1944年7月7日未明、マニラ湾口西方海域。「玉波」は不審な反応を捉え、単艦で対潜掃討に向かった。海面下では米潜水艦「ミンゴ」もレーダーで玉波を捕捉していた。1時間にわたる息詰まる索敵戦——玉波の投じた爆雷12発をミンゴはかわし続け、逆に放った魚雷4本を玉波もかわす。だが体勢を立て直したミンゴが再び放った魚雷4本のうち3本が命中。玉波は艦首から轟沈し、司令・艦長以下276名全員が戦死した。
「玉波」は夕雲型駆逐艦9番艦として、藤永田造船所で1942年3月に起工され、1943年4月30日に竣工した。初代艦長・作間英邇中佐は、第三次ソロモン海戦で「綾波」を駆って敵陣に大暴れした人物として知られる。竣工直後には戦艦「陸奥」の爆沈という衝撃的な光景を目の当たりにし、その後は輸送船団・空母護衛、そして僚艦「早波」の喪失に伴う異例の人事を経て、第三十二駆逐隊の中核として戦い続けた。
竣工から1年2ヶ月、太平洋の各地を駆け回った玉波にとって、この記事では、その全戦歴と、米潜水艦との息詰まる最期の対決を辿る。
約2,772〜2,940t(満載)
「玉波」は1942年3月16日、藤永田造船所にて起工された。1942年12月26日に進水し、1943年2月20日、第三次ソロモン海戦で「綾波」を駆り敵陣に単艦突入した作間英邇中佐が艤装員長に任命される。4月30日、竣工。作間中佐がそのまま初代艦長となり、訓練部隊の第十一水雷戦隊に編入された。
1943年6月8日、桂島泊地に在泊していた玉波は、目前で戦艦「陸奥」が爆沈するという衝撃的な光景に遭遇する。第十一水雷戦隊司令官・木村進少将(軽巡「龍田」座乗)の指揮下、救助活動にあたった。その後、戦艦「武蔵」の護衛や、「比叡」の自沈という戦訓を踏まえた大型艦曳航訓練にも従事している。7月1日、玉波は前進部隊(指揮官近藤信竹中将)隷下の第二水雷戦隊に編入された。
1944年7月7日未明2時ごろ、玉波は僚艦「藤波」と共に、軽巡「北上」・タンカー「旭東丸」をシンガポールからマニラへ護衛する任務の最終局面にあった。マニラ湾口西方海域を航行中、玉波は潜水艦の存在を探知し、船団から離れて単独で反転攻撃に向かう。この潜水艦こそ、米海軍のガトー級潜水艦「ミンゴ」だった。
ミンゴもレーダーで玉波を捕捉し、推定23ノットで接近する「吹雪型駆逐艦」と誤認しつつ潜航して観測を続けた。玉波は爆雷12発を投じるが、ミンゴはこれを回避。ミンゴは艦尾発射管から魚雷4本を発射するが、これは玉波に命中しなかった。両者の息詰まる索敵戦は、実に1時間に及んだ。
炎と爆炎が立ち昇るのを認めた「藤波」は反転し、断続的に捜索と爆雷攻撃を行ったが、生存者の手がかりはついに掴めなかった。
ミンゴは玉波を「吹雪型駆逐艦」と誤認していた。つまりどういうことか——敵にとっても味方艦の識別は完全ではなく、暗闇の中での索敵戦は互いに手探りの死闘だった。1時間という長い対峙の末、わずかな判断の差が明暗を分けた。
1944年6月、マリアナ沖海戦(あ号作戦)の前後、米潜水艦の跳梁が激しいタウイタウイ泊地周辺で、第三十二駆逐隊の僚艦「早波」が米潜水艦「ハーダー」の雷撃を受け撃沈された。この時、第三十二駆逐隊司令・折田常雄大佐は早波に座乗しており、艦と運命を共にした。
これにより、玉波は代わって第三十二駆逐隊の旗艦を務めることになる。さらに人事面でも異例の「玉突き」が発生した——玉波艦長だった青木久治中佐が新たに第三十二駆逐隊司令に昇格し、本来「早波」の艦長に着任するはずだった千本木十三四中佐が、代わって玉波の艦長に着任したのである。奇しくも、この人事異動で玉波に着任した青木・千本木の両名は、わずか1ヶ月後、マニラ湾口で玉波と運命を共にすることになる。
僚艦の喪失によって生まれた人事異動が、結果的に新しい配置先での戦没につながった。つまりどういうことか——太平洋戦争末期の駆逐艦乗りたちは、どの艦に配置されても等しく危険と隣り合わせだったという事実を、この玉突き人事は静かに物語っている。
玉波の本質は、太平洋戦争中期から末期にかけて、日本海軍が失っていく様々な「もの」を目撃し続けた艦だったという点にある。竣工直後には戦艦「陸奥」の謎の爆沈を目の当たりにし、僚艦「龍田」の生存者を収容し、そして僚艦「早波」の喪失によって自らが隊の旗艦を継ぐことになった。玉波は常に、失われていく戦力の「その後」を引き受け続けた艦だった。
しかし、目撃者であり続けることは、いつまでも安全であることを意味しなかった。マニラ湾口でのミンゴとの1時間に及ぶ対潜戦闘は、玉波がこれまで見てきた喪失の連鎖に、自らも加わることになった瞬間だった。爆雷をかわされ、魚雷をかわし、そして最後にはかわしきれなかった——この息詰まる攻防は、駆逐艦と潜水艦という互いに見えない敵同士の戦いの本質を映し出している。
玉波が残したものは何か——それは、僚艦の喪失のたびに役割を引き継ぎ、最後まで任務を全うし続けたという記録である。早波の司令・折田大佐の死を継いで旗艦となり、青木・千本木という2人の指揮官と共に、玉波は自らの最期までその責務を担い続けた。猫工艦は、目撃者として、そして当事者として太平洋を駆け抜けた玉波の乗員たちに、静かな敬意を表したい。
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第32駆逐隊戦時日誌・海軍辞令公報(甲)第1638号・第1660号
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書6・12・37・46・56『マリアナ沖海戦』『海上護衛戦』『南西方面海軍作戦』関連巻
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫、1993年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・池田清『重巡摩耶』学研M文庫、2002年
- ・Wikipedia「玉波 (駆逐艦)」「夕雲型駆逐艦」「マリアナ沖海戦」「藤波 (駆逐艦)」