1943年(昭和18年)3月3日午前7時50分——ダンピール海峡。 第三水雷戦隊旗艦として木村昌福少将の将旗を掲げた「白雪」の乗員全員が、右舷斜め後方から接近してきたA-20攻撃機の投弾を「魚雷」と誤認した。 爆弾は三番弾薬庫附近に命中し後部弾薬庫が誘爆、艦尾を喪失した白雪は浸水が進み、艦首を天に向けて垂直状態で沈んだ。午前9時5分——特型駆逐艦「白雪」の最期だった。
駆逐艦「白雪(しらゆき)」は、吹雪型駆逐艦の2番艦にして「雪級(吹雪・白雪・初雪)」の2番艦である。 1927年(昭和2年)3月19日、横浜船渠で起工。1928年(昭和3年)12月18日に竣工し、第11駆逐隊(吹雪・白雪・初雪)として第二水雷戦隊に編入された。 太平洋戦争開戦後は第三水雷戦隊所属としてマレー作戦・蘭印作戦・ミッドウェー・ガダルカナルと転戦し、吹雪型ネームシップ「吹雪」沈没後は型名を冠する「白雪型駆逐艦」の筆頭となった。
この記事には三つの際立った場面がある——エンドウ沖夜戦で英艦が放った5本の魚雷が全て艦底を潜り抜けた奇跡の生還。ガダルカナル攻防戦で僚艦「叢雲」に魚雷を撃ち込んで処分した苦渋の夜。そしてガ島撤退完了の直後、反跳爆撃という新戦術の前に散った旗艦の最期と、重傷の木村司令官が敷波に将旗を移した最後の指揮。 特型駆逐艦2番艦・白雪の全記録を、今ここに語り起こす。
吹雪型の1〜4番艦(吹雪・白雪・初雪・深雪)は「雪級」と呼ばれる。「白雪」は竣工後、第11駆逐隊(吹雪・白雪・初雪)に編入され、ネームシップ「吹雪」とともに太平洋戦争を戦った。 1942年10月のサボ島沖海戦で「吹雪」が沈没すると、吹雪型駆逐艦は「白雪型駆逐艦」と改称——型の名を「白雪」が担うことになった。 しかしそれは、僚艦の死を背負うことでもあった。菅原六郎艦長が白雪を率いてダンピールに沈む1943年3月まで、型名の重さを背負い続けた。
吹雪(1番艦)沈没(1942年10月)→「白雪型」に改称。白雪(2番艦)沈没(1943年3月)→「初雪型」に改称(1943年4月1日)。型名を引き継いだ艦が次々と沈んでいくという事実は、特型Ⅰ型グループの消耗の速さを端的に示している。
1942年(昭和17年)1月27日夜——マレー半島南部エンドウ沖。 「白雪」は第三水雷戦隊の一艦として輸送船団護衛にあたっていた。その夜、英駆逐艦「サネット」と豪駆逐艦「ヴァンパイア」が船団阻止のため闇の中から接近し、雷撃を敢行した。「白雪」を目標に、「ヴァンパイア」が1本、「サネット」が4本——計5本の魚雷が発射された。
しかし5本の魚雷は全て白雪の艦底を潜り抜けた。 「サネット」が「白雪」を巡洋艦と誤認し、魚雷の深度設定を巡洋艦用(より深い設定)にしていたためだ。白雪の吃水3.2mを下回る深さで全弾が通過した——特型駆逐艦が「巡洋艦に見える」ほど大型だったことが、皮肉にも命を救った。 「白雪」は探照灯を照射して応戦。「川内」以下第三水雷戦隊各艦と協同して「サネット」を撃沈し「ヴァンパイア」を撃退した。
戦闘後、「白雪」は撃沈した「サネット」の生存者・水雷長以下31名を海中から救助した。勝ち戦の余裕もあって「可能な限り優遇した」と乗員は記録している。「白雪」自身の被害は乗員1名の機銃弾重傷のみだった。
世界最大級の駆逐艦として設計された特型は、その巨大なシルエットゆえに夜間では巡洋艦と誤認される場合があった。この夜の白雪の生還は、「大きすぎる駆逐艦」という特型の設計思想が生んだ偶然だった。同様の誤認による深度設定ミスは、他の特型艦(磯波など)でも報告されている。
1942年10月11日夜——サボ島沖海戦で「吹雪」が轟沈した翌12日、「白雪」と「朝雲」は古鷹乗員救援のため夜明けをまたいで現場に向かった。米軍機の空襲で「夏雲」が沈没し、「叢雲」が大破炎上・スクリュー喪失で航行不能となった。 「白雪」と「朝雲」は「夏雲」「叢雲」の生存者を収容して一旦ひきあげた後、夜陰に乗じて叢雲の曳航のために現場へ戻った。
19時に「叢雲」の傍に戻ると、同艦は爆発炎上中で曳航の手段がなかった。 「白雪」艦長・菅原六郎少佐は魚雷の発射を命じた。叢雲の東日出夫艦長が艦に残ろうとしたため、菅原艦長自ら叢雲の艦橋に乗り込んで説得に赴き、東を連れ帰った。東は泣きながら謝罪していたという(藤原盛宏証言)。 そして「白雪」は、かつての同じ第11駆逐隊の僚艦に魚雷を撃ち込んだ。
なお、この処分を実施したのが「白雪」か「白雲」かについて戦史叢書に混同があるが、当時の第四水雷戦隊戦時日誌(JACAR一次資料)および藤原盛宏証言録により、処分を実施したのは「白雪(菅原艦長)」であると確認されている。「白雲」は1942年8月の空襲で大破しており、この時期は修理のため内地に戻っていた。
菅原六郎少佐はこの夜、「叢雲」の東艦長を説得して連れ帰り、その後自艦の魚雷で「叢雲」を処分するという二つの役割を一人で担った。叢雲の処分は菅原艦長の判断と命令によるものであり、後に「白雪」がダンピールで沈んだ後も、菅原は生き延びて証言を残している。
1943年2月、ガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)が発動された。 第一次(2月1日):旗艦「巻波」が航行不能となり三水戦司令官・橋本少将が白雪に移乗して撤収部隊を追い、作戦は成功した。 第二次(2月4日):往路に白雪が機関故障を起こして引き返した。司令官は江風に旗艦を変更し第二次は白雪なしで成功した。 第三次(2月7日):「白雪」指揮下の撤収部隊がガ島に到達し、最終撤収を成功させた。
ガ島撤退完了の直後、「白雪」は次なる任務を命じられた。 2月中旬に第三水雷戦隊司令官に着任したばかりの木村昌福少将が将旗を「白雪」に掲げ、第八十一号作戦——ラエへの陸軍第18軍輸送船8隻・護衛駆逐艦8隻という大規模輸送——の旗艦として出撃した。 2月28日23時30分、船団はラバウルを出港した。
3月3日——ダンピール海峡。午前7時50分から始まった連合軍機の波状攻撃の中、A-20攻撃機が右舷斜め後方から反跳爆撃を実施した。乗員全員が「魚雷」と誤認した爆弾は三番弾薬庫附近に命中し後部弾薬庫が誘爆、白雪の艦尾が吹き飛んだ。木村司令官は機銃弾を受けて重傷を負った。 浸水が急速に進む中、木村少将は「敷波」に将旗を移して指揮を継続した。そして白雪は、艦首を天に向けて垂直状態で沈んでいった。午前9時5分。
ビスマルク海海戦で連合軍が投入した反跳爆撃(スキップボミング)は、海面スレスレを低空飛行して爆弾を水面上でバウンドさせ艦側面に命中させる戦術で、ビスマルク海が事実上の初の大規模実戦投入だった。日本側が「魚雷」と誤認したのは、その飛翔経路が水面を跳ねる魚雷に極めて近く見えたためだ。この誤認こそが、新戦術の完成を物語っていた。
「白雪」の本質は、帝国海軍水雷戦隊の「全て」を体現した艦にある。吹雪型のネームシップに寄り添い、ネームシップの沈没後は型名を冠し、ガ島撤退を三度にわたって成し遂げ、最後は反跳爆撃という未知の戦術の前に散った。緒戦の快進撃からガ島消耗戦の泥沼、そして新戦術による終焉まで——「白雪」の生涯は、太平洋戦争における特型駆逐艦の軌跡そのものだ。
しかし栄光の裏には、二つの苦渋があった。エンドウ沖で5本の魚雷が通過したのは奇跡だったが、深度設定が正しければ沈んでいた。叢雲に魚雷を撃ち込んだのは菅原艦長にとって、東艦長を連れ帰った直後の行為だった。ケ号作戦では機関故障で引き返しを余儀なくされ、ダンピールでは「魚雷」と誤認した爆弾に撃沈された。「白雪」の記録は英雄譚であると同時に、不確実な戦場の現実を等身大で伝えてもいる。
艦首を天に向けて垂直に沈んだその姿は、戦史の記録に残っている。木村昌福少将は重傷を負いながら指揮を続け、後にキスカ島奇跡の撤退を成し遂げた。菅原六郎艦長は生き延びて証言を残した。「白雪」が沈んだことで型名は「初雪型」に変わったが、白雪型という名が存在した短い期間——1942年10月から1943年4月——に、この艦は最も多くのことを背負っていた。
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「将旗を掲げたまま、艦首を天に向けて——白雪は最後まで旗艦だった」
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■ 参考文献・資料
- ・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面 海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年
- ・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第83巻 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収まで』朝雲新聞社
- ・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第96巻 南東方面海軍作戦(4)ガ島撤収後』朝雲新聞社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第四水雷戦隊戦時日誌(Ref.C08030113900等)・海軍辞令公報各号
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年(ISBN 4-7698-1246-9)
- ・藤原盛宏(第11駆逐隊庶務主任・白雪乗艦)『わが青春と海軍』(叢雲処分・ケ号作戦の直接証言)
- ・生出寿『戦場の将器 木村昌福』光人社、1997年
- ・Wikipedia「白雪(吹雪型駆逐艦)」「ビスマルク海海戦」「エンドウ沖海戦」「バタビア沖海戦」「ケ号作戦」
- ・連合艦隊軍艦銘銘伝 / JACAR(アジア歴史資料センター)
※ 叢雲の処分艦については戦史叢書に「白雲」との混同記述があるが、当時の一次資料(JACAR第四水雷戦隊戦時日誌)および藤原盛宏証言により「白雪」が正しい。