「陛下を乗せた艦は、僚艦を救えなかった」——サボ島沖で叢雲救援中に果てた朝潮型7番艦「夏雲」の全記録

1942年10月12日13時過ぎ、ソロモン諸島ニュージョージア島沖。空襲で大破・炎上し航行不能となった僚艦「叢雲」を救おうと駆けつけた駆逐艦「夏雲」もまた、米軍艦上機と陸軍機の波状攻撃に晒された。至近弾を数発、後部甲板左舷への直撃弾一発。浸水が進む中、第9駆逐隊司令・佐藤康夫大佐は夏雲の乗員を僚艦「朝雲」へ移乗させることを決断する。14時27分、夏雲は沈んだ。艦長・塚本守太郎大佐以下17名が還らなかった。

朝潮型駆逐艦19隻(実際は10隻)の7番艦として1938年2月に竣工した「夏雲」は、華々しい撃沈戦果を持つ艦ではない。むしろその艦歴の大半は、輸送船団の護衛、被弾した僚艦の曳航・救助、そして敵を欺くための陽動任務――戦うことよりも「守り、繋ぐ」ことに費やされた。竣工からわずか半年後の1938年8月には、昭和天皇の御召艦という栄誉にも浴している。

そして——皮肉なことに、この「守り続けた艦」の最期もまた、僚艦を救おうとした末の戦没だった。サボ島沖海戦の翌朝、燃え盛る叢雲に手を差し伸べようとした夏雲を、戦場は容赦なく飲み込んだ。

建造所・起工
佐世保海軍工廠
1936年7月1日
進水・竣工・艦長
1937年5月26日進水
1938年2月10日竣工
塚本守太郎少佐(1940年1月〜)
基準排水量・全長
2,000トン級
118.4m
最大速力・出力
35.0ノット級
50,000馬力
主砲
12.7cm連装砲C型
3基6門
魚雷兵装
61cm4連装発射管2基
九〇式魚雷16本
所属駆逐隊
第9駆逐隊
(朝雲・山雲・峯雲)
特筆データ
1938年8月、昭和天皇の
御召艦を務める
最終結果
1942年10月12日 戦没
サボ島沖海戦

「夏雲」は1936年7月1日、佐世保海軍工廠で起工した。1937年5月26日進水、1938年2月10日に竣工し、即日横須賀に回航。同日付で竣工していた僚艦「山雲」と第41駆逐隊を編制した。その後「朝雲」「峯雲」も加わり、朝潮型5〜8番艦4隻が揃う。

竣工からわずか半年後の1938年8月11日、葉山御用邸に滞在中だった昭和天皇が、木更津海軍航空隊への行幸のため横須賀沖に停泊していた「夏雲」に乗艦した。供奉艦は僚艦「山雲」。海軍大臣米内光政、内務大臣末次信正らも同乗し、木更津海軍航空隊への往復を終えて午後4時までに横須賀港へ帰投している。就役間もない一駆逐艦にとって、これ以上ない栄誉だった。

1940年11月、第9駆逐隊は第二艦隊・第四水雷戦隊(旗艦「那珂」)に編入。1941年12月8日の開戦時には、朝潮型4隻(朝雲・山雲・夏雲・峯雲)による第9駆逐隊として、比島部隊麾下でビガン上陸作戦、リンガエン湾上陸作戦を支援した。

■ 「夏雲」の全戦歴ハイライト ■
【1938年8月】:昭和天皇の御召艦を務める
【1942年2月】:スラバヤ沖海戦、砲雷撃戦は行わず輸送船団護衛に徹する
【1942年4月1日】:米潜水艦シーウルフの襲撃を受け「那珂」大破。護衛にあたる
【1942年4月12日】:一時的に四水戦旗艦を務める
【1942年9月2日】:朝雲と共に陽動作戦、偽電を発信
【1942年10月5日】:被弾した僚艦「峯雲」を護衛しショートランドへ帰投
【1942年10月11-12日】:サボ島沖海戦。叢雲救援に向かうも被弾
【1942年10月12日14時27分】:戦没。艦長以下17名戦死
エピソード① サボ島沖海戦——叢雲救援中の戦没

1942年10月11日朝、水上機母艦「日進」「千歳」と駆逐艦6隻(秋月・朝雲・夏雲・綾波・白雪・叢雲)がショートランド泊地を出撃、ガダルカナル島へ向かった。夏雲には陸兵38名の揚陸任務が課されていた。同時進行で、第六戦隊(青葉・古鷹・衣笠、指揮官五藤存知少将)によるヘンダーソン飛行場砲撃も実施されることになっていた。

日進隊はタサファロングで20時10分から揚陸を開始したが、22時頃、サボ島方面で水上戦闘が生起しているのを確認する。第六戦隊とノーマン・スコット少将指揮下の米艦隊(巡洋艦4・駆逐艦5)による夜間水上戦闘――サボ島沖海戦だった。この戦闘で旗艦「青葉」は大破して五藤司令官が戦死、重巡「古鷹」と駆逐艦「吹雪」が沈没した。

日進隊は23時05分に揚陸を完了して離脱したが、翌12日0時33分、「朝雲」「夏雲」に対し重巡「衣笠」と合流して敵艦隊を攻撃撃滅せよとの命令が下る。同じ頃、「白雪」「叢雲」は古鷹の救援に向かった。しかし12日朝、ニュージョージア島沖で「白雪」「叢雲」がヘンダーソン基地から飛来した米軍機(F4F・SBD・TBF)の波状攻撃を受け、叢雲が大破・炎上し航行不能に陥る。

■ 10月12日、サボ島沖の時系列 ■
0033
朝雲・夏雲に衣笠と合流し敵艦隊攻撃を命令
白雪・叢雲、米軍機の波状攻撃で叢雲が大破・炎上・航行不能に
朝雲・夏雲、叢雲救援のため急行
1250/1345
朝雲・夏雲、艦上機・陸軍機の攻撃を受ける。夏雲に至近弾数発、後部甲板左舷に直撃弾
14:00頃
浸水進行。佐藤司令、夏雲乗員を朝雲へ移乗させる
14:27
夏雲、沈没。塚本艦長以下17名戦死
■ 同日、僚艦「叢雲」も失われる
夏雲が沈んだのと同じ日、大破していた叢雲も「白雪」「朝雲」による曳航を試みるも艦尾切断のため断念され、白雪の手で処分(自沈処分)された。叢雲の乗員は全員行方不明と記録されている。つまりどういうことか——夏雲は救おうとした艦を救えず、自らも命を落とした。この海戦一日だけで、日本側は重巡1・駆逐艦2(吹雪・夏雲)を失い、叢雲も事実上失われた。
エピソード② 御召艦の栄誉と、僚艦を守り続けた日々

竣工からわずか半年の1938年8月11日、葉山御用邸に滞在していた昭和天皇が木更津海軍航空隊への行幸のため「夏雲」に乗艦した。海軍大臣・米内光政、内務大臣・末次信正、横須賀鎮守府司令長官・長谷川清、軍令部次長・古賀峯一といった要人が同乗し、供奉艦は僚艦「山雲」。就役間もない一駆逐艦が天皇の御召艦に選ばれることは、この上ない栄誉だった。

この栄誉の後も、「夏雲」の艦歴は一貫して「守る」ことに費やされた。1942年2月のスラバヤ沖海戦では、僚艦「朝雲」「峯雲」が砲雷撃戦を交える中、夏雲は駆逐艦「海風」や敷設艦「若鷹」と共に輸送船団の護衛に徹し、砲雷撃戦を行っていない。むしろこの海戦で「朝雲」が損傷したことを受け、佐藤司令は司令駆逐艦を朝雲から夏雲に変更している。

4月1日、クリスマス島沖で米潜水艦シーウルフが四水戦旗艦「那珂」を雷撃、大破させた。夏雲・峯雲は「那珂」の護衛にあたり、シンガポールまで送り届けた。「那珂」がシンガポールで応急修理に入ると、四水戦旗艦は「夏雲」に変更される。12日、夏雲(旗艦)と峯雲はシンガポールを出発して横須賀へ向かうが、途中、ドーリットル空襲を実行した米機動部隊を追撃するも会敵できなかった。

■ 10月5日、僚艦「峯雲」を護って帰投
ガダルカナル輸送作戦中の10月5日、SBD9機の空襲で峯雲が至近弾を受け浸水、速力12ノットまで低下した。夏雲は峯雲を護衛してショートランド泊地に帰投している。わずか1週間後、今度は自らが叢雲の救援に向かい、そのまま還らなかった。つまりどういうことか——僚艦を守り抜いた実績のある艦だったからこそ、迷わず叢雲の救援に向かったのだろう。
エピソード③ 陽動——戦わずして戦場を欺く

「夏雲」の艦歴には、正面から敵と切り結ぶ場面がほとんど登場しない。1942年9月2日、トラック泊地へ帰投する前進部隊と分離した「朝雲」「夏雲」は、日本艦隊がソロモン諸島北方で活動中であるかのように見せかけるため、あえて偽電を発信する陽動作戦を実施した。9月8日にトラックへ戻ったが、その効果のほどは記録に残っていない。

この「戦わずに敵を欺く」という役回りは、夏雲というこの艦の性格をよく表している。ミッドウェー作戦でも、第9駆逐隊(朝雲・夏雲・峯雲)は近藤信竹中将率いる攻略部隊本隊に組み込まれていたが、主力空母部隊の敗北を受けて実際の激戦には加わらなかった。その後もウェーク島近海での牽制行動、アリューシャン方面への転戦と、常に「本隊を側面から支える」役割を担い続けた。

華々しい戦果もなければ、劇的な被弾もない。しかし輸送船団を守り、負傷した僚艦を庇い、時に敵の目を欺く――そうした地道な任務の積み重ねの果てに、最後は僚艦を救おうとして命を落とした。夏雲というこの艦の艦歴は、太平洋戦争において「目立たないが欠かせない」駆逐艦の役割を、静かに体現している。

猫工艦の考察

夏雲の本質は、撃沈戦果ではなく「守り、繋ぎ、欺く」という支援任務に徹した点にある。竣工半年で昭和天皇の御召艦を務めるという栄誉を得ながら、その後の艦歴は輸送船団護衛、損傷艦の曳航・護衛、四水戦旗艦の代行、陽動作戦と、常に主役ではなく脇を固める役回りだった。スラバヤ沖海戦で砲雷撃戦を回避したことも、臆病さではなく、与えられた護衛任務に忠実だった証と見るべきだろう。

しかし、その「守る」という性質こそが、最後には皮肉な結末を招いた。サボ島沖海戦で大破・炎上した僚艦「叢雲」を救おうと駆けつけた夏雲は、自らも米軍機の波状攻撃を受け、叢雲を救えないまま沈んでいった。輸送船団を守り、峯雲を守り、那珂を守り続けてきた艦が、最後に守ろうとした艦だけは救えなかったという事実は、太平洋戦争における日本駆逐艦隊の限界――対空戦闘力の乏しさ、制空権を失った戦場での駆逐艦の脆弱さを、静かに物語っている。

夏雲が残したものは何か。それは、華やかな戦果を残さなくとも、輸送・護衛・欺瞞という地道な任務に徹した艦もまた、艦隊を支える不可欠な存在だったという事実である。そして、僚艦を救おうとした末の戦没は、駆逐艦乗りたちが最後まで持ち続けた「仲間を見捨てない」という意志の証でもある。猫工艦は、この目立たぬ守り手の献身に、深い敬意を表したい。

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昭和天皇の御召艦、そして僚艦を守り続けた艦——「夏雲」の意志を、その身に纏え

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■ 参考文献・資料

  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書26・29・43・49・62・83『蘭印・ベンガル湾方面/北東方面海軍作戦/ミッドウェー海戦/南東方面海軍作戦』朝雲新聞社
  • ・アジア歴史資料センター(JACAR)夏雲関連公文書・第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報
  • ・宮内庁編『昭和天皇実録』第七巻、東京書籍、2016年
  • ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • ・寺内正道ほか『海軍駆逐隊』潮書房光人社、2015年(丹羽年雄「第九駆逐隊の奮闘と壮烈なる最後」所収)
  • ・重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦』潮書房光人社、2014年
  • ・Wikipedia「夏雲 (駆逐艦)」「朝潮型駆逐艦」「サボ島沖海戦」
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