1943年3月5日23時01分、ソロモン諸島クラ湾。輸送任務を終えて帰路についていた駆逐艦「峯雲」と「村雨」は、レーダーを持たない自分たちがすでにアメリカ艦隊に捕捉されていることに気づいていなかった。米第68任務部隊(軽巡3・駆逐艦3)は22時57分、レーダーで両艦を探知済みだった。峯雲はまず空襲と誤認し、直後に被弾・炎上。続けて艦central部に魚雷が命中し、23時15分、艦尾から海中に消えた。255名の乗員のうち、生きて還れたのはわずか45名だった。
朝潮型8番艦「峯雲」は、決して受け身な艦ではなかった。1942年2月のスラバヤ沖海戦では、損傷した僚艦「朝雲」を掩護しながら砲撃を続け、英駆逐艦「エレクトラ」を撃沈、「エンカウンター」と「ジュピター」を撃退するという、朝潮型の中でも屈指の戦果を上げている。肉眼と勘、そして訓練された砲術だけを頼りに、視認できる敵と正面から撃ち合って勝った艦だった。
そして——皮肉なことに、この「見える敵になら勝てる艦」を屠ったのは、姿の見えない敵、レーダーだった。ビラ・スタンモーア夜戦で峯雲が最後に見たのは、味方だと信じたかった閃光と、そこから放たれた一発の魚雷だけだった。
1937年3月22日
1938年4月30日竣工
118.4m
51,000馬力
3基6門
九〇式魚雷16本
(朝雲・夏雲・山雲)
英駆逐艦エレクトラ撃沈に貢献
ビラ・スタンモーア夜戦
「峯雲」は1937年3月22日、藤永田造船所で起工した。同年11月4日進水、1938年4月30日に竣工し、第41駆逐隊に編入。1939年11月15日、第41駆逐隊は第9駆逐隊に改称された。
1941年6月23日、日向灘で行われた演習中、峯雲は陽炎型駆逐艦「夏潮」の右舷中央部に衝突するという事故を起こす。艦首を損傷した峯雲が後進をかけたところ、後続していた「黒潮」に追突され、今度は左舷艦尾も損傷した。前後から挟まれる形の「二重衝突」だった。呉海軍工廠で約5ヶ月におよぶ修理を行い、太平洋戦争の開戦にはぎりぎり間に合っている。
開戦時の第9駆逐隊(朝雲・山雲・夏雲・峯雲)は、第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将、旗艦「那珂」)に所属し、ビガン・リンガエン湾上陸作戦を支援。12月31日には別行動中の「山雲」が触雷して戦線を離脱し、残る3隻(朝雲・峯雲・夏雲)でタラカン・バリクパパン・マカッサル・ジャワ各攻略作戦に加わった。
1943年3月上旬、峯雲と駆逐艦「村雨」は、コロンバンガラ島への輸送作戦を命じられた。3月4日夕、ドラム缶200本ずつと弾薬・糧食を満載してラバウルを出発。ブーゲンビル島ブインを経由し、3月5日21時30分から22時30分までクラ湾で揚陸を実施した。輸送した物資は、隣のニュージョージア島の部隊に届けられる予定だった。
しかし2隻の行動はPBYカタリナ飛行艇などによって米軍側に察知されており、潜水艦2隻がクラ湾出口に配備されていた。さらに、ムンダ飛行場への艦砲射撃を企図してクラ湾に侵入していたアーロン・S・メリル少将指揮の第68任務部隊(軽巡3・駆逐艦3)が、日本艦出現の報告を受けて攻撃態勢に入っていた。
22時57分、米艦隊はレーダーで峯雲・村雨を探知。23時01分、砲撃を開始した。薄曇り、月齢28、視界15km、風もない静かな夜――レーダーを持たない両艦は、この砲撃を当初、空襲と誤認したという。
沈没時、両艦とも多数の乗員が生存していたが、敵艦からの機銃掃射や長時間の漂流により多数が行方不明となった。峯雲乗組員255名のうち生存45名、戦死210名。同日、コロンバンガラ島守備隊もメリル隊の艦砲射撃を受けており、大発動艇による救助が遅れたことも被害拡大の一因とされる。つまりどういうことか——レーダーという「見えない目」を持つ敵の前では、視認による回避も反撃も機能しなかった。
1942年2月27日、ジャワ島攻略を目指す日本軍輸送船団をABDA艦隊(英米蘭豪連合)が迎撃し、スラバヤ沖海戦が勃発した。第9駆逐隊のうち「朝雲」(司令駆逐艦)と「峯雲」は、第五戦隊・第二水雷戦隊・第四水雷戦隊各部隊と共に、日本艦隊の中で最も敵に接近する形で交戦した。
重巡「羽黒」の砲撃を受けた英重巡「エクセター」の離脱を援護するため、英駆逐艦が応戦してくる。峯雲と朝雲は、煙幕から現れた英駆逐艦2隻「エレクトラ」「エンカウンター」と距離3000mで砲撃戦になった。朝雲が被弾したが、峯雲は朝雲を掩護しながら砲戦を続行。その結果、エレクトラを撃沈し、エンカウンターと駆逐艦「ジュピター」を撃退した。
当時の戦闘記録には、峯雲が30〜40斉射を超えたあたりから装薬・弾薬の補給が追いつかなくなり、射撃速度が斉射間隔8〜9秒にまで低下して「甚だしき不安の念を起こさせた」との記述が残る。それでも敵の大半が退避し、残る一艦も沈没寸前で砲火が沈黙するまで戦い抜いた。朝雲はこの海戦の損傷により戦線離脱、以後の第9駆逐隊の司令駆逐艦は「夏雲」に変更された。
弾薬の補給が追いつかず、射撃速度は著しく落ちた。それでも峯雲は撃ち続けた。
——第四水雷戦隊戦闘詳報、スラバヤ沖海戦、1942年2月27日
「峯雲」の艦歴は、常に順風満帆だったわけではない。1942年8月20日、トラック泊地を出港する際に冬島で座礁するという失態を演じている。しかし応急修理を終えるとすぐに油槽船を護衛して前進部隊を追いかけ、第二次ソロモン海戦では、空母「エンタープライズ」艦載機の急降下爆撃で操舵不能になった水上機母艦「千歳」を護衛してトラック泊地まで送り届けた。
10月5日、ガダルカナル島への輸送作戦中、SBD9機の空襲で峯雲は至近弾を受け浸水、速力12ノットまで低下する。この日は僚艦「村雨」も被害を受け引き返しており、峯雲は「夏雲」に護衛されてショートランド泊地に帰投した。ラバウルで修理を進めていた10月12日、今度は姉妹艦「夏雲」がサボ島沖海戦で戦没。第9駆逐隊は峯雲と朝雲の2隻だけになった。
10月20日、連合艦隊参謀長・宇垣纏中将は、損傷した僚艦「五月雨」の主砲砲身を峯雲のものと交換するよう指示。トラック泊地で工作艦「明石」により砲身と機銃(峯雲の25mm機銃と五月雨の40mm機銃)が交換された。座礁も、被弾も、僚艦の喪失も乗り越えながら、峯雲は損傷した仲間の”部品”にすらなって、艦隊を支え続けたのである。
ビラ・スタンモーア夜戦で救助された峯雲・村雨の生存者179名は、コロンバンガラ島守備隊に収容された後、鼠輸送でこの島に到着した各艦(朝雲・雪風・浦波・敷波・長月など)に便乗し、ラバウル経由で横須賀へ帰還した。つまりどういうことか——最後まで戦い続けた乗員たちの生還すらも、僚艦たちの地道な輸送任務によって支えられていた。
峯雲の本質は、視認できる敵となら真っ向から撃ち合い、勝ち抜く実力を持った艦だった、という点にある。スラバヤ沖海戦で見せた、損傷した僚艦を掩護しながらの砲撃戦継続と英駆逐艦撃沈は、朝潮型の中でも屈指の戦果であり、この艦が単なる輸送・護衛要員ではなく、正面戦闘力を備えた艦だったことを証明している。
しかし、その強さは「見える敵」に対してのみ発揮されるものだった。座礁、被弾、輸送任務での消耗を乗り越えながら戦い続けた峯雲を最後に屠ったのは、目視すら許さないレーダー技術だった。1943年3月のビラ・スタンモーア夜戦で、峯雲と村雨は自分たちが攻撃されていることにすら気づかないまま、一方的に撃沈された。この事実は、日本海軍が対水上レーダーの実用化で連合軍に大きく後れを取っていたという、太平洋戦争後半の構造的な劣勢を象徴している。
峯雲が残したものは何か。それは、正面から戦って勝てる実力を持ちながら、技術格差という見えない壁の前に敗れた駆逐艦の記録である。エレクトラを屠った砲手たちは、自分たちを屠る敵の姿を最後まで見ることができなかった。この皮肉な対比の中に、太平洋戦争の帰趨を決めた技術革新の重みが刻まれている。猫工艦は、視認戦を戦い抜いた峯雲の意志と、その最期の理不尽さの両方に、深い敬意を表したい。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書26・40・96『蘭印・ベンガル湾方面/南太平洋陸軍作戦<3>/南東方面海軍作戦<3>』朝雲新聞社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)峯雲関連公文書・第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報
- ・種子島洋二『ソロモン海「セ」号作戦』光人社NF文庫、2003年
- ・小板橋孝策「第三章 ソロモンの海へ」『下士官たちの太平洋戦争』光人社、1986年
- ・寺内正道ほか『海軍駆逐隊』潮書房光人社、2015年(丹羽年雄「第九駆逐隊の奮闘と壮烈なる最後」所収)
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・Wikipedia「峯雲 (駆逐艦)」「朝潮型駆逐艦」「ビラ・スタンモーア夜戦」「スラバヤ沖海戦」