幾度沈まずとも——電気溶接の艦・吹雪型「夕霧」、セント・ジョージ岬沖への全記録

1942年8月28日、日没五分前。サンタイサベル島東方洋上で、姉妹艦「朝霧」が爆弾2発の直撃を受け、魚雷の誘爆と共に轟沈した。同じ空襲の中、駆逐艦「夕霧」も至近弾を受け機関部と上部構造物が損傷。第20駆逐隊司令・山田雄二大佐を含め32名が戦死した。だが夕霧は沈まなかった。最大速力28ノットまで落ちながらも、自力でショートランド泊地へ帰り着いた。

吹雪型駆逐艦14番艦・夕霧は、日本海軍が電気溶接を初めて本格採用した艦のひとつである。前部船体の約3分の1、リベット約30万本分に相当する箇所を、当時まだ実績の浅い溶接技術で建造した。その新技術への挑戦は、1935年の第四艦隊事件で艦首切断という形で試され、友鶴事件と並んで日本の艦船設計史を変えるきっかけとなった。

そして——その夕霧は、姉妹艦「朝霧」が目の前で轟沈する瞬間を見届けた艦でもあった。生き延びた夕霧は、その後も戦い続け、1年3ヵ月後、別の海戦で最期を迎える。沈まなかった艦が、最後にどう沈んだのか——それが、この物語の核心である。

建造所 / 起工日
舞鶴工作部
1929年4月1日
進水 / 竣工
1930年5月12日 進水
1930年12月3日 竣工
基準排水量 / 速力
1,700t
34.0kt
艦型・番艦
吹雪型14番艦
(特II型・霧級4番艦)
主砲型式・門数
12.7cm連装砲
3基6門
魚雷兵装
61cm3連装発射管
9射線
所属駆逐隊
第8駆逐隊→第20駆逐隊
→第11駆逐隊
特筆データ
日本海軍初期の
電気溶接採用艦
最終的な結末
1943年11月25日
セント・ジョージ岬沖で戦没
■ 電気溶接という挑戦——日本海軍初期の新技術艦
夕霧は艤装中だった当時、まだ全体の3分の1程度しか工程が進んでいなかったことを理由に、海軍が初めて本格的に電気溶接を採用する実験艦となった。リベット打ちに比べて経費と時間で有利という確信のもと、約30万本分のリベットに相当する箇所が溶接で建造された。つまり——夕霧は、艦そのものの建造方法において、日本海軍の技術的な転換点に立っていた艦だった。

夕霧は1929年4月1日、舞鶴工作部で起工した。1930年5月12日に進水(牡蠣の付着を防止する新式塗料が使われた)、同年12月3日に竣工し、第8駆逐隊(天霧・朝霧・夕霧、後に狭霧)に編入された。竣工直後の1931年6月には、欧米旅行から帰国した高松宮宣仁親王夫妻を載せた貨客船「秩父丸」を、第8駆逐隊4隻で館山沖まで出迎えるという、平和な時代の一場面もあった。

■ 第四艦隊事件——「国会議事堂のような大きさの三角波」
1935年9月26日、三陸沖で演習中の連合艦隊が台風に遭遇し、各艦が損害を受けた。当時最新鋭であった夕霧と初雪は、艦首が切断されるという深刻な損傷を被った。艦長は「国会議事堂のような大きさの三角波に幾度か遭遇し、艦首をもぎとられた」と報告している。夕霧と初雪は曳航されて大湊工作部に退避し、応急修理の後、舞鶴工作部で本格修理を行った。この事件は友鶴事件と共に、日本の艦船設計に大きな影響を与えることになる。横須賀鎮守府には、この事故の犠牲者36名の記念碑が建立された。

復旧した夕霧は1936年12月、第8駆逐隊に復帰。日中戦争では上海・杭州湾上陸作戦、華南沿岸での諸作戦、北部仏印進駐に従事した。1939年11月、駆逐隊改称により第8駆逐隊は「第20駆逐隊」となる。1941年1月、土佐沖の演習で軽巡「北上」と衝突する一幕もあったが、損傷は軽微だった。

■ 開戦直後——マレー作戦からベンガル湾まで ■
1941年12月
小沢治三郎中将指揮の馬来部隊として、マレー作戦に従事。
12月24日
姉妹艦「狭霧」がオランダ潜水艦K XVIに撃沈される。第20駆逐隊は天霧・朝霧・夕霧の3隻に。
1942年1月27日
エンダウ夜戦。停泊中の輸送船団を襲撃した英駆逐艦サネット・ヴァンパイアに対し、三水戦が反撃。サネットは沈没、ヴァンパイアは損傷して退避した。
4月6日
ベンガル湾通商破壊作戦。中央隊(鳥海・由良・龍驤・夕霧・朝霧)として行動、由良の商船3隻撃沈を支援した。

ベンガル湾作戦の直前、4月3日にはポートブレア停泊中に連合軍爆撃機の空襲を受け、夕霧は至近弾で若干の損傷を負ったが、戦闘航海には影響しなかった。作戦後、4月22日に呉へ帰投し修理。5月9日に完成すると、第三水雷戦隊はミッドウェー作戦で山本五十六大将・高須四郎中将の戦艦部隊護衛に従事した。海戦敗北後、夕霧は奄美大島・沖縄諸島方面で対潜掃蕩に従事し、7月にはインド洋方面通商破壊「B作戦」のためメルギーに進出する。

■ 川口支隊輸送——姉妹艦が目の前で轟沈した日
8月7日、ガダルカナル島の戦い生起によりB作戦は中止。第三水雷戦隊は川口支隊(陸軍第35旅団の一部)のガダルカナル島輸送を命じられる。8月24日、橋本信太郎少将指揮下の5隻(川内・夕霧・朝霧・天霧・白雲)が輸送船2隻を護衛してトラック泊地を出撃したが、第二次ソロモン海戦の敗北により輸送船による輸送は中止。8月26日夜半、第20駆逐隊4隻は歩兵第124連隊第2大隊(約600名)を分乗させ、駆逐艦による緊急輸送(鼠輸送)でガダルカナル島へ向かった。
■ 1942年8月28日、サンタイサベル島東方——運命の空襲 ■
【昼過】:ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場発のSBDドーントレス急降下爆撃機11機の空襲を受ける
【日没5分前】姉妹艦「朝霧」に爆弾2発が命中。魚雷誘爆により轟沈。
【同時刻】:「白雲」が航行不能、「夕霧」も至近弾で機関部・上部構造物が損傷。最大速力28ノットに低下。
【被害】:第20駆逐隊司令・山田雄二大佐を含め32名戦死、重軽傷40名
【翌29日】:駆逐艦「陽炎」が救援に到着、合同
【8月30日】:陽炎と第20駆逐隊、ショートランド泊地に帰着

第一次鼠輸送作戦は完全に失敗した。10月1日、第20駆逐隊は解隊。健在だった「天霧」は第八艦隊へ、「夕霧」と「白雲」は呉鎮守府警備駆逐艦となった。夕霧自身、この日の戦闘で多くの戦友を失っている。指揮官を失った隊として、夕霧はその後も戦い続けることになる。

夕霧、田中頼三少将の将旗を掲げて出航する

8月31日、第二水雷戦隊司令官・田中頼三少将は増援部隊指揮官を引き継ぎ、「夕霧」に将旗を掲げてショートランドからトラック泊地へ向かった。

——ガ島増援部隊の指揮官交代に伴う措置。9月2日、田中少将は二水戦旗艦を「夕霧」から「神通」に変更した。

修理を終えた夕霧は、1943年1月、第八艦隊に編入されケ号作戦(ガダルカナル島撤収作戦)の支援に従事する。2月25日には第11駆逐隊に編入され、天霧・夕霧・白雪・初雪で定数4隻を回復。ソロモン諸島での輸送任務に従事した。2月9日には僚艦「江風」が衝突事故で損傷した際、水雷艇「鴻」と共に救援に向かい、江風をショートランド泊地へ護衛して帰投させている。

■ 米潜水艦グレイバックの雷撃——艦首切断、再び
1943年5月16日、ムッソウ島沖(カビエン北西12浬)で、夕霧は米潜水艦「グレイバック」の雷撃を受け、艦首部切断の損傷を負った。戦死者9名。8年前の第四艦隊事件と同じく艦首が失われるという損傷だったが、今回の原因は自然の脅威ではなく敵潜水艦だった。夕霧は姉妹艦「天霧」に曳航されてラバウルへ移動し、その後トラック泊地で応急修理、8月には内地(呉)に帰投して本格修理を受けた。

この間、第11駆逐隊の僚艦「初雪」がショートランド泊地で空襲を受けて沈没し、健在の第11駆逐隊所属艦は「天霧」のみという状態になっていた。修理を終えた夕霧は11月9日に呉を出撃し、サイパン・トラックを経由して11月18日にラバウルへ到着。すぐにブカ島輸送任務に従事することになる。

■ 夕霧の全戦歴ハイライト ■
【1930年12月】:吹雪型・霧級として竣工。電気溶接を本格採用
【1935年9月26日】:第四艦隊事件。艦首切断の損傷
【1942年1月27日】:エンダウ夜戦。英駆逐艦サネット撃沈に貢献
【1942年4月6日】:ベンガル湾通商破壊作戦。由良の商船撃沈を支援
【1942年8月28日】:ガダルカナル輸送中、空襲で被弾。姉妹艦朝霧が轟沈、夕霧も損傷・32名戦死
【1943年2月】:ケ号作戦(ガダルカナル撤収)支援、江風を救援
【1943年5月16日】:米潜水艦グレイバックの雷撃で艦首切断、戦死9名
【1943年11月24日】:第二次ブカ島輸送作戦に従事
【1943年11月25日】:セント・ジョージ岬沖海戦。大波・巻波撃沈後、夕霧も集中砲火を受け沈没。戦没

1943年11月24日、第31駆逐隊司令・香川清登大佐指揮下、警戒隊(大波・巻波)と輸送隊(天霧・夕霧・卯月)の5隻による第二次ブカ島輸送作戦が実施された。輸送そのものは成功したが、帰途、ブーゲンビル島セント・ジョージ岬沖で、アーレイ・バーク大佐指揮下の米駆逐艦5隻が日本側部隊を襲撃する。

■ 最期——セント・ジョージ岬沖、9本の魚雷
夜間水上戦闘の中、最初に警戒隊の「大波」と「巻波」が被雷・被弾して沈没した。夕霧は魚雷9本を発射したが命中せず(夕霧側は駆逐艦1隻撃沈と記録している)、米駆逐隊の集中砲火を浴びて11月25日午前1時30分ころ沈没した。アメリカ側の記録によれば、バーク隊は警戒隊2隻を撃沈した後、北方へ退避する「敵艦3隻」をレーダーで探知・追跡し、「最大に見えた艦」を砲撃で撃沈した——それが夕霧だった。司令駆逐艦「天霧」と「卯月」はラバウルへ帰投できた。

南東方面部隊指揮官・草鹿任一中将は、伊号第百七十七潜水艦と伊号第百八十一潜水艦に遭難艦の救助を命じた。伊177は夕霧乗員と便乗者計278名を救助し、伊181は11名を救助した。生存率は決して低くなかったが、ブーゲンビル島・ブカ島への駆逐艦輸送はこの敗戦をもって打ち切られ、以後は小舟艇や潜水艦輸送に頼るしかなくなった。12月15日、夕霧は吹雪型駆逐艦・帝国駆逐艦籍から除籍された。

■ 猫工艦の考察 夕霧という艦の本質は、「一度の危機で終わらない生命力」にある。1935年の第四艦隊事件で艦首を失い、1942年8月には姉妹艦朝霧の轟沈を目の前で見ながら自身も被弾し、1943年5月には米潜水艦の雷撃で再び艦首を切断された。それでも夕霧は、そのたびに修理を受け、戦線に戻り続けた。

しかし、生き延び続けることと、最後まで沈まないことは別の話だった。セント・ジョージ岬沖海戦では、夕霧自身が放った魚雷9本はすべて命中せず、最後はレーダーに捉えられて集中砲火を浴びた。電気溶接という新技術への挑戦から始まったこの艦の歴史は、最新技術であるレーダー射撃によって終わりを迎えた——その対比は、決して偶然ではないように見える。

夕霧が残したものは、何度も生き延びた末に訪れる最期の重さそのものだ。今を生きる私たちに、この艦が問いかけるのは——どれほど多くの危機を乗り越えても、戦場という構造の中では、いつか訪れる結末を避けられないことがある、という事実かもしれない。

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■ 参考文献・資料

  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書14『ガダルカナル島・ソロモン諸島方面陸軍作戦』朝雲新聞社、1968年
  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書83『南東方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1975年
  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書96『南東方面海軍作戦(3)』朝雲新聞社、1976年
  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書26『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年
  • ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考
  • ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
  • ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫、1993年
  • ・木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年
  • ・雑誌「丸」編集部『陽炎型(光人社)』潮書房光人社、2014年
  • ・古波蔵保好『航跡』、1996年
  • ・Wikipedia「夕霧 (吹雪型駆逐艦)」

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