1943年7月6日午前0時46分、クラ湾。米艦隊との夜戦が始まる中、揚陸地へ向かっていた駆逐艦「長月」は暗礁に乗り上げた。動けなくなった艦から物資と兵員を急いで揚陸し、僚艦「皐月」による曳航が試みられたが、失敗に終わる。「皐月」は午前4時、作業を断念して撤退した。取り残された「長月」は、昼間の空襲でさらに損傷を受け、ついに放棄されることになった。
「長月」は睦月型駆逐艦の8番艦として、東京・石川島造船所で1925年4月16日に起工、1926年10月6日に進水、1927年4月30日に竣工した。同型で唯一(「弥生」と共に)石川島ツェリー式タービンを搭載していたこの艦は、「皐月」「水無月」「文月」とともに第22駆逐隊を編成し、ガダルカナル撤収作戦、ソロモン諸島での絶え間ない輸送任務を経て、クラ湾で最期を迎える。
だが「長月」の物語は、座礁と放棄だけでは終わらない。現地の人々によって長く保管されていた「長月」の時鐘は、戦後、日本へ持ち帰られた。ある海軍軍人の尽力によってこの鐘は海上自衛隊に引き渡され、就役して間もない護衛艦「ながつき」に装備されることになる。座礁した艦の記憶は、こうして形を変えて、海の上に帰ってきたのである。
→改修後1,445t
竣工した「長月」は佐世保鎮守府に所属し、「皐月」「水無月」「文月」とともに第22駆逐隊を編成した。1937年からの支那事変では中支・南支方面に進出し、仏印進駐作戦にも参加。太平洋戦争開戦後はフィリピン攻略戦、ジャワ島攻略戦、バタビア沖海戦を経験する。1942年3月31日、クリスマス島攻略作戦中に軽巡「那珂」が米潜水艦の雷撃で大破すると、「長月」は「水無月」とともに退避する「那珂」の護衛に駆けつけた。
1943年1月からのケ号作戦(ガダルカナル島撤収作戦)では、「長月」は繰り返し僚艦の救援役を務めた。2月4日の第2回撤収作戦では、米軍機の攻撃で航行不能になった駆逐艦「舞風」を、艦首破損のため後ろ向きに曳航してショートランド泊地へ退避させている。2月7日の第3回作戦でも、爆撃で中破した「磯風」の救援に向かったが、「磯風」が自力航行可能になったため、この時は救援不要となった。ケ号作戦を終えた「長月」は、ソロモン・ニューギニア方面での輸送任務を、次々とこなしていくことになる。
1943年7月4日夕刻、コロンバンガラ島への緊急輸送のため、「長月」を含む第一回輸送部隊はブインを出撃した。陸兵1300名と大発動艇15隻分の物資を搭載していたこの部隊は、午後10時15分、クラ湾を南下中に陸上砲台と交戦していた米艦隊(軽巡3隻、駆逐艦4隻と記録されていたが実際は軽巡3隻・駆逐艦4隻)を発見する。「長月」は6本、「新月」は4本、「夕凪」は4本の魚雷を発射する夜間雷撃を実施した。
この雷撃で魚雷1本が命中し、米駆逐艦「ストロング」が沈没する戦果をあげる。だが揚陸作戦そのものは断念せざるを得なかった。翌7月5日、南東方面艦隊司令長官・草鹿任一中将は、増援部隊全力によるコロンバンガラ島輸送を改めて命じる。秋山輝男第三水雷戦隊司令官は、陽炎型駆逐艦2隻(浜風・谷風)と白露型駆逐艦1隻(涼風)を加えた増強部隊を編成し、「長月」は「天霧」「初雪」「皐月」とともに第二次輸送隊に配属された。
6本もの魚雷を放って敵駆逐艦を沈めるという戦果を挙げながら、本来の目的である輸送そのものは失敗に終わった。つまりこの夜、「長月」は「戦う駆逐艦」としての役目こそ果たしたが、「運ぶ駆逐艦」としての役目は果たせなかった——この2つの顔の間の緊張こそが、睦月型が置かれていた戦場の現実だった。
1943年7月5日夕刻、第三水雷戦隊はショートランド泊地を出撃した。コロンバンガラ島到着直前の午後11時48分、ウォルデン・L・エインズワース少将率いる米艦隊(巡洋艦3隻、駆逐艦4隻)との交戦が始まる——クラ湾夜戦である。「新月」「涼風」「谷風」「天霧」「初雪」が砲戦・魚雷戦を展開する中、「長月」と「皐月」は本来の任務である揚陸地へと向かった。
だが7月6日午前0時46分、「長月」は暗礁に乗り上げてしまう。座礁した地点で、乗組員は搭載していた物資と兵員をなんとか揚陸させた。「皐月」による曳航も試みられたが、実らなかった。「皐月」は午前4時、作業を断念してコロンバンガラ島本来の揚陸地へ向かい、その後現地を離れた。この夜戦全体では、秋月型「新月」が沈没し、秋山輝男少将以下第三水雷戦隊司令部が全員戦死するという大損害も出ている。米側も軽巡「ヘレナ」を喪失した。
動けなくなった状況でも、「長月」の乗組員は搭載していた物資と兵員をきちんと揚陸させた。座礁という致命的な事故に見舞われながらも、最後までできる限りの任務を果たそうとしたこの姿勢は、駆逐艦乗りたちの矜持を物語っている。
座礁した「長月」は昼間の空襲によってさらに損傷を受け、ついに放棄されることになった。7月7日、艦はいったんニュージョージア方面防備部隊に編入されるが、実質的には戦闘力を失った状態だった。同年11月1日、「長月」は睦月型駆逐艦・第22駆逐隊・帝国駆逐艦籍のそれぞれから除籍される。座礁地点に残された残骸は長く放置され続けた。塗料が焼けたこともあり風化は早く、現在は崩落して海中に沈んでいる。ソロモンでの内戦の際、鉄を得るために現地の人々が船体を爆破したという証言も残っている。
だが「長月」の記憶は、完全に消え去ったわけではなかった。現地の人々によって長く保管されていた「長月」の時鐘は、やがて日本へ持ち帰られる。その存在を知った呉地方総監・筑土龍男海将の尽力により、この鐘は海上自衛隊に引き渡され、就役間もない護衛艦「ながつき」に装備されることになった。船体は座礁地点で朽ち果てても、その名を継いだ艦の上で、鐘の音は今も鳴り続けている。
“長月”の時鐘が”ながつき”に復活
呉地方総監・筑土龍男海将の尽力により、座礁艦の鐘が就役間もない護衛艦に受け継がれた
——『世界の艦船』第164集、81頁より
「長月」の本質は、僚艦を繰り返し救援し、自らは救援されないまま座礁して終わった、という一点にある。「那珂」の護衛、「舞風」の曳航——「長月」は常に誰かを助ける側にいた。だが自らがクラ湾で座礁した時、僚艦「皐月」の曳航は実らず、そのまま放棄されることになる。救う側と救われる側が、いつ入れ替わってもおかしくないという駆逐艦の宿命を、この艦もまた体現していた。
しかし「長月」の物語は単なる悲劇として片付けられるものでもない。座礁という致命的な状況の中でも、乗組員は搭載していた物資と兵員をきちんと揚陸させた。同じ夜、「長月」自身が発射した6本の魚雷は米駆逐艦「ストロング」を沈める戦果を挙げている。動けなくなってもなお、できる限りの任務を果たそうとしたこの姿勢は、決して忘れられるべきではない。
そして「長月」が残したものの中で、最も印象的なのは、その時鐘の運命だろう。船体は座礁地点で朽ち果て、あるいは現地の人々の手で解体されたとしても、鐘だけは日本へ帰り、名を受け継いだ護衛艦「ながつき」の上で今も鳴り続けている。派手な戦果を持たない艦だからこそ、私たちに「記憶の継承」というものの静かな力を教えてくれる。猫工艦は、「長月」とその乗組員たち、そして時鐘を守り続けた人々すべてに、深い敬意を捧げたい。
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第八艦隊戦時日誌・第三水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書96『南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』関連巻
- ・佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』光人社NF文庫、1995年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・『雑誌「丸」874号』潮書房、2019年
- ・『世界の艦船 第164集』海人社、1971年
- ・Wikipedia「長月 (睦月型駆逐艦)」「睦月型駆逐艦」「クラ湾夜戦」
- → 菊月——80年を経てなお海面にその姿をとどめる同型艦