栗田健男中将を救い、半日だけ第二艦隊旗艦となった駆逐艦——夕雲型「岸波」の全記録

1944年10月23日未明、パラワン水道。栗田健男中将率いる第一遊撃部隊の旗艦、重巡「愛宕」が米潜水艦「ダーター」の雷撃を受け、わずか数分で航行不能に陥った。午前6時53分、「愛宕」は沈没。海に投げ出された栗田中将と小柳冨次参謀長ら第二艦隊司令部は、必死に泳ぎ着いた先の駆逐艦の甲板によじ登った。その艦こそ「岸波」だった。艦には200名以上の将兵と、「愛宕」から持ち出された御真影までもが移乗した。栗田は「岸波」を臨時の第二艦隊旗艦とし、この瞬間、一隻の駆逐艦が連合艦隊最大級の作戦の指揮系統を、文字通り一時的に背負うことになった。

「岸波」は夕雲型駆逐艦の15番艦として、浦賀船渠で1942年8月29日に起工、1943年8月19日に進水、同年12月3日に竣工した。初代艦長は「海風」艦長を務めた三舩俊郎中佐。第二水雷戦隊隷下の第31駆逐隊では司令駆逐艦に指定され、竣工から1年足らずのうちに、輸送船団の護衛、空母救援、そして帝国海軍史に残る旗艦代行という重責までも担うことになる。

そして「岸波」の物語は、栄光の後日談だけでは終わらない。戦後、米潜水艦「フラッシャー」の戦果記録に、実在しない駆逐艦「イワナミ」が紛れ込むという奇妙な誤算が生まれる。その正体は他ならぬ「岸波」だった——1隻の艦の最期が、記録の中でいつの間にか2隻分に数えられていたのである。

■ 夕雲型15番艦「岸波」基本諸元 ■
建造所
浦賀船渠
起工 1942年8月29日
進水・竣工
1943.8.19 → 1943.12.3
初代艦長 三舩俊郎中佐
基準排水量
2,077t(基準)
約2,900t(満載)
全長 119.3m
最大速力
35ノット
出力 52,000馬力
主砲
12.7cm連装D型砲 3基6門
最大仰角75度
魚雷兵装
61cm4連装発射管2基8門
九三式酸素魚雷
所属部隊
第31駆逐隊(司令駆逐艦)
第二水雷戦隊
特筆データ
パラワン水道で臨時第二艦隊旗艦に
栗田健男中将ら200名以上を収容
最終艦名・結末
1944.12.4 南シナ海で戦没
米潜水艦フラッシャーの雷撃
前史——司令駆逐艦としての船出

竣工した「岸波」は、姉妹艦「朝霜」「沖波」とともに訓練部隊の第十一水雷戦隊に編入され、瀬戸内海で猛訓練を積んだ。1944年2月10日、「岸波」は駆逐艦「長波」単艦となっていた第二水雷戦隊隷下の第31駆逐隊へ編入される。駆逐隊司令・福岡徳治郎大佐は、司令駆逐艦に「岸波」を指定した。「長波」がラバウル空襲の損傷修理で戦列を離れていたため、実質的に第31駆逐隊を率いる立場となったのである。

初陣は華々しい海戦ではなく、地道な救援任務だった。1月19日、空母「雲鷹」が米潜水艦の雷撃で大破すると、「岸波」と「沖波」は柱島泊地からただちに出撃し、小笠原諸島周辺を航行中の「雲鷹」救援に向かう。重巡「高雄」や他の駆逐艦と合流しながら護衛を続け、2月7日、「雲鷹」を無事横須賀まで送り届けた。まだ実戦の本格的な洗礼を受ける前の「岸波」にとって、これは自らの役割——輸送と護衛を通じて艦隊を支える駆逐艦としての宿命——を予感させる出来事だった。

■ 「岸波」の全戦歴ハイライト ■
【1943.12.3】:浦賀船渠で竣工。三舩俊郎中佐が初代艦長に
【1944.2.7】:大破した空母「雲鷹」を横須賀まで護衛
【1944.2.10】:第31駆逐隊の司令駆逐艦に指定される
【1944.2.29】:輸送船「崎戸丸」沈没。歩兵第18連隊の軍旗を収容、生存者を救助
【1944.6.19-20】:マリアナ沖海戦、前衛部隊として参加
【1944.10.23】:パラワン水道で重巡「愛宕」沈没。栗田中将ら救助、臨時第二艦隊旗艦に
【1944.10.25】:サマール沖海戦、小破
【1944.11.15】:艦隊再編。第31駆逐隊で健在なのは「岸波」1隻のみとなる
【1944.12.4】:南シナ海で米潜水艦「フラッシャー」の雷撃を受け戦没
【1945.1.10】:帝国駆逐艦籍より除籍。第31駆逐隊も解隊
エピソード①——「愛宕」沈没、司令長官が縋った甲板

1944年10月23日未明、レイテ沖海戦の緒戦。栗田健男中将率いる第一遊撃部隊は、パラワン水道で待ち伏せていた米潜水艦「ダーター」「デイス」の雷撃を受けた。旗艦・重巡「愛宕」は「ダーター」の魚雷を受けて航行不能となる。第一部隊の中央にいた「岸波」と「朝霜」は救援命令を受けて急行し、「愛宕」への横付けを試みたが、艦の急傾斜のため接舷できなかった。午前6時53分、「愛宕」は沈没。海に投げ出された生存者は「岸波」と「朝霜」に泳ぎ着いて救助された。

「岸波」には栗田中将や小柳冨次参謀長ら第二艦隊司令部そのものが泳ぎ着き、200名以上の将兵と「愛宕」の御真影が移乗した。栗田は「岸波」を臨時の第二艦隊旗艦としたが、実際の指揮は第一戦隊司令官・宇垣纏中将が戦艦「大和」から代行した。午後3時以降、「岸波」は「大和」に接舷し、栗田以下司令部を移乗させる。安定している「大和」に対し、波の影響で常に動揺し続ける「岸波」——栗田らはロープを使って「岸波」から「大和」へと引き上げられた。この瞬間、栗田は「大和」に将旗を掲げ直し、「大和」が正式に第二艦隊旗艦を兼ねることになった。

■ 愛宕沈没から旗艦交代までの1日 ■
10/23未明
米潜水艦2隻が栗田艦隊を奇襲。「愛宕」が航行不能に
午前6:53
「愛宕」沈没。栗田中将ら司令部が「岸波」に泳ぎ着く
直後
栗田、「岸波」を臨時第二艦隊旗艦に。実指揮は宇垣纏中将が「大和」より代行
午後3時以降
「岸波」が「大和」に接舷。栗田らをロープで引き上げ、正式に旗艦交代
■ たった半日だけの「旗艦」
「岸波」が第二艦隊旗艦を名乗ったのはわずか半日足らず。しかも実際の指揮権はその間ずっと「大和」の宇垣纏中将が代行していた。つまりこの日「岸波」が果たしたのは、指揮そのものではなく、混乱の中で艦隊司令部という「頭脳」を物理的に救い出し、次の艦へ橋渡しするという、地味だが決定的な役割だった。
エピソード②——軍旗を託された護衛艦

1944年2月26日、「岸波」は第31駆逐隊の僚艦とともに広島・宇品を出港し、マリアナ諸島へ向かう第29師団を乗せた輸送船「安藝丸」「東山丸」「崎戸丸」の護衛にあたった。2月29日未明、船団は米潜水艦の襲撃を受ける。被雷した「崎戸丸」が沈没し、「安藝丸」も魚雷1本を受けて戦死者30名を出した。「崎戸丸」の沈没では歩兵第18連隊長・門間健太郎大佐以下約2,000名が戦死し、生存者は1,720名にのぼった。

この時、歩兵第18連隊の軍旗が「岸波」に移された。軍旗は連隊の魂そのものであり、それを託されるということは、単なる救助任務を超えた重みを持つ出来事だった。「岸波」と「朝霜」は米潜水艦に反撃を試み、「朝霜」の爆雷攻撃が米潜水艦「トラウト」を撃沈する戦果もあげている。「岸波」と「朝霜」に救助された「崎戸丸」の生存者たちは、3月6日、ようやくサイパンへ上陸した。派手な戦闘ではなかったが、2,000名以上が命を落とした海で、1,720名を生きて送り届けたという事実は、駆逐艦という艦種の本質的な役割を静かに物語っている。

■ 崎戸丸沈没と軍旗の行方 ■
2/29未明
米潜水艦の襲撃で「崎戸丸」沈没。戦死者約2,000名
直後
歩兵第18連隊の軍旗が「岸波」に移される。生存者1,720名を収容
同日
「朝霜」の爆雷攻撃が米潜水艦「トラウト」を撃沈
3/6
「岸波」「朝霜」に救助された生存者、サイパンへ上陸
■ 軍旗を預かるということ
帝国陸軍にとって連隊軍旗は「天皇から親授されたもの」であり、失うことは何よりの不名誉とされた。その軍旗が「岸波」の艦上に移されたという事実は、この艦が単なる護衛艦ではなく、陸軍の名誉そのものを一時的に預かる存在になったことを意味する。つまり「岸波」は、海の戦いだけでなく、陸軍の誇りをも背負って戦っていた。
エピソード③——最後の1隻、そして「幽霊艦」の誕生

レイテ沖海戦後、第31駆逐隊は次々に僚艦を失っていく。11月11日には「長波」が第三次多号作戦で沈没。11月15日の艦隊再編では「朝霜」が転出し、代わりに「浜波」が編入されるが、その「浜波」はすでに沈没済みだった。この時点で健在な第31駆逐隊の艦は「岸波」ただ1隻だけになっていた。

1944年12月1日、「岸波」は海軍配当船「八紘丸」を護衛してマニラに到着、荷揚げを終えて12月3日、シンガポールへの帰路についた。だが船団の動きは米潜水艦「ホークビル」に察知され、待ち伏せていた米潜水艦「フラッシャー」の攻撃を受ける。12月4日午前10時30分、パラワン島北西沖で発射された魚雷1本が「岸波」の前部機関室右舷に命中し、航行不能となった。僚艦が曳航を試みる中、午後2時2分、再び2本の魚雷が命中。「岸波」は左舷に傾斜したのち、被雷箇所で船体が折れて沈没した。艦長・三舩俊郎中佐以下90名が戦死し、生存者は150名だった。戦死者の中には、南雲忠一海軍大将の長男・南雲進少尉も含まれていた。

物語には奇妙な後日談がある。「フラッシャー」は帰投後の報告で「駆逐艦1隻、タンカー4隻を撃沈」としていたが、戦後のJANAC(合同陸海軍評価委員会)による再調査で、なぜか「駆逐艦2隻」に上方修正された。増えた1隻は「イワナミ(岩波)」という、日本海軍に実在しない駆逐艦だった。つまり「岸波」1隻の戦没が、記録の中でいつの間にか2隻分としてカウントされていたのである。この「イワナミ」撃沈のおかげで、「フラッシャー」は太平洋戦争で10万トンを超える戦果を挙げた唯一の米潜水艦として、現在も戦史に名を残している。存在しない艦の記録が、実在した「岸波」の最期の陰でひっそりと生き続けているのだ。

■ 最期の航海 ■
12/1
「八紘丸」を護衛してマニラ到着
12/3
荷揚げ後、シンガポールへ帰路につく
12/4 午前10:30
「フラッシャー」の雷撃、1本命中し航行不能
12/4 午後2:02
再攻撃で2本命中。船体が折れて沈没。三舩艦長ら90名戦死、生存者150名
戦後
JANAC再調査で実在しない「イワナミ」の撃沈が記録に加算される

「駆逐艦1隻、タンカー4隻を撃沈。計41,700トン」

フラッシャーの当初報告書。戦後、この「駆逐艦1隻」がいつの間にか「2隻」に書き換えられた

——USS FLASHER (SS-249) 哨戒報告書より

猫工艦の考察

「岸波」の本質は、艦隊の「頭脳」と「魂」を、それぞれ最も過酷な瞬間に一時的に預かった駆逐艦だった、という一点にある。パラワン水道では第二艦隊司令部そのものを、崎戸丸沈没の海では歩兵第18連隊の軍旗を——「岸波」は自らが主役になる戦闘の代わりに、他の誰かにとって最も大切なものを守り抜くという役割を、繰り返し引き受けてきた。

しかし「岸波」の物語は美談だけでは終わらない。第31駆逐隊は次々と僚艦を失い、最後には「岸波」1隻だけが残された。そして自らも南シナ海でひっそりと沈み、その最期は戦後、実在しない「イワナミ」という幽霊艦の誕生という、皮肉な形で記録に刻まれることになる。90名の戦死者、150名の生存者という数字の裏には、南雲忠一大将の長男を含む、それぞれの人生の重みがあった。

それでも「岸波」が残したものは確かにある。栗田中将をロープで「大和」へ引き上げたという、地味だが決定的な瞬間。1,720名の命を救ったという事実。派手な撃沈戦果を持たない艦だからこそ、私たちに戦争というものの実相——誰かを守り、誰かに救われ、そして記録の中でさえ誤解されて消えていく駆逐艦たちの姿——を静かに教えてくれる。猫工艦は、その名を記録違いの陰に埋もれさせないためにも、「岸波」の全軌跡に敬意を捧げたい。

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▼ 関連記事

■ 参考文献・資料

  • ・アジア歴史資料センター(JACAR)第31駆逐隊関連公文書・第十一水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報・軍艦高雄戦時日誌
  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書56巻『海軍捷号作戦(2) フィリピン沖海戦』、戦史叢書54巻『南西方面海軍作戦』関連巻
  • ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫、1993年
  • ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • ・小島清『栗田艦隊退却す』光人社NF文庫、2009年
  • ・永沢道雄『戦艦「大和」暗号士の終戦』光人社NF文庫、2003年
  • ・山本平弥ほか『秋月型駆逐艦〈付・夕雲型・島風・丁型〉』潮書房光人社、2015年
  • ・Wikipedia「岸波 (駆逐艦)」「夕雲型駆逐艦」「レイテ沖海戦」「愛宕 (重巡洋艦)」
  • → 早霜——サマール沖からセミララ島擱座までを刻んだ同型艦
  • → 清霜——戦艦「武蔵」の最期を看取った夕雲型最終艦
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