日本近海を守り、勝浦の海に眠る駆逐艦——「沖風」の全記録

1943年1月10日、千葉県勝浦沖。東京湾口での対潜掃討任務についていた駆逐艦「沖風」は、米潜水艦「トリガー」の雷撃を受け、勝浦灯台の南方8海里の海に沈んだ。艦長・井内儀三郎少佐も、この日戦死している。竣工から22年余り、日本近海の警備と船団護衛に徹してきた艦の最期は、故郷からほど近い海で迎えることになった。

「沖風」は峯風型駆逐艦の3番艦として、舞鶴海軍工廠で建造され、1920年8月17日に竣工した。「峯風」「澤風」「矢風」とともに第2駆逐隊を編成し、空母「赤城」直衛の「トンボ釣り」、第一次上海事変での長江水域作戦、そして太平洋戦争開戦後は北方・関東近海での哨戒と船団護衛——「沖風」はその艦歴の大半を、日本近海を守るという地味だが欠かせない任務に費やし続けた。

その艦歴の中には、後に皇族として知られることになる人物が艦長を務めた時期もある。そして「沖風」が沈んだ勝浦の海には、戦後、生存者たちの手によって、ある観音像が建てられることになる。この記事では、「沖風」の艦歴と、その戦没から30年以上を経て刻まれた、静かな記憶の物語を辿る。

■ 峯風型3番艦「沖風」基本諸元 ■
建造所
舞鶴海軍工廠
命名 1920年6月18日
竣工
1920年8月17日
横須賀鎮守府籍
基準排水量
1,215t(竣工時)
→公試1,345t
全長 102.6m
出力
38,500馬力
計画速力39.0ノット
主砲
12cm単装砲 4門
竣工時仕様
魚雷兵装
53.3cm連装発射管(魚雷8本)
六年式魚雷
所属部隊
第2駆逐隊(峯風・澤風・矢風)
大湊警備府付属他
特筆データ
皇族・博義王少佐が艦長を歴任
戦後、勝浦に慰霊碑建立
最終艦名・結末
1943.1.10 勝浦沖で戦没
米潜水艦トリガーの雷撃
前史——赤城のトンボ釣りと、長江水域の作戦

竣工した「沖風」は横須賀鎮守府に所属し、1920年12月、同型艦「峯風」「澤風」「矢風」とともに第2駆逐隊を編成、第2艦隊第2水雷戦隊に編入された。1930年11月、第2駆逐隊は第1航空戦隊に編入され、空母「赤城」の直衛として不時着機の救助にあたる、いわゆる「トンボ釣り」に従事する。1932年の第一次上海事変では、長江水域の諸作戦に参加した。

1940年10月11日には、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に参加している。竣工から20年を経てなお、「沖風」は日本海軍の重要な式典に立ち会い続けていた。太平洋戦争開戦直前の1941年10月、大湊警備府付属に編入され、12月8日以降は室蘭・厚岸方面、そして津軽海峡東方での哨戒任務についた。北の海を守る任務は、「沖風」にとって、開戦劈頭からの重要な役割だった。

■ 「沖風」の全戦歴ハイライト ■
【1920.8.17】:舞鶴海軍工廠で竣工。第2駆逐隊を編成
【1930.11】:空母「赤城」直衛のトンボ釣りに従事
【1932.5-12】:皇族・博義王少佐が艦長を務める
【1940.10.11】:紀元二千六百年特別観艦式に参加
【1941.10】:大湊警備府付属編入、北方哨戒任務
【1942.4-11】:横須賀鎮守府編入、東京湾口・三陸沖で船団護衛と対潜掃討
【1943.1.10】:米潜水艦「トリガー」の雷撃を受け勝浦沖で戦没
【1977年】:生存者が私費で「勝浦平和観音」を建立
エピソード①——皇族が指揮した駆逐艦

1932年5月2日から同年12月1日まで、「沖風」の艦長を務めたのは博義王少佐だった。皇族の一員でありながら、日本海軍の軍人として「沖風」の指揮を執ったこの人物は、後年、峯風型の僚艦「島風」の第三駆逐隊司令として黄浦江での作戦に参加し、中国軍の射撃を受けて戦傷を負うことになる。「沖風」艦長を務めた経験は、博義王のその後の海軍軍人としての歩みの、1つの通過点だった。

皇族が駆逐艦の艦長を務めるという事実は、当時の日本社会において、皇族もまた軍務に就き、実際の任務を遂行する存在であったことを示している。「沖風」の艦歴の中に、こうした人物が刻まれていたという事実は、この艦が日本海軍の歴史の中で、決して周縁的な存在ではなかったことを物語っている。

■ 艦から艦へ、受け継がれる人の物語
「沖風」で艦長経験を積んだ博義王が、後に「島風」で戦傷を負うことになったという事実は、1人の軍人の物語が、複数の艦を渡り歩きながら紡がれていったことを示している。艦の記録は、単独では完結しない——人と艦の物語は、常に重なり合っている。
エピソード②——関東近海を守る、地道な任務

1942年4月10日、「沖風」は横須賀鎮守府に編入され、大湊を出港して4月13日に横須賀へ入港した。以後、この艦の任務は、日本の近海を守るという、決して華々しくはないが不可欠な仕事に費やされていく。4月25日から横須賀・串本間の船団護衛、5月25日から東京湾口での対潜掃討、6月には入渠修理、7月から再び東京湾口での船団護衛——「沖風」の艦歴は、こうした任務の反復によって織りなされていた。

9月30日からは三陸沖方面での対潜掃討・船団護衛にあたり、11月には横須賀に戻って東京湾口の船団護衛を担った。南方の激戦地から遠く離れた日本近海でも、米潜水艦の脅威は現実のものであり、「沖風」のような旧式駆逐艦が、その防衛の最前線に立ち続けていた。1942年11月7日、井内儀三郎少佐が新たな艦長として着任する。

エピソード③——勝浦沖、そして戦後に建てられた観音像

1943年1月9日、「沖風」は横須賀を出港し、東京湾口での対潜掃討任務についた。翌1月10日、米潜水艦「トリガー」(USS Trigger, SS-237)が発射した魚雷が「沖風」を捉え、艦は勝浦灯台の南方8海里の海に沈んだ。艦長・井内儀三郎少佐もこの日戦死している。竣工から22年余り、常に日本近海の防衛に徹してきた艦の最期は、皮肉にも本土のすぐ近くの海だった。

だが「沖風」の物語は、この戦没で終わらなかった。千葉県勝浦市川津には、「沖風」の生存者たちが1977年、私費を投じて建立した「勝浦平和観音」がある。この観音像は、戦没から34年を経てなお、生存者たちの手によって仲間の記憶を刻み続けるために建てられた。そして今なお、毎年1月10日——「沖風」が沈んだその日に——慰霊祭が執り行われている。

■ 生存者たちが守り続ける記憶
艦が沈んでから30年以上を経て、なお自らの私費を投じて記念碑を建て、そして毎年慰霊祭を続けるという行為は、戦争を生き延びた者たちが背負い続けた重い記憶を物語っている。「沖風」が今に伝えるのは、艦そのものの記録だけでなく、それを生き延びた人々が、どのように仲間を弔い続けたかという記録でもある。
■ 勝浦沖、最期とその後 ■
1943.1.9
横須賀出港、東京湾口対潜掃討へ
1943.1.10
米潜水艦「トリガー」の雷撃で戦没。艦長戦死
1977年
生存者が私費で「勝浦平和観音」を建立
現在
毎年1月10日、慰霊祭が続けられている
猫工艦の考察

「沖風」の本質は、竣工から22年余り、太平洋戦争のほとんどを日本近海の防衛という地味な任務に費やし続け、そして本土のすぐ近くで最期を迎えた艦だった、という一点にある。空母「赤城」のトンボ釣り、長江水域での作戦、そして北方から関東近海までの哨戒——この艦は常に、目立たないが不可欠な任務を担い続けた。

皇族・博義王がこの艦の艦長を務めたという事実、そして後に「島風」で戦傷を負ったという巡り合わせは、「沖風」の艦歴が単独では完結しない、より大きな人と艦の物語の一部であったことを示している。そして何より、この艦の物語を特別なものにしているのは、戦後30年以上を経てなお、生存者たちが私費を投じて仲間を弔い続けたという事実だろう。

「沖風」が残したものは何か。それは、艦そのものの記録を超えて、それを見送った人々がどのように記憶を守り続けたかという、静かだが確かな証である。「勝浦平和観音」という形で、今も毎年続けられる慰霊祭は、戦争の記憶がどのように次の世代へ受け継がれていくべきかを、私たちに問いかけ続けている。猫工艦は、峯風型3番艦「沖風」と、井内儀三郎少佐をはじめとする乗組員たち、そして仲間の記憶を守り続けた生存者たちに、深い敬意を表したい。

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日本近海を守り、勝浦の海に眠る駆逐艦——「沖風」の記録を、その身に纏え

「戦後30年を経てなお続く、生存者たちの祈り」

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■ 参考文献・資料

  • ・アジア歴史資料センター(JACAR)海軍辞令公報(部内限)各号
  • ・『紀元二千六百年祝典記録・第六冊』369頁
  • ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
  • ・海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年
  • ・千葉県勝浦市企画課「広報かつうら No.804」2016年2月5日
  • ・千葉県隊友会夷隅支部「隊友夷隅だより NO23」2024年2月1日
  • ・『丸スペシャル』第51号 日本の駆逐艦Ⅱ、潮書房、1981年
  • ・Wikipedia「沖風 (駆逐艦)」「峯風型駆逐艦」「島風 (峯風型駆逐艦)」
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