1944年11月13日、マニラ港。5日前の空襲で損傷し応急修理中だった「沖波」は、この日のマニラ大空襲から逃れることができなかった。停泊していた木曾・曙・初春・秋霜ら僚艦と共に、沖波は港内で大破着底する。撃沈ではなく「着底」——動けぬまま港の底に沈んだ艦の姿は、制海権も制空権も失われた戦争末期の日本海軍の現実を、静かに物語っていた。
しかし沖波を語る上で欠かせないのは、その最期ではなく、それまでに何度も繰り返した「救助」の記録である。1944年6月、米潜水艦「ハーダー」に撃沈された「谷風」の生存者を救出。10月、サマール沖海戦では撃沈された重巡「鈴谷」の乗員412名(一説には415名)を救助。さらに姉妹艦「早霜」の救援にも尽力し、11月には自らも被弾しながら重巡「那智」の生存者を救った。
「沖波」は夕雲型駆逐艦14番艦として、舞鶴海軍工廠で1942年8月に起工され、1943年12月10日に竣工した。この記事では、幾度も他艦の乗員を救い続けた「救助の艦」としての沖波の全戦歴を辿る。
約2,772〜2,940t(満載)
「沖波」は1942年度(マル急計画)仮称第342号艦として、1942年8月5日、舞鶴海軍工廠にて起工された。1943年5月25日、姉妹艦「岸波」「朝霜」と共に命名され、同日付で夕雲型駆逐艦に登録。7月18日に進水し、12月10日に竣工した。竣工後は第十一水雷戦隊で訓練に従事する。
1944年1月29日、沖波は「岸波」と共に、燃料欠乏に苦しむ空母「雲鷹」隊の救援に向かう。2月7日、雲鷹隊は無事横須賀に到着した——沖波にとって、これが最初の「救助」任務だった。2月10日、それまで「長波」単艦になっていた第二水雷戦隊隷下の第三十一駆逐隊に、沖波は「岸波」「朝霜」と共に編入され、同駆逐隊は夕雲型4隻となる。長波が前年のラバウル空襲の損傷修理中だったため、当面は3隻での輸送作戦投入となった。
1944年10月、捷一号作戦発動。第三十一駆逐隊(岸波・沖波・朝霜・長波)は栗田健男中将率いる第一遊撃部隊(栗田艦隊)に所属し、レイテ沖海戦に投入された。10月25日、サマール沖で米護衛空母部隊と交戦する中、重巡洋艦「鈴谷」が撃沈される。沖波はこの海戦で、沈みゆく鈴谷の乗員412名(戦史叢書では415名とも)を救助するという、大規模な救助活動を成し遂げた。
さらに沖波は、同じ戦闘で損傷した姉妹艦「早霜」の救援にも尽力している。一つの海戦の中で、複数の艦の乗員を救い続けたこの働きは、駆逐艦としての戦闘任務とは別の、もう一つの重要な役割を沖波が担っていたことを物語っている。その後、沖波は損傷した重巡「熊野」を護衛してマニラに帰投した。
鈴谷1隻だけで400名超という規模の救助は、駆逐艦1隻が単独で成し遂げるにはあまりに大きな数字である。つまりどういうことか——沖波の乗員たちは、自艦の定員をはるかに超える人数を収容し、支え続けるという困難な任務を、戦闘の合間に成し遂げていた。
1944年5月14日から、沖波はタウイタウイ方面で対潜警戒任務についていた。6月9日、付近で対潜掃討作戦に従事していた僚艦「谷風」が、米潜水艦「ハーダー」の襲撃を受け轟沈する。沖波はすぐさま現場に急行し、谷風乗員の救助にあたった。奇しくもこの「ハーダー」は、後に夕雲型「早波」をも撃沈することになる潜水艦であり、太平洋戦争後期の日本海軍にとって、繰り返し脅威となった存在だった。
そして1944年11月5日、マニラ在泊中の沖波は空襲を受けて損傷しながら、同時に沈没した重巡洋艦「那智」の生存者救援にもあたっている。自らが被害を受けている最中にも他艦の乗員を救おうとしたこの行動は、沖波という艦の一貫した姿勢を象徴していた。
被弾しながら他艦の生存者を救うという行動は、簡単に下せる判断ではない。つまりどういうことか——沖波の乗員たちには、自らの安全よりも救助を優先するという意識が、繰り返しの経験を通じて根付いていたのかもしれない。
レイテ沖海戦後、第三十一駆逐隊は第二遊撃部隊(指揮官志摩清英中将)に編入され、第一水雷戦隊司令官・木村昌福少将(旗艦「霞」)の指揮下で多号作戦に従事した。10月31日、沖波は多号作戦第二次輸送部隊の警戒部隊一番隊(霞・沖波)として、輸送船団と共にマニラを出撃。11月1日にオルモック湾へ到着し、揚陸作業中は霞と組んで湾南西方向を警戒した。
だが11月5日、マニラ在泊中の沖波は空襲で損傷する。応急修理のため同港に留まっていたところへ、11月13日、マニラ大空襲が襲いかかった。停泊していた木曾・曙・初春・秋霜ら僚艦と共に、沖波は港内で大破着底する。多くの乗員を救い続けてきた艦が、自らは動くことすらできないまま、港の底に沈められた。
谷風・鈴谷・那智と、幾度も他艦の乗員を救ってきた沖波自身には、最後にその手を差し伸べてくれる艦はいなかった。つまりどういうことか——制空権を失った港内という戦場では、いかに優れた救助の実績を持つ艦であっても、無力な標的にならざるを得なかった。
沖波の本質は、駆逐艦という艦種が本来持つ「戦闘」の役割と同じくらい、「救助」の役割を果たし続けたという点にある。谷風、鈴谷、早霜、那智——これだけ多くの艦の生存者を救い続けた記録は、夕雲型19隻の中でも際立っている。特に鈴谷での400名超という規模の救助は、駆逐艦1隻の乗員定数をはるかに超える人数を受け入れるという、実務的にも精神的にも大きな負担を伴う任務だったはずである。
しかし、沖波自身の最期には、誰の手も差し伸べられなかった。マニラ港で大破着底したこの艦は、「撃沈」ですらなく「着底・放棄」という、静かで目立たない形で戦列を去った。これほど多くの命を救ってきた艦の最期が、これほど地味な結末を迎えたという事実は、太平洋戦争という戦争の非情さを改めて突きつけてくる。
沖波が残したものは何か——それは、戦闘艦でありながら、それ以上に「人を救う艦」であり続けたという記録である。谷風の乗員も、鈴谷の乗員も、那智の乗員も、沖波がそこにいたからこそ生き延びることができた。猫工艦は、繰り返し他艦の命を救い続け、最後は自らを救う艦を持たなかった沖波と、その乗員たちに深い敬意を表したい。
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第31駆逐隊戦時日誌・第一遊撃部隊戦時日誌・第一水雷戦隊戦時日誌
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書『捷号作戦』『レイテ沖海戦』『多号作戦』関連巻
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫、1993年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・山本平弥ほか『秋月型駆逐艦〈付・夕雲型・島風・丁型〉』潮書房光人社、2015年
- ・Wikipedia「沖波 (駆逐艦)」「夕雲型駆逐艦」「サマール沖海戦」「谷風 (陽炎型駆逐艦)」