1942年7月5日未明、アリューシャン列島キスカ島沖。濃霧の中、仮泊していた第18駆逐隊3隻(不知火・霞・霰)に、米潜水艦「グロウラー」が忍び寄っていた。先頭・二番艦に魚雷1本ずつ、三番艦「霰」には2本。1本目は外れたが、2本目が前檣下に命中した。魚雷発射管を吹き飛ばされながらも、霰は主砲を潜望鏡めがけて撃ち続けた。しかし直後、船体は中央付近で真っ二つに折れ、そのまま海中に消えた。104名が還らなかった。朝潮型駆逐艦、最初の喪失艦だった。
朝潮型10隻中9番艦として1939年4月に竣工した「霰」は、真珠湾攻撃では南雲機動部隊の警戒隊として、開戦劈頭の栄えある一隊に加わった艦だった。姉妹艦「霞」、そして陽炎型「陽炎」「不知火」と共に編成された第18駆逐隊は、空母を守る盾として、セイロン沖海戦まで一貫して機動部隊に寄り添い続けた。
そして——濃霧という「見えない敵」が、この艦の運命を決めた。予定より沖合に投錨してしまったという僅かな誤差が、グロウラーの雷撃を招き寄せた。それでも霰は、沈みゆく最後の瞬間まで、目に見える標的――潜望鏡――に向けて砲弾を撃ち続けていた。
1937年3月5日
1939年4月15日竣工
大原利通少佐
118.4m
50,000馬力
3基6門
九〇式魚雷16本
(霞・陽炎・不知火の混成)
最期まで反撃した姿勢が確認された
朝潮型最初の喪失艦
「霰」は1937年3月5日、舞鶴海軍工廠で起工した。朝潮型シリーズの中では最も遅い起工日で、当初は「型の末妹」となる予定だったが、姉にあたる「霞」の竣工が遅れたため、完成は霰の方が早くなった。1937年11月16日進水――同日は空母「飛龍」の進水日でもある。1939年4月15日に竣工し、同型艦「霞」、陽炎型「陽炎」「不知火」と共に第18駆逐隊を編成。朝潮型と陽炎型の混成部隊という珍しい編制だったが、航続距離以外で運用に大きな支障はなかった。同年11月、第二艦隊・第二水雷戦隊に編入された。
1941年12月8日、真珠湾攻撃では南雲機動部隊の警戒隊として参加。第17駆逐隊、第18駆逐隊、そして「秋雲」の計9隻だけが機動部隊に随伴を許された、名誉ある任務だった。航続距離に不安があったため、艦内の居住区にまで重油入りのドラム缶を追加搭載していたという。帰路、遠洋漁業中のマグロ漁船と遭遇し、真珠湾の大戦果を祝う漁師たちから大量のマグロを贈られ、霰は返礼に清酒を贈ったという心温まる逸話も残る。
1942年6月23日、大本営はミッドウェー作戦の陽動として占領していたアッツ島・キスカ島の長期確保を指示。第18駆逐隊は兵員・物資を輸送する船団の護衛に就くことになった。6月28日、横須賀で「山風」が米潜水艦ノーチラスに撃沈されていたため、別の輸送船護衛を予定していた「陽炎」だけが東京湾での対潜掃討に従事し、残る3隻(霰・霞・不知火)が水上機母艦「千代田」と特設運送船「あるぜんちな丸」を護衛してキスカ島へ向かった。
7月5日未明、「千代田」「あるぜんちな丸」はキスカ湾に入港。第18駆逐隊3隻は濃霧のため、沖合で仮泊することになった。18駆司令・宮坂義登大佐は乗員の疲労を考慮し、転錨を遅らせる判断を下していた。しかし、この判断が裏目に出る。予定より沖合に投錨してしまったことに気づかないまま、3隻は米潜水艦グロウラーの接近を許してしまう。
グロウラーは先頭・二番艦に魚雷1本ずつ、三番艦「霰」には2本を発射した。1本目は外れたが、2本目が前檣下に命中。魚雷発射管を吹き飛ばされた霰は、それでも主砲で反撃を試みた。だが直後、追撃の魚雷が船体をV字に折り、霰はそのまま沈没した。
2006年8月、別の沈没潜水艦「グラニオン」を捜索していたチームがソナーで霰の船体を発見した。前部魚雷発射管付近で分断され、艦首側は約170度回転して横転。しかし1番砲塔は直立し、グロウラーがいた方向を向いたままだった。つまりどういうことか——霰は沈みゆく最後の瞬間まで、砲撃を止めていなかった。64年の時を経て、その最期の抵抗が海底から証明された。
「霰」の艦歴の大半は、南雲機動部隊の護衛任務に費やされた。真珠湾攻撃では、機動部隊に随伴を許された艦は第17駆逐隊・第18駆逐隊・「秋雲」の計9隻のみという、名誉ある選抜だった。開戦後も、ラバウル攻撃、第二航空戦隊によるポートダーウィン攻撃、ジャワ南方機動作戦、そして1942年4月のセイロン沖海戦と、常に空母の傍らで盾となり続けた。
この頃の第18駆逐隊は、朝潮型(霞・霰)と陽炎型(陽炎・不知火)という異なる艦型の混成部隊だった。航続距離にこそ差があったものの、運用上の大きな支障はなかったという。4月23日、呉での入渠整備を経て、専任の空母護衛部隊として第十戦隊(旗艦「長良」)が新編されると、第18駆逐隊は原隊の第二水雷戦隊に復帰した。この時の編制は第1小隊(不知火・霞)、第2小隊(陽炎・霰)。
5月下旬、二水戦はサイパンに集結し、6月上旬のミッドウェー作戦には攻略部隊輸送船団の護衛として参加。海戦の敗北後は第七戦隊(司令官栗田健男少将)の指揮下に入り、大破した重巡「最上」をトラックに残しつつ、「熊野」「鈴谷」を護衛して呉に帰投した。この帰投からわずか2週間後、キスカ島への輸送任務で運命の日を迎えることになる。
霰の本質は、華々しい単独の戦果ではなく、機動部隊という帝国海軍の中枢を守り抜いた「盾」としての献身にある。真珠湾からセイロン沖まで、常に空母の傍らにあり続けたという事実は、この艦が信頼される護衛艦だったことの証だろう。マグロ漁船との心温まる逸話も、戦場の緊張の合間に垣間見える、乗員たちの人間味を伝えている。
しかし、その献身の果てに待っていたのは、濃霧という自然の気まぐれと、潜水艦という見えない脅威だった。予定より沖合に投錨してしまったという僅かな誤差が、グロウラーの奇襲を招いた。それでも霰は、なす術なく沈んだのではない。魚雷発射管を失ってなお主砲で反撃し、その姿勢のまま海底に沈んでいった。2006年に発見された船体が示す「直立したままの1番砲塔」は、この艦が最後まで戦意を失わなかった何よりの証拠である。
霰が残したものは何か。それは、勝てない状況でも最後まで抵抗をやめなかった駆逐艦乗りたちの矜持である。朝潮型最初の喪失艦という記録の裏には、64年後に海底から証明された「最後まで撃ち続けた」という事実がある。猫工艦は、この小さくも屈しなかった艦の意志に、深い敬意を表したい。
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潜望鏡めがけて撃ち続けた艦——「霰」の意志を、その身に纏え
「キスカ沖で朝潮型最初の犠牲となり、64年後にその抵抗の証が海底から見つかった艦」
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書29『北東方面海軍作戦』朝雲新聞社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)霰関連公文書・第五艦隊戦時日誌
- ・寺内正道ほか『海軍駆逐隊』潮書房光人社、2015年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦』潮書房光人社、2014年(第18駆逐隊関連記述)
- ・Wikipedia「霰 (朝潮型駆逐艦)」「朝潮型駆逐艦」「グロウラー (潜水艦)」「不知火 (陽炎型駆逐艦)」