同時に消耗を強いられていた。
1943年1月から2月にかけて実施されたガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)で、浜風は僚艦(谷風・浦風・磯風)と共に全3次の撤収作戦に投入された。前述の通り磯風だけで2,249名を救出した記録が残っているが、浜風もまた同様に多数の将兵を救出しており、浜風会の試算ではこの撤収作戦だけで約2,000名を救い出したとされる。この撤収作戦は「奇跡の撤退」とも呼ばれ、約1万名の将兵が敵の追撃をほぼ受けることなく撤収に成功した、太平洋戦争でも稀有な成功例だった。
この成功の背景には、駆逐艦部隊による夜間の反復輸送と、徹底した秘匿行動があった。日本側は撤収を「新たな攻勢の準備」であるかのように見せかける欺瞞工作を並行して行っており、米軍側がこの意図に気づいたのは撤収がほぼ完了した後だったとされる。浜風にとっては、輸送や護衛としての実務に加え、こうした欺瞞作戦の一翼を担うという、これまでとは異なる種類の任務でもあった。半年前に一木支隊の兵士たちを運び、その全滅を見送ることになった浜風にとって、今度は逆にガダルカナルから将兵を無事に連れ帰るという、いわば「取り戻す」任務だったとも言える。
1944年10月、レイテ沖海戦。磯風の記事でも触れた通り、僚艦たちは戦艦「武蔵」の最期を目撃し、サマール沖海戦で米護衛空母群に肉薄した。そして11月21日、日本本土へ帰投中の艦隊が台湾海峡で米潜水艦「シーライオン」の雷撃を受け、戦艦「金剛」と司令艦「浦風」が相次いで撃沈された。浦風は乗組員全員が戦死するという痛ましい結末だった。この喪失により、第十七駆逐隊の司令駆逐艦の地位は浜風が継承することになった(後任の駆逐隊司令が着任するまでの間は、艦長がその職務を代行した)。
わずか8日後の11月29日、竣工したばかりの超大型空母「信濃」が、米潜水艦アーチャーフィッシュの雷撃により沈没する。浜風は磯風・雪風と共に、ここでも生存者の救助にあたった。金剛、信濃——ひと月足らずの間に2隻の主力艦を見送り、そのたびに生存者を救い上げるという役回りを、浜風もまた磯風と分かち合っていた。
1945年1月8日、輸送船団「ヒ87船団」護衛任務中に浜風は座礁し、この時点で司令艦は磯風に戻された。この頃、浜風は駆逐艦「時雨」らと共に軽空母「龍鳳」の護衛にもあたっている。そして4月7日、戦艦「大和」による沖縄への海上特攻(天一号作戦)に、浜風以下の第十七駆逐隊も護衛として同行した。これは事実上の特攻作戦であり、生還を期し難い任務だった。
第一次空襲の最中、12時46分、浜風の船体後部に爆弾が命中し、推進軸が切損して航行不能となる。動けなくなった浜風に、立て続けに魚雷が右舷船体中央部へ命中。艦は真っ二つに折れ曲がり、12時49分に沈没した。乗組員約100名が戦死。艦長以下生存者256名は、駆逐艦「初霜」などに救助された。皮肉にも、この救助にあたった「初霜」もまた、同年7月に宮津湾で触雷・擱座することになる(ただし解体は戦後1948〜1949年)。浜風は1945年6月10日、帝国駆逐艦籍・第十七駆逐隊・不知火型駆逐艦のそれぞれから除籍された。
浜風の本質は、艦隊決戦を戦う戦闘艦であると同時に、太平洋戦争を通じて「最も多くの命を救い続けた駆逐艦」の一つだったという点にある。空母蒼龍・飛鷹・信濃、戦艦武蔵・金剛、駆逐艦白露——帝国海軍の中枢を担った艦艇の終焉に幾度も立ち会いながら、そのたびに生存者を海から引き上げ続けた。ガダルカナル島撤収作戦での救出、そして「蒼龍沈没セリ」という簡潔な電文が伝える冷静な記録者としての一面も、この艦の多面性を物語っている。
しかし、浜風自身の最期に、その救助の手が差し伸べられることはなかった。坊ノ岬沖で爆弾と魚雷を同時に受け、船体を真っ二つに折られたこの艦の最期は、あまりにも早く、あまりにも一方的だった。5,000名もの命を救い続けてきた艦が、自らを救う暇もなく沈んでいったという事実は、太平洋戦争終盤における制空権喪失の惨状を、何よりも雄弁に物語っている。
浜風が残したものは何か。それは、呉海軍墓地の慰霊碑に刻まれた「数々の輝かしい戦果」と「人命救助の面での帝国海軍屈指の記録」という、二つの顔を持つ艦の記憶である。開戦前夜には映画のスクリーンで別の艦を演じ、戦争の最前線では幾多の主力艦の最期を見届け続けたこの艦の航跡は、太平洋戦争における日本駆逐艦の役割の広さと重さを、静かに物語っている。猫工艦は、5,000の命を救い続け、そして自らは大和と共に散った浜風の航跡に、深い敬意を表したい。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書49・96『南東方面海軍作戦/沖縄方面海軍作戦』朝雲新聞社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)浜風関連公文書・第十七駆逐隊戦時日誌戦闘詳報
- ・学習研究社『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.19 水雷戦隊II 陽炎型駆逐艦』1998年
- ・雑誌「丸」編集部『ハンディ判日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 春雨型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年
- ・「第十七駆逐隊之碑」呉海軍墓地(長迫公園)碑文、浜風会
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・Wikipedia「浜風 (陽炎型駆逐艦)」「陽炎型駆逐艦」「磯風 (陽炎型駆逐艦)」「浦風 (陽炎型駆逐艦)」