1943年11月11日午前7時5分、ラバウル湾外。スコールに紛れて脱出を図る「涼波」に、タブルブル山方面から雷撃機が突入してきた。涼波は機銃を撃ちまくり1機を撃墜する——これがこの艦にとって最初で最後の戦果だった。だが投下された魚雷4本のうち3本を回避した直後、残る1本が一番魚雷発射管付近に命中。予備魚雷への引火・誘爆により、涼波の船体は両断され、わずか1分で沈没した。艦長・神山昌雄中佐以下、多くの乗員が戦死した。
「涼波」は夕雲型駆逐艦10番艦として、浦賀船渠で建造され、1943年7月27日に竣工した。早波・藤波と共に第三十二駆逐隊を編成し、ポナペ島輸送、そしてラバウルへの進出——竣工からわずか107日、夕雲型19隻の中でも高波(91日)に次いで2番目に短い艦歴で、その生涯を終えることになる。
興味深いのは、涼波を救おうとした艦の艦長との巡り合わせである。涼波の生存者を救助した「大波」の艦長・吉川潔中佐は、かつて第三次ソロモン海戦で、涼波艦長・神山昌雄中佐と僚艦として肩を並べて戦った戦友だった。この記事では、短くも濃密な涼波の艦歴と、その最期に交わった2人の駆逐艦乗りの因縁を辿る。
約2,772〜2,940t(満載)
「涼波」は浦賀船渠にて1942年3月から1943年7月末にかけて建造された。1943年7月27日に竣工すると、訓練部隊の第十一水雷戦隊に編入され、旗艦「龍田」や姉妹艦と共に内海西部で訓練に従事する。8月20日、涼波は早波・藤波と共に新編の第三十二駆逐隊に所属した。初代司令は、駆逐艦「夕立」の初代艦長、「時津風」の初代艦長を歴任した中原義一郎大佐だった。
9月30日、第三十二駆逐隊は第二水雷戦隊に編入される。10月中旬、丁三号輸送部隊としてトラック泊地に進出した涼波は、龍田と共にポナペ島への輸送任務を実施した。そして11月上旬、第三十二駆逐隊は第二艦隊を基幹とする重巡洋艦部隊と共に、ラバウルへの進出を命じられる。
1943年11月11日午前6時18分、日本軍偵察機からの通報を受けた第二水雷戦隊は、米軍機動部隊の空襲を予期し、折からのスコールに紛れてラバウル港外への脱出を開始した。涼波は北水道を通過し湾外へ向かう。午前7時5分、タブルブル山(花吹山)方面から突入してきた雷撃機1機を、涼波は機銃で撃墜する——竣工からこの日まで、涼波にとって唯一の戦果だった。
だが安堵する間もなく、別の雷撃機編隊が涼波に襲いかかった。投下された魚雷4本のうち3本は必死の操艦で回避したが、残る1本が一番魚雷発射管付近に命中する。爆発で艦は左に傾き、予備魚雷格納所から火災が発生。艦橋でも艦長・神山昌雄中佐を含む戦死者が出た。さらに急降下爆撃機の攻撃を受け、爆弾1発が後部電信室付近に命中する。
涼波が挙げた唯一の戦果(雷撃機1機撃墜)と、艦を沈めることになった被雷は、ほぼ同じ数分間の出来事だった。つまりどういうことか——短い艦歴の中で、涼波は勝利と喪失を同時に味わうという、極めて凝縮された最期を迎えた。
涼波の沈没後、約100名の生存者は駆逐艦「大波」に救助された。この大波の艦長こそ、吉川潔中佐——猫工艦がすでに紹介した、朝潮型「大潮」でバリ島沖海戦を戦い、白露型「夕立」で第三次ソロモン海戦の単艦突入を成し遂げた、あの名艦長である。
そして、涼波と共に沈んだ艦長・神山昌雄中佐もまた、第三次ソロモン海戦で駆逐艦「春雨」の艦長を務め、吉川艦長の「夕立」と第二駆逐隊第二小隊を組んで共に戦った戦友だった(ただし乱戦の中、先頭を行く夕立を見失い、夕立の反転突入には加われなかったという)。1年後、その戦友が指揮する大波が、涼波の生存者を救助することになったのは、決して偶然とは思えない巡り合わせである。
さらに涼波は、その4日前——11月5日の第一次ラバウル空襲を、偶然にも回避していた。損傷したタンカー「日章丸」の救援任務のため艦隊本隊から分離していたため、多くの重巡洋艦が大打撃を受けたこの空襲を涼波は免れていたのである。しかし、その幸運は長くは続かなかった。
第三次ソロモン海戦で共に戦った戦友が、1年後には片方の艦の生存者をもう片方が救う立場になった。つまりどういうことか——太平洋の戦場で交錯した駆逐艦乗りたちの人間関係は、艦を超えて長く続いていたことを、この巡り合わせは物語っている。
涼波の本質は、竣工からわずか107日という短い艦歴の中に、勝利・幸運・悲劇のすべてが凝縮されていたという点にある。第一次ラバウル空襲を偶然の任務分離で回避し、単艦でラバウルへ舞い戻り、最初で最後の戦果を挙げた直後に致命傷を受ける——この目まぐるしい展開は、太平洋戦争末期のソロモン方面がいかに一瞬の判断が生死を分ける戦場だったかを物語っている。
しかし、涼波の物語を単なる悲劇として終わらせないのが、神山昌雄艦長と吉川潔艦長の因縁である。第三次ソロモン海戦で共に戦った2人の駆逐艦乗りが、1年後には片方の死と、もう片方による生存者救助という形で再び交わった。この事実は、艦と艦、人と人との間に張り巡らされた、駆逐艦乗りたちの見えない絆を静かに物語っている。
涼波が残したものは何か——それは、短い艦歴であっても、その中に人と人とのつながりが確かに存在したという記録である。夕雲型19隻の中で2番目に短い艦歴を終えた涼波だが、その最期に立ち会った人々の記憶は、艦の寿命よりもずっと長く残り続けている。猫工艦は、この短くも濃密な艦歴を歩んだ涼波の乗員たちと、彼らを支えた駆逐艦乗りたちの絆に、敬意を表したい。
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第32駆逐隊戦時日誌・第11水雷戦隊戦時日誌・舞鶴鎮守府戦時日誌
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書『ラバウル空襲』『ブーゲンビル島沖航空戦』関連巻
- ・山本平弥ほか『秋月型駆逐艦〈付・夕雲型・島風・丁型〉』潮書房光人社、2015年
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫、1993年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・Wikipedia「涼波 (駆逐艦)」「夕雲型駆逐艦」「ラバウル空襲」「大波 (駆逐艦)」