1944年6月7日午前11時34分、タウイタウイ近海。米潜水艦「ハーダー」の潜望鏡を発見した「早波」は、回避するのではなく、真一文字に潜望鏡めがけて突進した。ハーダー艦長サミュエル・D・ディーレイは、衝突寸前ともいえる600メートル足らずの距離で魚雷3本を5秒おきに発射する。そのうち2本が早波に命中——第三十二駆逐隊司令・折田常雄大佐、艦長・清水逸郎中佐以下253名が戦死した。発見から撃沈まで、ハーダーの戦闘報告によればわずか9分から12分の出来事だったという。
「早波」は夕雲型駆逐艦12番艦として、舞鶴海軍工廠で1942年1月に起工され、1943年7月31日に竣工した。涼波・藤波と共に第三十二駆逐隊創設時のメンバーとなり、ギルバート・マーシャル諸島方面の輸送任務、そして1944年1月には米潜水艦ウルフパックの襲撃を生き延びるなど、太平洋各地を転戦してきた。
しかし1944年6月上旬、日本海軍は米潜水艦の襲撃により駆逐艦4隻(水無月・早波・風雲・谷風)を立て続けに喪失するという、痛恨の「黒い一週間」を経験する。早波はその最初の犠牲艦の一つだった。この記事では、僚艦「水無月」の捜索中に自らも命を落とすことになった早波の、短くも激動の艦歴を辿る。
約2,772〜2,940t(満載)
「早波」は1942年度(マル急計画)仮称第340号艦として、1942年1月15日、舞鶴海軍工廠にて起工された。7月10日に「早波」と命名され、同日付で夕雲型駆逐艦に類別。12月19日に進水し、舞鶴鎮守府籍となる。1943年7月31日に竣工すると、清水逸郎中佐が初代艦長となり、8月20日、涼波・藤波と共に新編の第三十二駆逐隊の一員となった。
1943年11月のラバウル進出では、僚艦「涼波」が壮絶な戦没を遂げる中、早波はこれを生き延びる。年末にはギルバート・マーシャル諸島方面への増援部隊輸送の任務にあたるが作戦は中止となり、以後は単艦でタンカーの護衛任務などをこなしながら1944年を迎えた。
1944年1月、早波はパラオ方面で船団護衛の任にあたっていた。1月12日、哨戒艇「第102号」・駆逐艦「島風」と合流した早波は、トラック諸島へ向かう輸送船3隻(国洋丸・日本丸・健洋丸)の護衛任務を行っていた。しかし1月14日、米潜水艦3隻からなるウルフパックがこの船団を襲撃する。
この襲撃で真っ先に狙われた駆逐艦「漣」が沈没し、続いて輸送船「日本丸」「健洋丸」も沈められた。護衛部隊にとって痛恨の被害だったが、早波自身はこの死闘を生き延びている。潜水艦戦の恐ろしさを目の当たりにしたこの経験は、半年後、早波自身が同じ運命をたどることになる予兆だったのかもしれない。
1月の襲撃では護衛対象を守れず、しかし自らは生き延びた早波。つまりどういうことか——この経験は、太平洋戦争後期において潜水艦がいかに脅威となっていたかを物語ると同時に、早波自身がいずれこの脅威に呑まれる予感を、皮肉にも先取りしていた。
1944年6月6日、米潜水艦「ハーダー」(サミュエル・D・ディーレイ艦長)はシブツ海峡でタンカー船団を発見・攻撃し、駆逐艦「水無月」を撃沈した。翌7日、早波は行方不明となった水無月の捜索と対潜掃討にあたっていた。折からのスコールを抜けたハーダーは航空機を発見し潜航、その約1時間後、潜望鏡越しに「吹雪型駆逐艦」——実際には早波を発見する。
ハーダーが戦闘配置を令し様子をうかがっていると、早波は真一文字に潜望鏡めがけて突進してきた。これが敵潜水艦を発見しての体当たり的な攻撃行動だったのか、あるいは全く別の意図だったのかは定かではない。午前11時34分、ハーダーは600メートル足らずの至近距離で早波の真正面めがけ、5秒おきに魚雷3本を発射。そのうち2本が命中し、早波は沈没した。
ハーダーの戦闘報告によれば、早波の発見から撃沈までは9分から12分という短時間の出来事だった。つまりどういうことか——熟練した米潜水艦の索敵能力と、至近距離での正確な雷撃が、いかに短時間で駆逐艦を仕留めうるかを、この一件は示している。
早波の戦没は、単独の悲劇ではなかった。1944年6月上旬、日本海軍は潜水艦の襲撃により駆逐艦4隻(水無月・早波・風雲・谷風)を立て続けに失うという痛恨の週を経験する。当時の第二艦隊参謀長・小柳冨次少将は、第一機動艦隊参謀から「駆逐艦がやられるので、敵潜が出現しても駆逐艦を派遣しないでくれ」との申し入れを受けたと回想している。タウイタウイ泊地周辺の制海権が、いかに脅かされていたかを物語る証言である。
そして早波の戦没は、僚艦「玉波」の運命にも影響を及ぼした。第三十二駆逐隊司令・折田常雄大佐の戦死により、玉波艦長だった青木久治中佐が新たな司令に昇格し、本来「早波」の艦長に着任する予定だった千本木十三四中佐が、代わって玉波の艦長に着任することになったのである。奇しくもこの人事異動でしまった千本木中佐もまた、わずか1ヶ月後、玉波の戦没と共に命を落とすことになる。
早波の喪失は、第三十二駆逐隊の人事を巻き込み、次の喪失(玉波)にまでつながっていった。つまりどういうことか——太平洋戦争末期、艦の喪失は単発の出来事ではなく、隊全体の人的・組織的な連鎖として重くのしかかり続けていた。
早波の本質は、僚艦「水無月」を捜し続けたその任務の延長線上で、自らも同じ敵に呑まれたという点にある。1月のウルフパック襲撃を生き延びた経験を持つ艦が、半年後には自ら潜水艦との死闘の当事者となった——この巡り合わせは、太平洋戦争後期の日本海軍が直面していた潜水艦の脅威の大きさを、静かに、しかし確実に物語っている。
しかし、早波の物語はそこで終わらない。この艦の喪失は、司令・折田常雄大佐の戦死という形で第三十二駆逐隊の人事に波及し、玉突き的に配置転換された千本木十三四中佐もまた1ヶ月後に戦没するという、連鎖する悲劇を生んだ。一つの艦の喪失が、次の艦の運命にまで影を落としていくという構造は、この時期の日本海軍が置かれていた極限状況を象徴している。
早波が残したものは何か——それは、「黒い一週間」と呼ぶべき駆逐艦4隻連続喪失の、最初の1隻としての記録である。潜望鏡めがけて突進したその最期の行動の真意は、今となっては誰にも分からない。しかし早波と、その乗員たちが最後まで任務に忠実であり続けたという事実だけは、確かにここに記録されている。猫工艦は、僚艦を捜し続けたその先で命を落とした早波の乗員たちに、敬意を表したい。
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第32駆逐隊戦時日誌・舞鶴鎮守府戦時日誌
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書『マリアナ沖海戦』『潜水艦作戦』関連巻
- ・宇垣纏『戦藻録』原書房、1968年
- ・山本平弥ほか『秋月型駆逐艦〈付・夕雲型・島風・丁型〉』潮書房光人社、2015年
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫、1993年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・Wikipedia「早波 (駆逐艦)」「夕雲型駆逐艦」「ハーダー (潜水艦)」