1942年11月30日23時16分、ガダルカナル島ルンガ岬沖。駆逐艦「長波」の艦橋で、第二水雷戦隊司令官・田中頼三少将は霧の彼方を見つめていた。「敵艦発見っ、7隻っ!」——見張り員の叫びに、田中は腹の底から声を張り上げる。「陸揚げ中止っ! 戦闘ぉっ!」。重巡4隻を含む米艦隊9隻を相手に、駆逐艦8隻だけで挑んだ戦いは、日本側の圧勝に終わった。重巡「ノーザンプトン」撃沈、「ミネアポリス」以下3隻大破。日本側の損失は姉妹艦「高波」1隻のみ——長波はこの夜、太平洋戦争屈指の戦術的勝利を、旗艦として見届けた艦である。
「長波」は夕雲型駆逐艦4番艦として、藤永田造船所で1941年4月に起工され、1942年6月30日に竣工した。姉妹艦「巻波」と共に第三十一駆逐隊を編成し、ガダルカナル島を巡る死闘の最前線に投入される。ルンガ沖夜戦の栄光だけでなく、輸送船団護衛での将兵救助、米潜水艦からの鹵獲品まで、その艦歴は太平洋戦争中期の縮図のようでもあった。
しかし栄光は長くは続かなかった。ミッドウェーもガダルカナルも、レイテ沖海戦さえも生き延びた長波に、最後の試練が訪れる。1944年11月、フィリピン・オルモック湾。この記事では、ルンガ沖夜戦の勝利から、347機の敵機に襲われた壮絶な最期までを辿る。
約2,772〜2,940t(満載)
「長波」は1941年4月5日、藤永田造船所にて起工された。1942年6月30日、竣工。舞鶴鎮守府籍となる。竣工後は横須賀鎮守府部隊に所属し、哨戒や訓練に従事した。8月31日、日本海軍は「長波」と「巻波」により第三十一駆逐隊を新編する。トラック泊地に進出した第三十一駆逐隊は、第二水雷戦隊各隊・各艦と共にガダルカナル島の戦いに投入されることになった。
初陣は10月13日、戦艦「金剛」「榛名」によるヘンダーソン飛行場艦砲射撃の護衛任務だった。自身も艦砲射撃に加わりながら、この砲撃を阻止しようとした米魚雷艇を追い払っている。10月26日には南太平洋海戦にも参加。11月からは輸送任務を担い、ガダルカナル島への物資・兵員輸送という過酷な任務が続くことになる。
1942年11月30日、田中頼三少将率いる第二水雷戦隊は、ドラム缶輸送のためガダルカナル島ルンガ岬沖に接近していた。長波は臨時の増援部隊旗艦とされ、田中少将自らが座乗していた。20時00分、警戒のため先行していた「高波」が敵艦隊を発見。21時16分、田中少将は「揚陸止め!全軍突撃せよ」と全軍に下令する。相手はカールトン・H・ライト少将率いる重巡4隻、軽巡1隻、駆逐艦6隻の大艦隊——数の上では圧倒的に不利だった。
米艦隊の猛砲撃を一身に浴びた「高波」が発する炎を明かりに、第二水雷戦隊の残る艦は次々と必殺の九三式酸素魚雷を発射した。旗艦「ミネアポリス」の艦首に2本が命中して大破、「ニューオリンズ」は弾薬庫が誘爆、「ペンサコラ」は大火災、「ノーザンプトン」は2本被雷しそのまま沈没した。日本側の損失は「高波」1隻のみ——駆逐艦だけの部隊が、重巡洋艦中心の艦隊に壊滅的打撃を与えるという、海戦史でも稀有な戦果だった。
ルンガ沖夜戦は日本側の圧勝だったが、輸送任務そのものは失敗に終わった。つまりどういうことか——長波が見届けたこの夜の栄光は、個々の戦闘での勝利が必ずしも戦局全体を好転させるわけではないという、太平洋戦争の構造的な矛盾を象徴していた。
1942年11月14日、第三次ソロモン海戦。第38師団将兵を乗せた輸送船11隻の船団を護衛していた第二水雷戦隊は、米軍機の波状攻撃を受ける。8次にわたる反復攻撃で輸送船6隻が沈没するという壊滅的な被害の中、長波は沈みゆく輸送船から陸兵570名を救助した。救助者を満載した長波・巻波・江風・涼風の4隻は、もはや戦闘に耐えられる状態ではなかったが、それでも田中少将は残存兵力でガダルカナルへの輸送を続行させている。
2年後の1944年10月、レイテ沖海戦。パラワン水道で米潜水艦2隻の奇襲を受けた栗田艦隊で、座礁した米潜水艦「ダーター」を発見した長波は、僚艦「鵯」と共に約3分間の砲撃を加えた。この際、13ミリ機銃を含む可能な限りの鹵獲品を回収し、分捕った機銃は長波の後檣右舷側に装備されたという。敵の潜水艦から奪った武器を自艦に装備するという、駆逐艦乗りたちのしたたかさを物語るエピソードである。
空襲下で570名を救った献身と、座礁した敵潜水艦から機銃を分捕った実利主義——両方とも長波という艦の一面である。つまりどういうことか——駆逐艦乗りには、人命を救う優しさと、戦場で使えるものは何でも利用する逞しさの両方が求められた。
ルンガ沖夜戦を戦った第二水雷戦隊の艦は、その後も次々と失われていった。あ号作戦(マリアナ沖海戦)でも捷一号作戦(レイテ沖海戦)でも、長波は生き残り続けた。しかし1944年11月、フィリピン・レイテ島の戦局を支えるための多号作戦(オルモック輸送作戦)が、長波にとって最後の戦いとなる。
11月11日、長波は第二水雷戦隊司令官・早川幹夫少将指揮下、旗艦「島風」以下「浜波」「朝霜」「若月」と共に、陸兵2,200名を乗せた輸送船5隻を護衛してオルモック湾へ向かっていた。正午前、第38任務部隊の艦載機347機が護衛部隊に襲いかかる。長波艦長・飛田清中佐は「対空戦闘」を号令し、弾薬が尽きるまで抗戦した。
生き残った長波乗員43名は海軍陸戦隊に編入され、マニラ市街戦やフィリピン地上戦に投入された。戦後まで生き延びた長波乗員はわずか3名だったと伝えられる。だが、艦長・飛田清中佐は生還を果たし、戦後は海上自衛隊に入隊、「あさかぜ」艦長などを歴任した。ルンガ沖夜戦の指揮官だった田中頼三元少将は、戦後も長く長波の慰霊祭に参列し続け、「立派な若い駆逐艦乗りを多く失った」と乗員たちへの哀惜を語ったという。
ルンガ沖夜戦を戦った艦の中で、長波は最も長く——あ号作戦もレイテ沖海戦も生き延びた。つまりどういうことか——「最後まで残る」ことは決して安全を意味せず、むしろより過酷な戦場へ投入され続けることを意味した。長波の最期は、その必然的な帰結だったのかもしれない。
長波の本質は、太平洋戦争を通じて「勝利」と「消耗」という相反する2つの記憶を体現し続けた艦だという点にある。ルンガ沖夜戦での戦術的大勝利は、駆逐艦部隊だけで重巡洋艦部隊を撃破するという海戦史上稀有な戦果だった。しかし、その勝利は戦略的には輸送任務の失敗であり、田中少将は勝利したにもかかわらず叱責されるという皮肉な結末を迎えている。
しかし、この矛盾こそが太平洋戦争という戦争の本質を映し出している。長波は570名の陸兵を救い、敵潜水艦から機銃を分捕り、あ号作戦もレイテ沖海戦も生き延びた——その粘り強さは称賛に値する。一方で、生き残り続けることは、より過酷な戦場へ投入され続けることと同義でもあった。オルモック湾での347機との死闘は、その粘り強さの果てにあった、避けがたい終着点だったと言えるだろう。
長波が残したものは何か——それは、ルンガ沖夜戦という「勝ったのに負けていた戦争」の象徴を旗艦として見届けたという記録である。戦後まで生き延びた乗員はわずか3名だったが、艦長・飛田清中佐は生還し、海上自衛隊へとその経験をつないだ。田中頼三元少将が晩年まで慰霊祭に通い続けたという事実は、この艦と乗員たちが多くの人々の記憶に深く刻まれ続けたことの証だろう。猫工艦は、勝利と消耗の両方を背負ったこの艦の艦歴に、静かな敬意を表したい。
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第31駆逐隊戦時日誌・横須賀鎮守府戦時日誌
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書29・37・56『北東方面海軍作戦』『海軍捷号作戦』関連巻
- ・初田太四郎(元「長波」機銃長)「強運艦『長波』快心の中央突破四十八時間」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ』学習研究社
- ・半藤一利『ルンガ沖夜戦』朝日ソノラマ、1984年
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫、1993年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・Wikipedia「長波 (駆逐艦)」「夕雲型駆逐艦」「ルンガ沖夜戦」「多号作戦」