1945年4月7日、坊ノ岬沖。戦艦「大和」とともに海上特攻に出撃した第二水雷戦隊の一員として、駆逐艦「霞」もその場にいた。米軍機の猛攻により航行不能となった霞は、僚艦「冬月」の手で処分された。奇しくもこれは、朝潮型10隻の中で最後まで生き残った艦の、最後の戦いだった。真珠湾攻撃から数えて3年4ヶ月、僚艦たちが次々と姿を消していく中、霞だけがほとんどの主要海戦を生き延び続けていた。
朝潮型駆逐艦10番艦(最終艦)として1939年6月に竣工した「霞」は、当初「朝雲」と命名される予定だったが、竣工前に改名された艦だった。真珠湾攻撃、キスカ島沖での大破、スリガオ海峡海戦、オルモック輸送作戦、礼号作戦、北号作戦——太平洋戦争のほぼ全期間を通じて、この艦は生き延び続けた。
そして——最後まで生き残ったこの艦の終わりは、敵弾によるものではなかった。戦艦「大和」が沈み、連合艦隊の水上部隊としての戦いそのものが終わろうとしていたその場所で、霞もまた、僚艦の手によって静かに幕を下ろされた。
1936年12月1日
1939年6月28日竣工
118.4m
50,000馬力
3基6門
九〇式魚雷16本
(霰・陽炎・不知火の混成)
二水戦旗艦を2度務める
坊ノ岬沖海戦(天一号作戦)
「霞」は当初、「朝雲」の艦名で建造が計画されていた。しかし1936年6月19日、竣工前に「霞」へと改名される。1936年12月1日、浦賀船渠で起工。1937年11月18日進水、1939年6月28日に竣工し、同型艦「霰」と共に第18駆逐隊を編成した。1940年11月6日「陽炎」、12月20日「不知火」が編入し、朝潮型と陽炎型の混成4隻編制となる。
1941年9月1日、宮坂義登大佐が駆逐隊司令に着任。9月29日、司令艦は霞から不知火に変更された。12月8日の開戦時、第18駆逐隊は南雲機動部隊の警戒隊として真珠湾攻撃に参加。第17駆逐隊・第18駆逐隊・「秋雲」の計9隻だけが許された、名誉ある随伴だった。その後もラバウル攻撃、ポートダーウィン攻撃、ジャワ南方機動作戦、セイロン沖海戦と、常に機動部隊の傍らにあり続けた。
1945年4月7日、戦艦「大和」を中心とする第二艦隊は、沖縄への海上特攻(天一号作戦)に出撃した。第二水雷戦隊各艦もこれに加わり、「霞」もその一員だった。しかし出撃した艦隊を待っていたのは、圧倒的な数の米軍艦載機による波状攻撃だった。「大和」をはじめとする多くの艦が沈没または大破する中、「霞」も米軍機の攻撃を受けて航行不能に陥る。
もはや自力での戦闘継続も帰投も不可能と判断され、「霞」は僚艦「冬月」(秋月型駆逐艦)によって処分された。これは、真珠湾攻撃から3年4ヶ月にわたり戦い続けてきた朝潮型最後の生き残り艦の、静かな最期だった。
霞の戦没をもって、朝潮型駆逐艦10隻は全て失われた。ネームシップ「朝潮」の戦没(1943年3月)を機に「満潮型」と改称されていたこの艦型は、竣工から6〜8年という短い生涯の中で、太平洋戦争のほぼ全期間の戦場を経験し尽くしたことになる。つまりどういうことか——霞1隻の生存期間の長さこそが、逆説的に、この艦型がいかに過酷な戦場に投入され続けたかを物語っている。
1942年7月5日未明、キスカ島沖。濃霧の中で仮泊していた第18駆逐隊3隻(不知火・霞・霰)を、米潜水艦グロウラーが襲撃した。霞は1番砲塔前の下部に被雷。60番フレームより前方区画に浸水し、周辺一帯が大火災に見舞われた。隔壁の大部分が焼失し、甲板・外板も焼損。艦首は右に屈曲して垂下し、後甲板付近にも大きな挫屈が生じた。僚艦「霰」は轟沈、104名が犠牲となった。
大破した「霞」と「不知火」は、キスカ湾内で空襲を受けて沈没していた特設運送船「日産丸」の残骸に隠れながら、応急修理を続けた。高松宮日記には「霞・不知火共後部2ヶ、砲塔・機銃・探照灯完全、自衛上ノ支障ナシ、士気旺盛ナリ」との記述が残る。7月27日、駆逐艦「雷」に曳航された霞は、「陽炎」の護衛を受けてキスカ島を出発。8月3日、幌筵島片岡湾に到着した。8月13日、霞は呉鎮守府予備艦となり、本格修理に入る。
同じく大破した「不知火」は、艦橋と煙突の間で船体を切断せざるを得ないほどの損傷を負い、修理完了まで1年2ヶ月を要した。一方「霞」は比較的早く曳航・修理され、戦列に復帰している。この差が、後の艦歴——霞の生存、不知火の1944年戦没——を分ける一因になったとも言える。
1944年10月、レイテ沖海戦。志摩清英中将率いる第二遊撃部隊(重巡那智・足柄、第一水雷戦隊)の一員として、「霞」は「不知火」と共にスリガオ海峡海戦に参加した。西村祥治中将率いる第一遊撃部隊第三部隊(西村艦隊)がほぼ壊滅する中、霞は生還する。しかしその2日後の10月27日、僚艦「不知火」がフィリピン沖で戦没。数少ない生き残りとなった。
11月20日、第一水雷戦隊が解隊されると、第7駆逐隊(霞)は第二水雷戦隊に編入され、木村昌福少将が司令官に就任。霞は二水戦旗艦を務めることになる。座礁して大破した戦艦「榛名」を護衛するためリンガ泊地を出発した際は、一時旗艦を「潮」に変更するなど、柔軟な指揮下で任務をこなし続けた。12月20日には礼号作戦(ミンドロ島攻撃)にも参加し、再び二水戦旗艦として重巡「足柄」・軽巡「大淀」と共に出撃。夜間空襲で僚艦「清霜」が沈没する中、霞は魚雷4本を発射し、清霜の乗員を救助して戦場を離脱した。
1945年1月、霞はシンガポールで整備を行い、北号作戦によって戦略物資を積んで本土へ帰還する。この頃には、朝潮型10隻のうち生き残っているのはもはや霞1隻だけだった。そして4月7日、坊ノ岬沖海戦(天一号作戦)で「大和」と運命を共にし、朝潮型最後の艦として、その艦歴に幕を下ろした。
霞の本質は、朝潮型という「消耗の激しい艦型」の中で、例外的なまでに生き延び続けた艦だったという点にある。真珠湾攻撃から坊ノ岬沖海戦まで、太平洋戦争のほぼ全期間を戦い抜き、キスカでの大破、スリガオ海峡での生還、礼号作戦での僚艦救助と、幾度となく生死の境をくぐり抜けてきた。二水戦旗艦を2度務めたという事実も、この艦が信頼される実戦艦だったことを物語っている。
しかし、生き延び続けたことは、同時に「見送り続けた」ことでもあった。姉妹艦「霰」をキスカで、「不知火」をレイテで、そして朝潮型の他の全艦を、霞は一隻また一隻と見送っていった。最後に残ったのが霞だったという事実は、生存が必ずしも幸運だけを意味しないことを示している。長く生きるということは、それだけ多くの喪失に立ち会い続けるということでもあった。
霞が残したものは何か。それは、朝潮型という艦型が経験した太平洋戦争のほぼ全貌を、一隻で体現したという記録である。真珠湾からミッドウェー、キスカ、レイテ、礼号作戦、北号作戦、そして坊ノ岬沖――この艦の艦歴を辿ることは、そのまま帝国海軍水上部隊の興亡を辿ることに等しい。猫工艦は、生き延び、そして見送り続けたこの艦の意志に、深い敬意を表したい。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書29・93・96『北東方面海軍作戦/捷号陸軍作戦<2>/南東方面海軍作戦<3>』朝雲新聞社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)霞関連公文書・第十一水雷戦隊戦時日誌・第二水雷戦隊戦時日誌
- ・高松宮宣仁親王『高松宮日記』第四巻・第六巻、中央公論社
- ・寺内正道ほか『海軍駆逐隊』潮書房光人社、2015年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・将口泰浩『キスカ島奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯』新潮文庫、2009年
- ・Wikipedia「霞 (朝潮型駆逐艦)」「朝潮型駆逐艦」「不知火 (陽炎型駆逐艦)」