1943年7月27日午後11時、ニューブリテン島グロスター岬沖。輸送任務中の駆逐艦「三日月」と「有明」は、速力26ノットで航行中、相次いでリーフに座礁した。「三日月」は兵員室下部倉庫に浸水、左舷推進軸が屈曲して使用不能となり、翌日未明には右舷推進器までもが脱落した。燃料や糧食を投棄して軽量化を図るも、離礁はかなわなかった。そこへ米陸軍B-25爆撃機約20機が襲いかかる。
「三日月」は睦月型駆逐艦の10番艦として、佐世保海軍工廠で1925年8月21日に起工、1926年7月12日に進水、1927年5月5日に竣工した。ミッドウェー海戦では攻略部隊本隊として出撃し、コロンバンガラ島沖海戦では次発装填装置を持たない艦として最初の魚雷発射後に単艦で戦場を離脱するという、独特の戦い方を強いられた艦でもあった。
そして「三日月」の最期には、駆逐艦にとって最も重い数字が刻まれている。座礁からの脱出を試みる中で空襲を受け、放棄を決断した時、艦には未収容者85名が残されたまま記録されている。戦死7名、重傷12名、軽傷25名という数字と並んで記された「未収容者85名」——この一語が、あの日グロスター岬沖で何が起きていたのかを、静かに物語っている。
→改修後1,445t
竣工した「三日月」は佐世保鎮守府に所属し、「菊月」「望月」「夕月」とともに第23駆逐隊を編成した。1937年からの支那事変では中支・南支方面に進出。1941年4月、「三日月」は第三航空戦隊付に転出し、太平洋戦争開戦時には空母「鳳翔」「瑞鳳」の護衛任務につき、緒戦は内海で待機していた。1942年6月のミッドウェー海戦では、近藤信竹中将(重巡「愛宕」)指揮下の攻略部隊本隊として参加したが、この海戦で実戦を経験することはなかった。7月以降は内地・台湾間の船団護衛に従事する。
1943年3月31日、「三日月」「望月」「卯月」の睦月型3隻で第30駆逐隊が再編成された。前年8月から9月にかけて「睦月」「弥生」の2隻を喪失し、いったん解隊されていた駆逐隊の再興だった。この頃「三日月」は3月から6月まで佐世保海軍工廠で修理を受け、その後ラバウル方面に進出、ソロモン諸島における強行輸送任務に従事することになる。第三水雷戦隊(旗艦「川内」)の指揮下、雪風・浜風・谷風といった精鋭とともに、数々の海戦と輸送作戦に投入されていった。
1943年7月12日、第二水雷戦隊司令官・伊崎俊二少将(旗艦「神通」)率いる増援部隊は、コロンバンガラ島への輸送任務に従事していた。警戒隊は「三日月、神通(旗艦)、雪風、浜風、清波、夕暮」という単縦陣を組んでいたが、午後11時、米軍巡洋艦3隻・駆逐艦10隻と遭遇、コロンバンガラ島沖海戦が勃発する。次発装填装置を持たない「三日月」は、最初の魚雷を発射した後、「雪風」以下の警戒隊から分離して単艦で北上した。
この海戦で米側は巡洋艦3隻が大破、駆逐艦1隻が沈没する損害を受けたが、日本側も軽巡「神通」が沈没し、伊崎司令官以下第二水雷戦隊司令部が全員戦死するという大きな痛手を負った。「三日月」は自らの装備の制約ゆえに戦場からいち早く離れることになったが、その目に映った光景は、決して安穏なものではなかっただろう。
次発装填装置を持たないという設計上の制約が、皮肉にも「三日月」を戦闘の渦中から早く引き離す結果になった。つまりこの夜、「三日月」の生還は、勇敢さや幸運によるものというより、艦の仕様そのものによって決まっていた側面がある。
1943年7月27日午前10時、第30駆逐隊司令・折田常雄中佐が座乗する「三日月」は、臨時編入された「有明」とともにラバウルを出撃、ニューブリテン島ツルブへの輸送任務に向かった。ココボで陸軍兵と軍需物資を移載した後、目的地を目指して航行中——午後11時、速力26ノットで進んでいた両艦は、グロスター岬49度5浬の地点にあるリーフに、相次いで座礁してしまう。
両艦の損傷は重大だった。「三日月」は兵員室下部倉庫に浸水し、左舷推進軸が屈曲して使用不能となる。「有明」は左舷後部の損傷で最大速力6ノットにまで低下した。翌28日午前0時43分、「有明」が離礁に成功する。「三日月」に乗っていた陸戦隊生存者と物資を「有明」に移し替え、「有明」は現場を離れてツルブへ向かい、午前6時から7時40分にかけて揚陸作業を行った。ラバウルの第三水雷戦隊司令部も救援艦の派遣を検討し、いったん「川内」「皐月」「望月」が出撃したが、途中で反転帰投。代わりに駆逐艦「秋風」が現場へ向かうことになった。
「有明」が離礁後すぐに現場を離れず、まず「三日月」の人員を移載してから任務に向かったという行動は、僚艦を見捨てない姿勢の表れだった。だが、その後の再度の救援も、燃料投棄による軽量化の試みも、結局は実らなかった。つまりこの座礁は、乗組員たちの努力だけでは覆せない、物理的な限界に阻まれていた。
座礁現場に残された「三日月」は、燃料や糧食といった対空戦闘に関係のない重量物を投棄し、なんとか離礁を試みていた。午前10時30分頃、「有明」が救援のため現場に戻り、曳航による離礁を試みる。だが座礁による損傷のため「有明」が出せる速力はわずか6ノットで、干潮時になっても、この試みは実を結ばなかった。午後1時30分、折田司令は作業を打ち切り、「有明」にラバウル帰投を命じる。
その直後、両艦は米陸軍B-25爆撃機約20機の空襲を受けた。「有明」は爆弾3発が命中し、午後2時40分に沈没。「三日月」も右舷機械室水線近くに命中弾1発を受け、横4.5m・縦1.5mの破孔が生じたほか、船体各部に被害が広がった。進退不能となった「三日月」に対し、折田司令は駆逐艦「秋風」の到着をもって、艦の放棄を決断する。
「三日月」「有明」の生存者は「秋風」に移乗した。記録に残る被害は、戦死7名、重傷者12名、軽傷者25名——そして未収容者85名。「秋風」には170名が移乗したと記されている。1943年10月15日、「三日月」は睦月型駆逐艦・第30駆逐隊・帝国駆逐艦籍のそれぞれから除籍された。同年10月24日には姉妹艦「望月」も撃沈され、第30駆逐隊所属の駆逐艦は次々と失われていくことになる。
「三日月」の本質は、装備の制約と地形の偶然という、艦の力では覆せない2つの要因によって、運命を大きく左右された艦だった、という一点にある。次発装填装置を持たないという設計上の制約が、コロンバンガラ島沖海戦での早期離脱を生み、そしてリーフという海図に刻まれた地形の存在が、僚艦「有明」とともに座礁するという結末を招いた。乗組員の勇気や努力だけでは、どうにもならない現実がそこにあった。
しかし「三日月」の物語は、単なる不運の記録として片付けられるものでもない。「有明」が離礁後すぐに「三日月」の人員を移載してから任務に向かったという判断、そして燃料投棄までして離礁を試み続けた乗組員たちの努力は、最後まで諦めなかった姿勢を物語っている。それでも空襲という最悪のタイミングが重なり、「未収容者85名」という重い数字が記録に残ることになった。
それでも「三日月」が残したものは確かにある。戦死者・重傷者・軽傷者という数字の後に、あえて「未収容者」という項目を残した戦時日誌の記録は、この艦の最期がどれほど混乱と喪失に満ちていたかを、何よりも雄弁に物語っている。派手な戦果を持たない艦だからこそ、私たちに戦争の記録がいかに正直に、そして重く、事実を刻み続けているかを教えてくれる。猫工艦は、「三日月」と、その85名を含むすべての乗組員に、深い敬意を捧げたい。
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コロンバンガラ島沖を生き延び、グロスター岬に散った駆逐艦——「三日月」の記録を、その身に纏え
「戦死・重傷・軽傷、そして未収容者85名——記録が語る、あの日の重さ」
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