1943年11月25日深夜、ニューブリテン島南端沖。アーレイ・バーク大佐率いる米駆逐艦5隻の奇襲を受けた日本側駆逐艦5隻のうち、「大波」「巻波」「夕霧」の3隻が一方的に撃沈された——セント・ジョージ岬沖海戦。僚艦「夕霧」が最後の魚雷9本を発射して友軍を逃がそうとするも戦果なく自らも撃沈される中、「巻波」の生存者はわずか28〜29名。彼らはカッターに乗り、ラバウルまで漕ぎ帰ったと記録されている。
「巻波」は夕雲型駆逐艦5番艦として、舞鶴海軍工廠で1941年4月に起工され、1942年8月18日に竣工した。竣工前の性能調査で機関が故障し、竣工が3日遅れるという幕開けだったが、姉妹艦「長波」と共に第三十一駆逐隊を編成すると、当初は隊の旗艦を務めた。ガダルカナル島を巡る死闘の最前線で戦い続け、ルンガ沖夜戦での勝利にも加わったが、その艦歴は栄光だけでなく、幾度もの危機とすれすれの生還の連続でもあった。
1943年2月のガダルカナル島撤収作戦では、旗艦として空襲の直撃弾を受けながらも奇跡的に生き延びた。この記事では、その粘り強さと、最後には一方的な奇襲に散った「巻波」の全戦歴を辿る。
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「巻波」は1939年度(④計画)仮称第120号艦として、舞鶴海軍工廠で1941年4月11日に起工された。同年10月25日に「巻波」と命名、夕雲型に類別された。12月27日に進水し、舞鶴鎮守府籍となる。しかし竣工前の性能調査で機関が故障し、修理のため竣工が予定より3日遅れるという幕開けを迎えた。1942年8月18日、竣工。
8月31日、姉妹艦「長波」と共に新編の第三十一駆逐隊に編入される。司令・清水利夫大佐が座乗し、10月1日に「高波」が編入されて旗艦が交代するまでの約1ヶ月間、巻波は隊の旗艦を務めた。第三十一駆逐隊は第二水雷戦隊に所属してトラック泊地に進出し、ガダルカナル島攻防戦の最前線に投入されることになる。
1942年11月30日、田中頼三少将率いる第二水雷戦隊は、ガダルカナル島ルンガ岬沖でドラム缶輸送を試みていた。巻波もこの部隊の一員として出撃し、僚艦「高波」の敵艦隊発見を受けて、田中少将の「全軍突撃せよ」の下令と共に九三式酸素魚雷を発射した。米重巡「ノーザンプトン」撃沈、「ミネアポリス」以下3隻大破という大戦果を収めたこの夜戦で、日本側の損失は同じ第三十一駆逐隊の「高波」1隻のみだった。
巻波にとってこの海戦は、竣工からわずか3ヶ月余りで参加した最大の激戦であり、そして僚艦を失いながらも自らは生き延びた最初の経験でもあった。この直前、9月中旬には蒸留水精製装置の故障という地味な危機も経験しており、巻波の艦歴は華々しい戦果と、艦艇としての細かなトラブルとが常に隣り合わせだった。
ルンガ沖夜戦は日本側の圧勝だったが、それは無傷の勝利ではなかった。つまりどういうことか——巻波が見た「高波」の喪失は、この後2年足らずの間に自らも同じ運命をたどることになる、第三十一駆逐隊の宿命の始まりを予感させるものだった。
1943年2月1日、ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)第一次作戦。巻波は外南洋部隊増援部隊旗艦としてこの作戦に臨んでいた。しかし夕方の空襲で直撃弾1発と至近弾1発を受け、機関損傷と浸水により航行不能に陥る。旗艦任務は駆逐艦「白雪」に引き継がれ、司令部も移乗、巻波自身は「文月」に曳航されてショートランドへと後退した。
この報告を受けた連合艦隊司令長官・山本五十六大将は、小柳富次少将に「巻波がやられ、『我今より指揮を執る』の電報に接したときは、この先どうなるかと心配した」と語ったと伝えられる。連合艦隊の最高指揮官が名指しで案じるほど、この瞬間の巻波は危機的な状況にあった。だが応急修理を経て自力でラバウルまで撤退し、日本本土(舞鶴海軍工廠)でさらに本格修理を行って戦線に復帰している。
そして同年11月11日、ラバウル空襲で僚艦「長波」が大破した際には、今度は巻波が救援に駆けつけた。旗艦として被弾し九死に一生を得た艦が、半年後には僚艦を救う側にまわる——この巡り合わせは、駆逐艦乗りたちが互いに支え合いながら戦い続けていたことを物語っている。
ケ号作戦で九死に一生を得た巻波は、半年後にはラバウルで被弾した長波を救援している。つまりどういうことか——駆逐艦乗りたちの間には、助けられた恩を次の機会に返すという、暗黙の連帯感があったのかもしれない。
1943年11月25日、巻波はブカ島への輸送任務のため、日本軍駆逐艦5隻の一員としてニューブリテン島南端沖を航行していた。この動きを察知したアーレイ・バーク大佐率いる米駆逐艦5隻が待ち伏せる。日本側は奇襲を受け、「大波」「巻波」「夕霧」の3隻が一方的に撃沈されるという壊滅的な敗北を喫した。
僚艦「夕霧」は、逃げる「天霧」「卯月」を援護するため反転突入し、搭載していた魚雷9本すべてを発射したが、戦果を挙げることなく自らも撃沈された。この壮絶な戦いの中、巻波の生存者は28名または29名——彼らはカッター(短艇)に乗り込み、自力でラバウルまで漕ぎ帰ったと記録されている。
「巻波がやられ、『我今より指揮を執る』の電報に接したときは、この先どうなるかと心配した」
——山本五十六連合艦隊司令長官、小柳富次少将への言葉として伝わる(1943年2月)
艦を失いながらも、生存者たちは小さな短艇一つでラバウルまで漕ぎ帰った。つまりどういうことか——巻波という艦そのものは沈んだが、乗員たちの生き延びようとする意志は最後まで折れなかった。この生還劇は、夕雲型の艦歴の中でも記憶されるべき一幕である。
巻波の本質は、幾度もの危機をすり抜けながら生き延び続けた「粘り強さ」を持つ艦だったという点にある。竣工前の機関故障、ルンガ沖夜戦での激戦、ケ号作戦での直撃弾——連合艦隊司令長官が名指しで案じるほどの危機を、巻波はそのたびに乗り越えてきた。ラバウルで被弾した「長波」を救援したという事実は、その粘り強さが単なる幸運ではなく、乗員たちの技量と胆力に支えられていたことを示している。
しかし、どれほど粘り強くとも、戦場では最後の瞬間が必ず訪れる。セント・ジョージ岬沖海戦での奇襲は、巻波がそれまで乗り越えてきたどの危機とも異なる、一方的で防ぎようのない敗北だった。アーレイ・バークという卓越した指揮官との遭遇は、巻波の粘り強さをもってしても覆せない、戦場の非情な現実だった。
巻波が残したものは何か——それは、艦が沈んでも乗員の生きる意志は消えないという事実である。カッター一つでラバウルまで帰り着いた28〜29名の生存者たちの姿は、この艦がそれまで見せてきた「生還する力」の最後の発露だったのかもしれない。猫工艦は、幾度もの危機を乗り越え、最後まで生きようとした巻波の乗員たちに敬意を表したい。
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第31駆逐隊戦時日誌・舞鶴鎮守府戦時日誌
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書29・49『北東方面海軍作戦』『大本営海軍部・聯合艦隊』関連巻
- ・前田憲夫(元「巻波」機関長)「南太平洋に奇跡を起こした『巻波』奮迅録」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ』学習研究社
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫、1993年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・Wikipedia「巻波 (駆逐艦)」「夕雲型駆逐艦」「ルンガ沖夜戦」「セント・ジョージ岬沖海戦」