1943年3月5日、ラバウル——ビスマルク海海戦から帰投した駆逐艦「朝雲」の艦長・岩橋吉隆中佐は、第八艦隊司令部に向かい、率直に言い放った。「こんな無謀な作戦をたてるということは、ひいては日本民族を滅亡させるようなものだ。よく考えてからやっていただきたい」。制空権のない海域への大型輸送船団派遣がいかに無謀だったか——朝雲はその惨状を目の前で見た艦だった。輸送船12隻が沈み、護衛駆逐艦4隻が沈み、ダンピール海峡に漂う数百名の生存者を485名救い出した後の言葉だった。
「朝雲」は朝潮型5番艦として1938年3月に竣工した。第9駆逐隊(朝雲・山雲・夏雲・峯雲)のネームシップ的な存在として、スラバヤ沖海戦、第三次ソロモン海戦、ビスマルク海海戦、キスカ島撤退作戦と太平洋戦争の主要な海戦・作戦を次々と渡り歩いた。第9駆逐隊の仲間——夏雲(1942年10月)・峯雲(1943年3月)が相次いで戦没する中、朝雲と山雲は第4駆逐隊に移籍して最後まで戦い続けた。
そして——1944年10月25日、スリガオ海峡。米駆逐艦マクダーマットの魚雷が朝雲の艦首を吹き飛ばした。低速で反転離脱を試みた朝雲は、撤退する重巡「最上」に追い抜かれながらも、最後まで戦おうとした。米軽巡デンバー・コロンビアにとどめを刺されて沈んだ時、艦首のない朝雲の艦体は海に消えた。生存者25名はフィリピンの島に漂着して捕虜となった。第4駆逐隊は全艦、1日で失われた。
3基6門
(8射線・九三式酸素魚雷)
艦本式タービン2基
スリガオ海峡夜戦で戦没
1938年3月31日に神戸川崎造船所で竣工した朝雲は、第41駆逐隊を経て1939年11月1日に第9駆逐隊(朝雲・山雲・夏雲・峯雲)に編入された。第8駆逐隊(朝潮型前期4隻)と並ぶ第9駆逐隊は、主に第4水雷戦隊の一員として行動した。開戦後はスラバヤ沖海戦(1942年3月1日)——オランダ艦隊との最後の決戦——に参加し、ここで艦長・岩橋中佐は被弾による機関故障を経験した。その後、第三次ソロモン海戦、ビスマルク海海戦、そして北方のキスカ島撤退作戦(1943年7月)と、朝雲は太平洋のあらゆる戦場を転戦した。
1943年3月3日——ビスマルク海。朝雲は空襲から逃れた。朝潮・荒潮・白雪・時津風が沈み、輸送船12隻が沈んだ後、朝雲は雪風・敷波・浦波・初雪と共に救助活動を続けた。日が沈んだ後、朝雲・雪風・敷波は最後まで現場に残り、3月4日夜から5日にかけてカビエンに帰投した。朝雲が救助した生存者は485名にのぼった。
そして岩橋吉隆艦長(中佐)はラバウルへ戻り、第八艦隊司令部に直接申し入れた——「こんな無謀な作戦をたてるということは、ひいては日本民族を滅亡させるようなものだ。よく考えてからやっていただきたい」。この言葉は、制空権のない海域に大型輸送船団を送り込む愚かさを、最前線の艦長が身をもって体験した後の叫びだった。朝雲は「生き残った側」として、消えた12隻の代わりに怒りを届けた。
「こんな無謀な作戦をたてるということは、ひいては日本民族を滅亡させるようなものだ。よく考えてからやっていただきたい」
——制空権なき海への輸送作戦を目の前で見た後の怒声
——岩橋吉隆 艦長(中佐)、1943年3月5日 ラバウル・第八艦隊司令部へ
第9駆逐隊の4艦のうち、夏雲はサボ島沖海戦(1942年10月12日)で戦没し、峯雲はビラ・スタンモーア夜戦(1943年3月5日——ビスマルク海海戦の直後)で戦没した。残った朝雲と山雲は、第10駆逐隊に転籍し、さらに1944年7月には第4駆逐隊(満潮・山雲・朝雲・野分)に加わった。第4駆逐隊は朝潮型と陽炎型の「寄せ集め」だったが、朝雲と山雲は最後まで行動を共にした。
1943年7月のキスカ島撤退作戦(ケ号作戦)——朝雲は第2水雷戦隊の一員として5,183名のキスカ守備隊全員救出に参加した。この作戦の成功は、朝雲にとって「ビスマルク海の無謀な作戦」の対極にある、「完璧に計画された撤退の成功」だった。
第41駆逐隊(竣工時)→第9駆逐隊(1939年〜)→第10駆逐隊(1943年10月〜)→第4駆逐隊(1944年7月〜)と4つの駆逐隊を渡り歩いた朝雲は、「生き残る側」として何度も同型艦の死を見届けた。スラバヤ沖では被弾しながら帰投、ビスマルク海では生き残って485名を救助、キスカでは撤退を成功させた。そして最後にスリガオで艦首を失った。
西村艦隊の突入——1944年10月25日未明のスリガオ海峡。山雲が轟沈し、満潮が被雷、戦艦扶桑が落伍した中で、「満潮」「山雲」に続く三番手に位置していた朝雲は、米駆逐艦マクダーマットの魚雷攻撃により艦首を喪失した。艦首がなくなった朝雲は低速で反転し、離脱を試みた。午前4時頃、退却中の重巡「最上」(大破炎上中)に追い抜かれた。2隻は共に撤退しようとしたが——追撃してきた米艦隊の砲撃を受けた。
最上は米艦隊をふりきって逃げ延びたが、朝雲は米軽巡洋艦デンバー・コロンビアにとどめを刺されて沈んだ。総員退去後も米巡洋艦・駆逐隊の集中射撃を受けて艦体が沈没し、朝雲から脱出した内火艇も撃沈された。約200名が戦死し、生存者25名はフィリピンの島に漂着して捕虜となった。第4駆逐隊の野分も同日、栗田艦隊で別方向から撃沈された——第4駆逐隊は1日で全艦が失われた。
艦首を喪失した朝雲が「反転離脱」を試みたことは、戦闘継続を断念したのではなく「生き残れる限り生き続ける」という選択だった。最上と共に逃げようとした朝雲が最終的に沈んだのは、追撃の米艦隊の圧倒的な火力の前に逃げ切れなかったからだ。艦首がなくなっても反転した——それが朝雲という艦の最後の「抵抗」だった。
朝雲の本質は「怒れる生き残り」にある。ビスマルク海で485名を救い、帰投後に上層部に「無謀な作戦は日本を滅ぼす」と怒声を浴びせた岩橋艦長の言葉は、朝雲という艦が単なる「軍の命令に従う機械」ではなく、最前線の現実を体験した者として声を上げた瞬間を記録している。駆逐艦艦長が第八艦隊司令部に直言することは、当時の海軍の文化では決して当たり前ではなかった。
しかしその「怒り」は報われたか——ビスマルク海の後も、朝雲はキスカ、北方、マリアナ、そしてスリガオと転戦し続けた。戦争は終わらず、制空権なき海での作戦も終わらなかった。岩橋艦長の怒声は記録に残ったが、作戦方針は変わらなかった。朝雲は「言葉で抵抗した艦長と、それでも戦い続けた艦」の組み合わせだった。
スリガオ海峡で艦首を失い、低速で撤退しようとした朝雲の最後は——「もう終わりだ」と観念した逃げではなく、「生き残れる限り生き続ける」という抵抗だったと思いたい。岩橋艦長は上層部に怒声を浴びせた後も1年以上朝雲を率いて戦い続けた。その事実が、彼と朝雲の本質を語っている。猫工艦は、怒り、救い、そして最後まで戦った「朝雲」の航跡に、敬意を捧げたい。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書『南東方面海軍作戦』『捷号海上作戦』朝雲新聞社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)朝雲公文備考 / 第9・第4駆逐隊戦時日誌
- ・Wikipedia「朝雲 (駆逐艦)」「スラバヤ沖海戦」「ビスマルク海海戦」「キスカ島撤退作戦」「スリガオ海峡夜戦」
- ・丹羽年雄「第九駆逐隊の奮闘と壮烈なる最後 朝雲、山雲、峯雲、夏雲。スラバヤ沖からレイテまで朝潮型四隻の航跡」
- ・村井至「太平洋戦争と日本の駆逐艦 満潮、朝雲、山雲、時雨。西村艦隊第四&二十七駆逐隊に象徴される駆逐艦の苦闘」
- ・片桐大自『帝国海軍全艦艇史』ベストセラーズ
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫
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