大日本帝国海軍・特型改Ⅰ型(吹雪型10番艦)「浦波」。佐世保海軍工廠で建造され1929年竣工。 ジュネーブ海軍軍縮会議の影響でB型砲搭載が間に合わず、特型24隻の中で唯一の「改Ⅰ型」として就役。 南方作戦・第三次ソロモン海戦・ビスマルク海海戦・渾作戦を経て、 1944年10月26日の多号作戦帰途にパナイ島西方で米空母機に撃沈された。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 艦名 | 浦波(うらなみ)2代目 / 旧称:第四十四号駆逐艦(1928年8月1日「浦波」に改名) |
| 艦型 | 吹雪型駆逐艦 10番艦・特型改Ⅰ型(「波級」とも呼ばれる) ※日本海軍法令上は吹雪型。白雪型→初雪型と改称あり。 |
| 建造所 | 佐世保海軍工廠 |
| 起工 | 1927年(昭和2年)4月28日 |
| 進水 | 1928年(昭和3年)11月29日 |
| 就役(竣工) | 1929年(昭和4年)6月30日 |
| 初代艦長 | 五藤存知 中佐(1929年4月25日〜1930年11月2日) ※後に第六戦隊司令官(少将)としてサボ島沖海戦で旗艦「青葉」の艦橋にて戦死 |
| 最終艦長 | 佐古加栄 少佐(1944年4月15日〜1944年10月26日戦死) |
| 全長 | 118.5 メートル |
| 全幅 | 10.36 メートル |
| 吃水 | 3.2 メートル(平均) |
| 基準排水量 | 1,680 トン |
| 公試排水量 | 1,980 トン |
| 機関 | 艦本式ロ号専焼缶 4基(缶室給気路はⅡ型方式) 艦本式ギアードタービン 2基2軸 |
| 出力 | 50,000 馬力 |
| 速力(計画) | 最大 38.0 ノット |
| 主砲(竣工時) | 50口径12.7cm A型連装砲 3基6門(仰角40°) ※本来はⅡ型と同じB型改一(仰角75°)搭載予定だったが、ジュネーブ軍縮会議の影響による竣工急ぎで間に合わなかった。特型24隻で唯一の形態。 |
| 魚雷発射管 | 61cm 三連装魚雷発射管 3基9門(九三式酸素魚雷) |
| 対空機銃 | 7.7mm機銃 ×2(竣工時) |
| 乗員 | 約250名 |
| 所属駆逐隊 | 第19駆逐隊(磯波・浦波・綾波・敷波)→1943年9月より第十六戦隊 |
| 所属水雷戦隊 | 第二水雷戦隊→第三水雷戦隊→第十六戦隊(1943年9月〜)→第一遊撃部隊(1944年9月〜) |
| 型の特記 | 「改Ⅰ型」の説明:缶室給気路などの機関部はⅡ型に準じているが、艦橋構造物はⅠ型と同じ、主砲はA型砲(仰角40°)。特型24隻で唯一の混合形態。1944年10月まで生存し、特型最長生存艦となった。 |
| 最終・戦没 | 1944年10月26日 11時52分、パナイ島西方(北緯11°56′ 東経123°23′)。多号作戦帰途の米空母機空襲により沈没。艦長以下92名戦死。10月24〜26日の作戦期間通算:戦死103名・戦傷91名。 |
Ⅱ型(綾波型)との最大の違いはB型改一砲(75°)の有無。浦波の缶室給気路はⅡ型方式だが、主砲はⅠ型のA型(40°)のまま。1927年のジュネーブ海軍軍縮会議交渉の緊迫により竣工を急いだ結果、この唯一の形態が生まれた。法令上は「吹雪型」の一員だが、研究者によっては「浦波型」「改Ⅰ型」として区別する。
「浦波」は特型の中で最も長く、多様な戦場を渡り歩いた。衝突・座礁を繰り返しながら修理のたびに最前線へ戻り、1944年秋まで15年の艦歴を全うした。
- 1927年4月28日起工。1928年8月1日「第四十四号駆逐艦」から「浦波」に改名。11月29日進水。
- 1929年1月15日:五藤存知中佐が艤装員長に任命。4月25日に初代艦長就任。
- 1929年6月30日竣工。第19駆逐隊(磯波・浦波)に編入(後に敷波・綾波が加わり4隻体制)。
- 第19駆逐隊司令駆逐艦として初代駆逐隊司令・神山忠大佐が座乗した。
- 種子島沖で第二水雷戦隊夜間演習中、「吹雪」(艦長平井恭次中佐)が突如操舵不能となり浦波右舷に衝突。
- 前年の深雪沈没・電大破に続く吹雪型の衝突事故。2隻は呉海軍工廠で修理。
- 佐世保〜横須賀航行中、前方の「さんとす丸」(大阪商船)を回避するため左舵をとったところ、後続の「磯波」が追突。浦波は横須賀で本格修理、一時予備艦となった。
- 1937年:上海上陸・杭州湾上陸作戦を支援。
- 1940年:北部仏印進駐作戦に参加。同年11月15日の艦隊再編で第19駆逐隊は第三水雷戦隊(旗艦「川内」)に移籍。
- 第三水雷戦隊としてマレー作戦(南方作戦)に参加。
- 12月19日:川内搭載機がO-20を発見・爆撃。夜間浮上に備えて「浦波」が単独配置。
- 日没後、浦波はO-20を発見して砲撃。O-20は応射し魚雷2本を発射したが命中しなかった。
- 翌朝、海上に漂う乗員32名を救助し機密文書を回収。O-20は乗員離艦後に沈没。
- 蘭印(ジャワ島)攻略作戦。バタビア沖海戦(スンダ海峡夜戦)では第五水雷戦隊・第11駆逐隊・敷波らと協同し米重巡「ヒューストン」・豪軽巡「パース」の撃沈に参加した。
- 第三水雷戦隊として主力部隊(大和等)を護衛。機動部隊の壊滅的敗北を後方で見守り撤退護衛。
- 6月9日:帰途の「浦波」に「磯波」が衝突。磯波の艦首損傷で速力11ノットに低下。
- 6月11日:浦波と川内が主隊から落伍・行方不明となる。空母「鳳翔」の九六式艦上攻撃機によって発見され主隊に合流できた。
- ガダルカナル島の戦いに関連した輸送・砲撃任務に繰り返し従事。
- 1942年11月14〜15日:第三次ソロモン海戦(第二夜戦)参加。日本側は戦艦「霧島」・駆逐艦「綾波」を喪失。浦波は単艦突入後に大破して漂流した「綾波」の乗員全員を救助した。
- 第三次ソロモン海戦後、第19駆逐隊は3隻(磯波・浦波・敷波)に減少。浦波は一旦日本本土に帰投。
- 4月2日:セレベス島マカッサルの南西約60浬のデプリン礁附近で座礁。
- 4月21日に離礁。スラバヤで8月13日まで修理。
- 4月9日:座礁修理中に、第19駆逐隊僚艦「磯波」が米潜水艦「トートグ」に撃沈される。第19駆逐隊は初雪型2隻(浦波・敷波)のみとなった。
- 9月20日:浦波・敷波は第十六戦隊(司令官左近允尚正少将)に編入。以後、東南アジア方面での護衛・輸送任務と基地航空隊訓練支援に従事した。
- 9月25日:スラバヤでの修理完了。
- 1月6日:「浦波」・足柄・青葉・球磨でメルギーへ陸兵輸送成功。
- 1月11日:4回目の雷爆撃訓練のため「球磨」と「浦波」がペナンから出航し、途中でイギリス潜水艦「タリホー」の雷撃により「球磨」が撃沈された。
- 「浦波」は球磨艦長・杉野修一大佐ら生存者を救助し、ペナンで燃料補給後に対潜掃討を実施したが成果なく1月16日シンガポールへ帰投。
- 6月2日:ビアク島への増援(渾作戦)第一次出撃。B-24に触接されて奇襲失敗、ソロンに進撃して待機。
- 6月8日:第27駆逐隊(春雨・五月雨・白露・時雨)・第19駆逐隊(浦波・敷波)6隻でソロン出撃。B-25空襲で旗艦「春雨」が沈没(白浜司令官戦死)。残る5隻で作戦続行するが連合軍艦隊(巡洋艦3・駆逐艦14)に迎撃されて夜間水上戦闘となり、損傷しつつ浦波以下5隻は脱出に成功した。
- 渾作戦はサイパン方面米機動部隊出現のため中止。ビアク島守備隊は後に玉砕。
- 9月25日:第十六戦隊(青葉・鬼怒・浦波)は第一遊撃部隊に編入されてリンガ泊地へ移動。各部隊と訓練を実施した。
- 10月10日:「浦波」1隻のみとなった第19駆逐隊は解隊された。
- 10月21日:第十六戦隊(鬼怒・浦波)ブルネイ出撃。陸兵レイテ輸送へ。
- 10月23日:旗艦「青葉」が米潜水艦「ブリーム」に雷撃・大破。鬼怒が曳航しマニラへ。以後旗艦は鬼怒。
- 10月24日:マニラ出撃後から断続的空襲。浦波は戦死傷者31名・重油タンク破損→セミララ島で応急修理。
- 10月25日:カガヤンで陸兵収容し夕刻出発。
- 10月26日 05:00:レイテ島オルモック湾で揚陸成功。帰途へ。
- 10月26日 10:30〜:パナイ島西方で米空母機の猛烈な空襲。浦波に爆弾が次々命中。艦長・佐古加栄少佐が戦死。航海長が指揮継続。
- 10月26日 11:30:軍艦旗降下・総員退去。
- 10月26日 11:52:浦波沈没。北緯11°56′ 東経123°23′。艦長以下92名戦死。
- 生存者のうち35名以上がフィリピンの陸上戦に転用された。同日17:20に「鬼怒」も空襲で沈没。
- 吹雪型(初雪型)駆逐艦の最後の生き残りのひとつとして除籍。特型24隻中で最長の艦歴(1929年〜1944年)を閉じた。
多号作戦はレイテ沖海戦と並行して実施されたフィリピン増援輸送作戦。1944年10月24日から複数回にわたりレイテ島への陸兵輸送を試みたが、制空権を完全に握った米機動部隊の航空攻撃により各回とも甚大な損害を受けた。浦波が参加した10月24〜26日の輸送では「青葉」大破・「鬼怒」「浦波」沈没という結末を迎え、輸送任務自体はオルモック到達で達成されたものの、その代償は艦隊の壊滅に等しかった。
浦波初代艦長の五藤存知中佐は1942年10月11日、第六戦隊司令官(少将)として旗艦「青葉」の艦橋にいた。まさに「吹雪」と「浦波」のかつての乗員たちが交錯するサボ島沖海戦で、五藤少将は「青葉」艦橋への命中弾で致命傷を負い戦死した。浦波が最後のレイテ輸送で「青葉」(第十六戦隊)と共に行動した時、この奇妙な縁が戦史の中で静かに交差していた。
特型改Ⅰ型「浦波」の生涯は、特型24隻の中で最も長く、最も多様な戦場をまたいだ。1927年の起工から1944年の沈没まで17年——ジュネーブ会議の影響で「不完全」と言える改Ⅰ型として生まれながら、衝突・座礁・被弾のたびに修理して戦線に戻り続けた。
O-20乗員32名の救助・「綾波」乗員全員の救助・「球磨」乗員の救助と、浦波は繰り返し味方を救う役回りを果たした。そして最後も輸送任務を果たした帰途に、対空射撃で劣るA型砲を天に向けながら散った。国際政治の結果として「不完全」に生まれた艦が、その不利を超えて最も長く戦い抜いたという事実は、改Ⅰ型という形態そのものへの最大の答えである。
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- ・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面 海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年
- ・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第83巻 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収まで』朝雲新聞社
- ・重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』潮書房光人社、2014年(ISBN 978-4-7698-1577-8)
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報各号
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年(ISBN 4-7698-1246-9)
- ・Wikipedia「浦波(吹雪型駆逐艦)」「第三次ソロモン海戦」「多号作戦」「ビスマルク海海戦」「渾作戦」「レイテ沖海戦」
- ・片桐大自『帝国海軍全艦艇史』ベストセラーズ
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