1973年11月3日、福島県いわき市・三崎公園。かつて駆逐艦「澤風」だった蒸気タービンの前で、艦魂碑の除幕式が執り行われていた。式典には、旧海軍軍人・軍属で結成された海友会の招きにより、高松宮宣仁親王その人が臨席していた。台座のプレートに刻まれた「艦魂」の文字は、親王自らが筆を執ったものだった。竣工から53年、戦後の防波堤としての役目を終えてなお、この艦は多くの人々の記憶と敬意によって、静かに残り続けていた。
「澤風」は峯風型駆逐艦の2番艦として計画されたが、三菱長崎造船所において起工から進水・竣工までの全工程を、型名艦「峯風」よりも早く完了させた「第1号艦」となった。この事実により、峯風型は文献によっては「澤風型」「澤風級」とも呼ばれている。1920年3月16日の竣工から、1945年9月15日の除籍まで、実に25年半——「澤風」は日本海軍が運用した一等駆逐艦の中でも最古参の艦となり、そして戦後は日本で初めて軍艦を沈めて作られた防波堤として、第二の人生を歩むことになった。
その艦歴には、濃霧の中での座礁事故、僚艦との接触事故、曳船を沈めてしまった衝突事故——数々のヒヤリとする瞬間が刻まれている。だが同時に、被雷した特設水上機母艦の救助、ソ連船の拿捕、そして正体不明の敵潜水艦を巡る謎めいた囮作戦など、この艦は太平洋戦争の様々な局面に、その名を刻み続けた。25年半の艦歴、そして戦後28年を経てなお続いた記憶の物語——「澤風」の生涯を辿る。
→公試1,345t
1919年2月26日、「澤風」は予行運転のため長崎を出港した。だが日本海軍にとってまだ新しい技術だったパーソンズ社製ギアードタービンのライセンス生産品は、この時点で故障が頻発していた。全力公試に移る過程でタービン回転を増加させていたところ、右舷高圧タービンに振動が生じ、炭素パッキン部が焼損。予行運転は中止を余儀なくされる。長崎に帰港して開放検査を行うと、右舷高圧タービンだけでなく左舷高圧タービン、さらには低圧タービンにまで損傷が確認され、右舷高圧タービンでは動翼の多数脱落とタービン軸の屈曲という重大な故障が明らかになった。
それでも「澤風」は1920年3月16日に海軍へ引き渡され、型名艦「峯風」よりも早く、峯風型全15隻の中で最初に全工程を完了した艦となった。この事実から、峯風型は文献によって「澤風型」「澤風級」とも呼ばれることになる。同年12月、「峯風」「矢風」「沖風」とともに第二駆逐隊が編成され、第二艦隊第二水雷戦隊に編入された。竣工直後からトラブルに見舞われながらも、「澤風」はこうして日本海軍水雷戦隊の中核を担う存在としての歩みを始めた。
1925年6月3日午前4時10分頃、択捉島単冠湾の程越岬付近。濃霧の中を航行していた和田省三艦長率いる「澤風」は、暗礁に乗り上げてしまう。艦首部には甚大な損害が生じ、キール(竜骨)まで折損。艦底部には最大160cmという大きな破孔が開いた。それでも乗組員の懸命な努力により離岩に成功、最寄りの函館船渠での修理が決まったが、当時の駆逐艦修理資材は乏しく、本格修理は困難と判断される。結局、函館では応急の補強工事のみを施し、横須賀工廠であらためて本格修理を受けることになった。
それから2年後の1927年9月23日午前9時頃、長浦港沖。森口重市艦長率いる「澤風」は、曳船「第一横須賀」(300トン)と接触し、曳船側が沈没するという事故に見舞われる。この日は強風のため、本来「澤風」は港内に停泊する予定だったが断念せざるを得ないほどだった。港沖には戦艦「伊勢」、重巡「古鷹」、軽巡「北上」「五十鈴」「由良」「阿武隈」など多くの艦艇が停泊しており、目標のブイに向かうには、停泊艦同士のわずかな隙間を進む必要があった。
接近する曳船を視認した森口艦長は警笛とサイレンで警告したが、曳船側は「澤風が避けるだろう」という憶測のもと進行を続けていた。森口艦長の的確な指令により、間一髪で衝突そのものは回避され、「古鷹」の右舷側で両艦は「川」の字になる形で機関停止した。だがその後、「澤風」が再び移動しようとした際、強風に煽られて曳船との距離が急速に縮まる。乗組員総出で竿や木板、櫂を使って曳船を押し退けようと試みたが、及ばず「澤風」は曳船に衝突。破損した「第一横須賀」は沈没してしまった。
「澤風」の艦歴に刻まれた事故の数々は、決して乗組員の怠慢によるものではなかった。濃霧、強風、混雑した停泊地——自然の力と艦艇運用の複雑さは、戦闘とは異なる形で、常に駆逐艦乗りたちに緊張を強いていた。
1943年6月23日未明、「澤風」は船団護衛で伊豆半島南部・神子元島沖を航行中だった。特設水上機母艦「相良丸」(日本郵船、7,189トン)が、米潜水艦「ハーダー」の攻撃を受ける。ハーダーが発射した魚雷4本のうち1本が命中し、「相良丸」は航行不能となった。「澤風」はただちに曳航を開始し、同日、武蔵護衛のため横須賀に到着していた夕雲型「玉波」、秋月型「若月」も救難作業と対潜護衛に駆けつけた。
翌24日、「澤風」は「相良丸」を天竜川河口に擱座させることに成功する。だがこの座礁した「相良丸」は7月4日、米潜水艦「ポンパーノ」からの攻撃で魚雷2本が命中し、激浪にも翻弄された末、9月1日に船体放棄・除籍となった。救助の努力が実を結ばなかった、苦い結末だった。
そして9月9日未明、今度は「相良丸」を傷つけたのと同じ米潜水艦「ハーダー」が、函館へ向かう輸送船団を発見する。犬吠埼東南東11kmの地点で発射された魚雷のうち1本が輸送船「甲陽丸」(日本郵船、3,022トン)に命中した。魚雷自体は不発だったが、命中の衝撃で船体に亀裂が入り、被雷から半日後の午後2時、「甲陽丸」の船体は放棄される。午後3時、「澤風」が救助に駆けつけ曳航を開始したが、わずか1時間17分後の午後4時17分、「甲陽丸」は沈没してしまった。皮肉にも、ハーダー側の攻撃記録には当初「与えた損害なし」とだけ記されていたという。
「相良丸」は座礁までは成功したが最終的に失われ、「甲陽丸」は曳航を始めてわずか1時間余りで沈んだ。「澤風」の救助活動は、いつも成功するわけではなかった。それでも駆けつけ続けたという事実こそが、この艦の本質を物語っている。
1944年1月14日、横須賀鎮守府は八丈島方面での敵潜水艦誘致作戦を計画する。客船に見立てた特設砲艦「でりい丸」を囮とし、迎撃艦艇で対潜掃討を行うという「乙作戦支隊」だった。「澤風」も合流する手筈だったが、1月15日夜、護衛にあたっていた「旗風」「千鳥」が、偶然発生した別の船団護衛任務のため離脱してしまう。「でりい丸」は「第50号駆潜艇」とともに、単独で作戦海域を南下することになった。
1月16日午前0時20分頃、米潜水艦「ソードフィッシュ」が「でりい丸」を単なる商船と誤認し、雷撃を加えた。魚雷は船首左舷に命中し、船体は船橋から前後に切断される。老朽化した船首側は分解し、船尾側もついに浸水を食い止められず、午前3時37分に総員退去が発令されたわずか2分後に沈没した。救命ボートを降ろす間もない急な最期で、乗員の約8割にあたる軍人145〜155名・軍属6名が戦死する惨事となった。
「澤風」は「でりい丸」被雷の報を受け急行、午前8時に現場へ到着する。その後、航空機が発見した「敵潜水艦」に対し、「澤風」「第50号駆潜艇」「第23号掃海艇」の3隻が合計30発(澤風12個・第23号掃海艇8個・第50号駆潜艇10個)の爆雷を投下する徹底的な対潜掃討を実施した。日没と同時に大きな水柱と油膜、気泡の湧出を確認し、「撃沈確実」と判定された。だが戦後の調査では、「でりい丸」を沈めた「ソードフィッシュ」は既にその12時間も前に海域を離脱していたことが判明し、この戦果は「誤認戦果」と結論づけられている。それでも、複数の航空機と艦艇が確かに何かを発見・攻撃し、大量の油と気泡が湧き出続けたという記録は残っており、その正体は今も謎のままである。
数々の危機を乗り越えた「澤風」は、1944年12月に海軍対潜学校練習艦、1945年には対潜実験艦への改造、そして第1特攻戦隊の特攻攻撃訓練目標艦として運用された後、横須賀において無傷のまま終戦を迎えた。1945年9月15日、25年半に及ぶ艦歴の末に除籍される。
戦後、食糧増産のため漁獲高向上が急務とされる中、小名浜港には防波堤が必要とされていた。だがコンクリートや石材が不足する戦後日本において、連合国軍総司令部(GHQ)の強い方針もあり、旧海軍艦艇を沈めて防波堤とする「軍艦防波堤」が各地で計画されることになる。「澤風」は1948年、浦賀船渠でマストや艦橋など上部構造物を撤去され、最低限浮かぶ状態に改装された後、救難艇「栗橋」に曳航されて小名浜港へ到着した。
1948年4月2日午前5時30分、18名の作業員により沈設作業が開始される。午後1時15分から船体内部への注水が始まり、午後2時45分、船底の着座が確認され、防波堤として完成した。「澤風」は日本で初めて軍艦を利用した沈船防波堤となり、28年間の駆逐艦としての生涯を終えたのである。同年8月25日には、同型艦「汐風」も近くの一号埠頭付近に沈設されている。GHQの厳命によりタービンを取り外さないまま沈設されたため、船体には金目のものが多く残っており、防波堤完成後は鉛や鉄材を狙う解体業者による盗掘被害にも見舞われた。
1965年10月、魚市場拡張のため澤風防波堤の解体・撤去作業が始まる。250トンもの鉄材スクラップが回収され、当初は競争入札での売却が検討されたが、当時まだ多くの元乗組員が存命しており、記念として一部を残したいという声が上がった。旧海軍軍人・軍属で結成された海友会がスクリューの保存を試みたものの、長年の埋没で取り出しは困難とされ、代わりにスクラップの一部がいわき市小名浜市民会館前の広場に一時保管されることになる。だがその後約10年近く、風雨にさらされたまま放置され、地元でもその存在は忘れられていった。
転機は社団法人海洋学校調査部による調査だった。放置されたスクラップの存在を知った調査部は、地元海友会を通じて永久保存に動き出す。ちょうど市が古物商への売却を検討していた矢先、海友会の元軍人たちが当時の大和田弥一市長のもとを訪れ、記念碑設立の趣旨を説明した。市長はこれを快諾し、無償でのスクラップ払い下げと、三崎公園の市有地提供を決定する。1973年11月3日、福島県海友会会長・吉田真治元海軍大尉が、かつて高松宮宣仁親王の教官を務めていた縁から親王を式典に招き、艦魂碑除幕式が執り行われた。台座に刻まれた「艦魂」の文字は、宣仁親王自らの筆によるものである。
艦魂
高松宮宣仁親王自らの筆による揮毫。三崎公園の澤風タービン記念碑に刻まれている
——1973年11月3日、艦魂碑除幕式にて
「澤風」の本質は、峯風型の「第1号艦」として誕生し、竣工直後のタービン重大故障を乗り越え、25年半という日本海軍最古参の一等駆逐艦としての艦歴を、無傷のまま終戦まで生き延びたという一点にある。座礁、衝突、そして数々の救助活動——「澤風」の艦歴は華々しい戦果よりも、地道な事故対応と救難活動によって織りなされていた。それでもこの艦は、竣工から終戦まで、日本海軍の変遷のほぼ全てに立ち会い続けた。
しかし「澤風」の物語が本当に特別なのは、その戦後にある。日本で初めて軍艦を利用した沈船防波堤となり、地域の漁業を支えるという、戦闘艦としては異例の平和な「第二の人生」を歩んだ。そして1965年の撤去後、一時は忘れられかけたその記憶は、元乗組員や地域住民の尽力によって呼び覚まされ、最終的には皇族までもが臨席する記念式典として結実した。
「澤風」が残したものは何か。それは、戦争の記憶を平和の中でどう受け継いでいくか、という問いそのものである。防波堤として地域を支え、その後は記念碑として人々の記憶に刻まれ続ける——この艦の生涯は、駆逐艦という存在が、戦争の終わりの後もなお、様々な形で人々の暮らしと記憶に寄り添い続けることを示している。猫工艦は、峯風型の「第1号艦」として生まれ、25年半の艦歴と28年の防波堤としての奉仕を経て、なお記憶され続ける「澤風」に、深い敬意を表したい。
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)横須賀鎮守府戦時日誌・第十一水雷戦隊戦時日誌・第三海上護衛隊戦時日誌・伊勢防備隊戦時日誌戦闘詳報
- ・『丸スペシャル』第51号 日本の駆逐艦II、潮書房、1981年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・西日本重工業長崎造船所庶務課『三菱長崎造船所史 第1巻』
- ・大井篤『海上護衛戦』学習研究社(学研M文庫)、2001年
- ・『写真日本の軍艦 第4巻 空母II』光人社、1989年
- ・いわき民報 昭和40年10月7日・昭和48年11月5日各号
- ・『小名浜沿岸域形成史』小名浜沿岸域研究会、1983年
- ・いわき市史編さん委員会『いわき市史 第4巻 近代』1994年
- ・Wikipedia「沢風 (駆逐艦)」「峯風型駆逐艦」「さわかぜ (護衛艦)」
- → 汐風——同じ小名浜港に沈設され、今も現存する同型艦