「巨艦の最期を、幾度も見届けた」——蒼龍・武蔵・信濃・金剛、そして自らも雪風に見送られた陽炎型12番艦「磯風」の全記録

1945年4月7日13時56分、坊ノ岬沖。航行不能となった第二水雷戦隊旗艦「矢矧」への横付けを終えた直後、駆逐艦「磯風」は米軍機の攻撃を受けた。右舷後部への至近弾で機械室が浸水。速力は落ち、やがて漂流を始める。曳航を試みた僚艦「雪風」の魚雷は2度も艦底をすり抜け、最後は砲撃と3度目の魚雷でようやく処分が完了した。22時40分、磯風は沈んだ。戦死20名、負傷54名。皮肉にも、この最期は磯風にとって初めての経験ではなかった——この艦は、それまでに何隻もの「巨艦の最期」を、すぐ間近で見届け続けてきたからだ。

陽炎型12番艦として1939年11月に竣工した「磯風」は、真珠湾攻撃で機動部隊護衛に選ばれた第十七駆逐隊の一員として艦歴をスタートさせた。1942年6月のミッドウェー海戦で空母「蒼龍」の生存者を救助し、1944年6月のマリアナ沖海戦では空母「大鳳」の轟沈を目撃、同年10月のレイテ沖海戦では戦艦「武蔵」の最期を見届け、11月には空母「信濃」の生存者も救助している。艦隊の主力たちが次々と海に消えていくのを、磯風はその都度、最前列で見つめ続けてきた。

そして——1945年4月、今度は磯風自身が見送られる番だった。かつて自分が救助してきた側の艦が、僚艦「雪風」に引導を渡される最期を迎える。太平洋戦争を通じて、これほど多くの「巨艦の終わり」に立ち会った駆逐艦は、そう多くない。

■ 陽炎型12番艦「磯風」基本諸元 ■
建造所
佐世保海軍工廠
起工 1938年11月25日(仮称第28号艦)
進水 / 竣工
1939年6月19日 / 1939年11月30日
命名は同年5月1日
基準排水量
2,033t(基準)
2,530t(公試)
全長118.5m
最大速力
公試34.58ノット
出力52,390shp
主砲
三年式12.7cmC型連装砲
3基6門
魚雷
61cm4連装発射管×2基
(九三式酸素魚雷16本)
爆雷
16個
所属駆逐隊
第十七駆逐隊
(浦風・谷風・浜風、後に雪風)
最終・結末
1945年4月7日
坊ノ岬沖 戦没
僚艦「雪風」による処分 / 戦死20名
名誉ある随伴——真珠湾からセイロン沖まで

磯風は1938年11月25日、佐世保海軍工廠で仮称第28号艦として起工した。1939年5月1日に「磯風」と命名、6月19日進水、11月30日竣工。呉鎮守府籍として、僚艦「浦風」「谷風」と共に1940年12月15日に編成された第十七駆逐隊に所属した。1941年12月8日の真珠湾攻撃では、一水戦の中で第十七駆逐隊だけが機動部隊護衛に選ばれ、旗艦「阿武隈」・第十八駆逐隊・「秋雲」と共にハワイへ侵攻するという栄誉を担った。空母「瑞鶴」の後方を航行し続けたこの緊張の航海が、磯風の実戦の始まりだった。

開戦後も機動部隊の勢いは止まらなかった。ビスマルク諸島・ラバウル・ポートダーウィンへの空襲、そして1942年3月1日にはオランダ武装商船「モッドヨカード」との遭遇戦。国籍を示すよう通告したにもかかわらず無視して逃走したこの商船に対し、駆逐艦側は速度で優っていたにもかかわらず距離を詰める前に大量の砲撃を浴びせてしまい、後で少々お叱りを受けたという逸話も残る。結局、不知火・有明・夕暮と共同でこれを撃沈した。

■ 磯風 全戦歴ハイライト ■
【1941年12月8日】:真珠湾攻撃。一水戦で唯一選ばれた随伴駆逐隊として機動部隊を護衛
【1942年4月】:セイロン沖海戦。英空母ハーミーズ撃沈に参加、飛行艇搭乗員6名を捕虜として救助
【1942年6月5日】:ミッドウェー海戦、被弾から復旧。空母「蒼龍」の生存者を救助
【1943年1月】:ウェワク輸送成功、帰路に米潜水艦アルゴノートを撃沈
【1943年2月7日】:ケ号作戦第3次撤収中、爆弾2発で艦首大破。戦死24名
【1944年6月19日】:マリアナ沖海戦、空母「大鳳」の轟沈を目撃・救助
【1944年10月24-25日】:シブヤン海で戦艦「武蔵」の最期を目撃、サマール沖海戦で酸素魚雷8本発射
【1944年11月21-29日】:戦艦「金剛」・空母「信濃」の生存者を相次いで救助
【1945年4月7日】:坊ノ岬沖海戦で被弾、僚艦「雪風」により処分される
エピソード① 「磯風で甘やかしたから」——初めての捕虜と、艦隊の人間味

1942年3月末からインド洋に進出した機動部隊は、英東洋艦隊をこの海域から追い出す作戦に従事していた。4月4日、零式艦上戦闘機が敵の飛行艇を撃墜し、磯風はその搭乗員6名を捕虜として救出する。磯風にとって初めての捕虜揚収だった。乗員たちは彼らを手厚くもてなし、食事もしっかり与えて、ずいぶんと贅沢をさせたという。ところがその後、捕虜たちが空母「赤城」に移送されると、赤城ではそこまでの待遇ではなかったらしく、捕虜たちが不満を漏らし始めた。これを見た赤城の砲術長は「磯風で甘やかしたから捕虜が贅沢を言って困る」とぼやいたと伝えられている。

同じ頃、4月7日にはクリスマス島への「金剛」「榛名」による艦砲射撃を護衛した。ところがこの艦砲射撃だけでクリスマス島守備隊は白旗を掲げてしまい、そもそも同時上陸の予定もなかったため、降伏しているにもかかわらずこの日は上陸できずに引き返すという、いささか拍子抜けの結末を迎えている。数日後のセイロン沖海戦では、英空母「ハーミーズ」の撃沈などの戦果を挙げ、東洋艦隊はインド洋からその大半の戦力を撤退させた。

■ 戦場の合間に見える素顔
捕虜への厚遇も、クリスマス島の拍子抜けも、戦記が伝える「戦闘の記録」だけでは見えてこない磯風乗員たちの素顔だ。つまりどういうことか——太平洋戦争最激戦期の駆逐艦にも、人間味のあるやり取りは確かに存在していた。
エピソード② ミッドウェー——「蒼龍」の最期に立ち会った最初の巨艦

1942年6月5日、ミッドウェー海戦。磯風はSBD急降下爆撃機の至近弾を受け、一時航行不能に陥る。それでも復旧に成功したが、速力低下のため主力の水雷戦隊には随伴できなくなった。代わりに命じられたのが、被弾炎上する空母「蒼龍」の救援任務だった。蒼龍が力尽きて沈没すると、磯風は僚艦「浜風」と共にその乗組員を海上から引き上げ、さらに重巡「筑摩」が残置していった短艇の乗組員も回収している。

これが、磯風が生涯にわたって繰り返すことになる「巨艦の最期を見届け、生存者を救う」という役回りの、最初の出来事だった。赤城・加賀・飛龍も含め、日本海軍の主力空母4隻を一日で失うという歴史的大敗の中で、磯風は目立たないが確実な救助任務を果たし続けた。

エピソード③ ウェワク輸送とアルゴノート撃沈——ニューギニアでの奮闘

1942年後半、日本軍はニューギニア島の防衛強化を決定する。12月18日、磯風はウェワクへの輸送任務を成功させた。年が明けて1943年1月5日、第十七駆逐隊と「舞風」は5隻の輸送船を護衛し、ラバウルからラエへ向けて出撃する(第十八号作戦)。しかしこの海域はポートモレスビーの連合軍航空基地に近く、7日の空襲で輸送船「日龍丸」が沈没、揚陸中にも「妙高丸」が被弾し、沈没を避けるためやむなく擱座させるなど、2隻の輸送船を失う損害を被った。それでも輸送そのものは概ね成功したとされる。

この作戦の帰路、九九式艦上爆撃機が米潜水艦「アルゴノート」(アルゴノート級)を発見し、爆雷で攻撃した。浮上したところを磯風と舞風が砲撃し、これを撃沈している。輸送の護衛だけでなく、対潜戦闘でも確実に戦果を上げていたことが分かる。

エピソード④ ケ号作戦——5,876名を救い、翌週に艦首を失う

1943年2月、ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)が発動される。第十七駆逐隊(谷風・浦風・浜風・磯風)は全3回の撤収作戦すべてに投入され、驚異的な数の将兵を救い出した。第一次撤収作戦では谷風408名・浦風771名・浜風807名・磯風1,075名、第二次撤収作戦では谷風208名・浦風790名・浜風634名・磯風1,174名——磯風だけで両作戦を合わせて2,249名、17駆全体では合計5,876名もの将兵をガダルカナル島から救い出した計算になる。

だが、この輝かしい救出劇には代償が伴った。第三次撤収作戦中の2月7日午後4時前後、磯風はアメリカ軍機の空襲を受ける。爆弾2発が1番砲塔の前後に命中し、艦首部分を損傷。大火災が発生し、舵も故障、スクリューが海面上に露出するほどの浸水被害を受けた。駆逐艦「長月」や「時津風」が曳航を申し出るも磯風はこれを断り、17ノットで自力にて戦場を離脱した(一部証言では駆逐艦「江風」に曳航されたともいう)。この被弾で24名が戦死、7名が負傷した。同じくケ号作戦に参加していた「五月雨」の乗員は、磯風の1番砲塔下の船体が大きく損傷し、右舷から左舷へ完全に貫通しているのを目撃したと伝えている。

■ ケ号作戦、栄光と代償 ■
第1次撤収
磯風、1,075名を救出
第2次撤収
磯風、1,174名を救出
2/7 16時頃
第3次撤収中、爆弾2発が1番砲塔前後に命中。艦首大破、大火災、舵故障
被弾直後
曳航の申し出を断り、17ノットで自力離脱。戦死24名・負傷7名
■ 「日本海軍最高武勲艦」という誤解の真相
磯風はしばしば「太平洋戦争における日本海軍の最高武勲艦」と紹介されるが、これは正確ではない。出典は元乗組員・井上理二の著書『駆逐艦磯風と三人の特年兵』(1999年)で、同書は戦史研究家・志摩達雄が『第十七駆逐隊戦闘詳報』などの5件の文献をもとに「最高武勲艦と認定した」と紹介している。しかし志摩自身が1997年『丸』5月号に寄せた実際の記事では、「戦没した駆逐艦133隻すべてを武勲艦としたい」と前置きした上で、その中の代表例として磯風を選んだと書かれているに過ぎず、「最高」という表現そのものは使われていない。つまりどういうことか——磯風の艦歴自体は間違いなく特筆すべきものだが、「最高」という評価は後世に一人歩きした誇張だった。
エピソード⑤ 大鳳・武蔵——1944年、巨艦たちの終焉に立ち会い続けて

1944年3月31日、僚艦「雪風」が第十七駆逐隊に編入され、磯風・浦風・谷風・浜風・雪風の5隻編成という前例のない体制になる。同日、連合艦隊司令長官・古賀峯一大将が殉職する海軍乙事件が発生している。6月9日、タウイタウイ泊地で僚艦「谷風」が米潜水艦ハーダーの雷撃を受け、磯風の目前で撃沈された。

その10日後、マリアナ沖海戦。大鳳直衛として参加していた磯風は、米潜水艦アルバコアの雷撃を受けた空母「大鳳」が、しばらく航行を続けた後に大爆発を起こして沈没する一部始終を目撃する。この日、空母「翔鶴」も撃沈され、第一航空戦隊の残存空母は「瑞鶴」のみとなった。磯風は大鳳の生存者救助にあたったが、戦死者を水葬する際に必要な軍艦旗が不足し、代わりに毛布を使用したという。

同年10月、レイテ沖海戦。10月8日、第17駆逐隊の司令艦は磯風から「浦風」に変更されていた。10月24日、シブヤン海で集中攻撃を受けて落伍していく戦艦「武蔵」の最期を、磯風水雷長・白石東平大尉が写真に収めている。この日、僚艦「浜風」「清霜」は武蔵護衛のため艦隊本隊から分離した。翌25日のサマール沖海戦では、磯風は米護衛空母群に肉薄し、酸素魚雷8本を発射した——これは同じく参加した浦風・雪風・野分の各4本発射に対して2倍の数であり、遠距離発射のため命中はしなかったものの、この艦の戦闘への全力投球ぶりを物語っている。帰路は燃料不足のため、戦艦「榛名」から曳航給油を受けた。

エピソード⑥ 金剛、そして信濃——それでも救い続けた11月

1944年11月21日、台湾海峡で米潜水艦シーライオンの雷撃を受け、戦艦「金剛」と司令艦「浦風」が相次いで撃沈された(浦風は乗組員全員が戦死)。磯風は金剛の生存者を救助し、以後、第17駆逐隊の司令艦は「浜風」に変更された。

わずか8日後の11月29日、竣工したばかりの超大型空母「信濃」が、米潜水艦アーチャーフィッシュの雷撃により沈没する。磯風は浜風・雪風と共に、ここでも生存者の救助にあたった。金剛、信濃——ひと月足らずの間に、磯風は2隻の主力艦の終焉に立ち会い、そのたびに生存者を救い上げ続けた。1945年1月8日には浜風が座礁したため、司令艦は再び磯風に戻っている。

エピソード⑦ 坊ノ岬沖——雪風に引導を渡された最期

1945年4月7日、戦艦「大和」による沖縄への海上特攻(天一号作戦)に、磯風以下の第十七駆逐隊も護衛として同行した。この時、磯風には新谷喜一大佐以下、第17駆逐隊司令部が乗艦していた。空襲序盤、17駆僚艦「浜風」が轟沈。その後、航行不能となった第二水雷戦隊旗艦「矢矧」から「司令官(古村啓蔵少将)移乗のため横付けせよ」との命令が入る。空襲のタイミングを見計らって矢矧に接近し、舫索を結んだ直後、磯風は米軍機の襲撃を受けた。速度を落としていたため回避しきれず、13時56分、右舷後部への至近弾で機械室に浸水。機銃掃射でも多数の死傷者が出た。

15時25分には速力12ノットで北方へ退避中と報告するが、浸水は進み、修理も及ばず、やがて航行不能となって漂流した。駆逐艦「初霜」に救助されていた古村少将は、佐世保への帰投を急ぐため損傷艦の曳航を認めず、磯風の処分を決定する。19時25分、雪風による曳航準備が進められていたが、潜水艦の襲撃や翌日の空襲を懸念した古村少将は再び処分を命じた。磯風の乗組員は雪風へ移動。大和沈没から8時間後の22時30分、雪風は雷撃で磯風を処分しようとするが魚雷は艦底を通過。砲撃も方位盤の狂いで命中せず、最終的に魚雷が命中して搭載魚雷が誘爆、22時40分に磯風は沈没した。戦死20名、負傷54名、生存326名。乗員の中には14歳で入隊した特別年少兵も含まれていた。

■ 4月7日、坊ノ岬沖の時系列 ■
13:56
矢矧に横付け直後、至近弾で機械室浸水
15:25
速力12ノットで北方退避を報告
日没後
浸水進行、航行不能となり漂流。古村少将、処分を決定
19:25
乗組員、雪風へ移乗
22:40
雪風の砲雷撃処分により沈没。戦死20名、負傷54名、生存326名
猫工艦の考察

磯風の本質は、艦隊の中枢で起きる「巨艦の最期」に、繰り返し立ち会い続けた稀有な駆逐艦だったという点にある。蒼龍、大鳳、武蔵、金剛、信濃——日本海軍を象徴する主力艦たちが海に消えていく瞬間の多くに、この艦は居合わせ、そのたびに生存者を救い上げてきた。ケ号作戦での5,876名の救出と、その直後の大破からの生還も含め、磯風は常に「終わりの現場」に立ち続け、そこから人を救い出す役割を担い続けた艦だった。

しかし、その磯風自身の最期もまた、皮肉にも「僚艦に処分される」という形を取った。坊ノ岬沖で航行不能となった磯風を救ったのは曳航ではなく、雪風による砲雷撃処分だった。かつて多くの巨艦の最期を見届け、生存者を救い続けてきた艦が、最後には自らその「見届けられる側」に回ったという事実は、太平洋戦争終盤における日本海軍の全体的な消耗を象徴している。「最高武勲艦」という誇張された評価を必要としないほどに、この艦の実際の艦歴は十分に重い。

磯風が残したものは何か。それは、艦隊の主力が次々と失われていく戦争の後半において、「最後まで人を救おうとし続けた」駆逐艦の記録である。捕虜を厚遇した人間味、クリスマス島での拍子抜けした一幕、そして5,876名を救い出した使命感——その全てが、この艦の艦歴を単なる戦闘記録以上のものにしている。猫工艦は、幾度も巨艦の最期に立ち会い、そして自らも僚艦に見送られた磯風の航跡に、深い敬意を表したい。

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巨艦の最期を、幾度も見届けた艦——「磯風」の意志を、その身に纏え

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■ 参考文献・資料

  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書26・49・62・83『蘭印・ベンガル湾方面/南東方面海軍作戦/中部太平洋方面海軍作戦<2>/沖縄方面海軍作戦』朝雲新聞社
  • ・アジア歴史資料センター(JACAR)磯風関連公文書・第十七駆逐隊戦時日誌戦闘詳報
  • ・井上理二『駆逐艦磯風と三人の特年兵 波涛の中の青春』光人社NF文庫、1999年
  • ・阿部三郎『特攻大和艦隊 帝国海軍の栄光をかけた十隻の明暗』霞出版社、1994年(光人社NF文庫版2005年)
  • ・志摩達雄「『大和特攻』に殉じた駆逐艦「磯風」の奮闘」『丸』1997年5月号
  • ・学習研究社『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.19 水雷戦隊II 陽炎型駆逐艦』1998年
  • ・木俣滋郎『潜水艦攻撃 日本軍が撃沈破した連合軍潜水艦』光人社、2000年
  • ・Wikipedia「磯風 (陽炎型駆逐艦)」「陽炎型駆逐艦」「雪風 (駆逐艦)」
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