1944年11月11日、オルモック湾。「浜波」は米機動部隊艦載機の多数による空襲を受け、航行不能に陥った。第三十二駆逐隊司令・大島一太郎大佐以下の乗組員は、姉妹艦「朝霜」に収容され、浜波は海上に放棄された。この日、多号作戦第三次輸送部隊は「朝霜」1隻を残して壊滅——浜波もまた、その中の1隻だった。艦は撃沈が確認されないまま漂流し続け、その残骸が発見されたのは、実に74年後の2018年1月のことだった。
「浜波」は夕雲型駆逐艦13番艦として、舞鶴海軍工廠で1942年4月に起工され、1943年10月に竣工した。早波・涼波・藤波・玉波を相次いで失っていく第三十二駆逐隊に加わり、マリアナ沖海戦、そしてレイテ沖海戦——サマール沖での護衛空母部隊追撃戦にも参加している。
興味深いのは、浜波の最期の日に起きた出来事の連鎖である。浜波は同じ多号作戦部隊で戦没した「長波」の生存者を一時収容していた。その直後、浜波自身も航行不能となり、今度は「朝霜」に救われる立場となった。この記事では、僚艦同士が次々と危機を分かち合った、浜波の全戦歴を辿る。
約2,772〜2,940t(満載)
「浜波」は1942年度(マル急計画)仮称第341号艦として、1942年4月28日、舞鶴海軍工廠にて起工された。9月25日、特務艦2隻(洲埼・風早)等と共に命名され、夕雲型駆逐艦に類別。1943年4月18日に進水し、舞鶴鎮守府籍となる。4月24日には僚艦「巻波」が舞鶴に到着し、霞・不知火・初春等と共に修理に入る様子も目撃している。1943年10月15日、竣工した。
浜波が加わったのは、早波・涼波・藤波・玉波という創設メンバーを次々に失っていた第三十二駆逐隊だった。1944年6月19日のマリアナ沖海戦(あ号作戦)には、第三十二駆逐隊の一員として前衛部隊に加わっている。海戦は日本側の大敗に終わったが、浜波は生き延びた。
1944年10月18日、捷一号作戦発動。第三十一駆逐隊(岸波・沖波・朝霜・長波)と共に、第三十二駆逐隊(浜波・藤波)は栗田健男中将率いる第一遊撃部隊(栗田艦隊)に所属し、リンガ泊地からブルネイ湾を経てレイテへ向かった。10月25日、栗田艦隊はサマール島沖で米護衛空母部隊を発見し追撃する(サマール沖海戦)。二水戦全体としては大きな戦果を挙げられなかったが、浜波もこの激しい追撃戦の渦中にあった。
レイテ沖海戦は日本側の大敗に終わり、第二水雷戦隊は軽巡「能代」、駆逐艦「藤波」「早霜」を失った。戦場離脱中、燃料が不足した駆逐艦5隻(岸波・島風・浦風・浜波・秋霜)はコロン島でタンカー「日栄丸」や重巡「那智」から燃料補給を受けている。この頃には第三十二駆逐隊も浜波・藤波の2隻にまで消耗していた(藤波はこの直後、鳥海の生存者救助中に自らも消息を絶つ)。
レイテ沖海戦全体は日本側の壊滅的敗北だったが、浜波は生き延びてブルネイへ帰投した。つまりどういうことか——この生還は、浜波にとって最後の猶予に過ぎなかった。わずか2週間余り後、より過酷な戦場が待っていた。
1944年11月11日、多号作戦第三次輸送部隊(指揮官早川幹夫少将、旗艦「島風」)は、護衛部隊(島風・浜波・若月・長波・朝霜・掃海艇30号)と輸送船4隻でオルモック湾へ向かっていた。正午前、米第38任務部隊の艦載機が部隊を襲う。この激しい空襲の中、僚艦「長波」が被弾・沈没。長波の生存者たちは、まず浜波に一時避難したという。
しかし、浜波自身もまた同じ空襲の渦中にあった。米軍機動部隊艦載機多数の攻撃を受け、浜波は航行不能に陥る。第三十二駆逐隊司令・大島一太郎大佐以下の乗組員は、今度は姉妹艦「朝霜」に収容された。浜波は海上に取り残されたまま放棄され、第三次輸送部隊はこの日、「朝霜」1隻を残して壊滅する。
長波の生存者を受け入れた浜波が、その直後には自らが朝霜に救われる立場になった。つまりどういうことか——オルモック湾のこの1日は、救助と被害が目まぐるしく入れ替わる、極限の戦場そのものだった。
放棄された浜波が、正確にいつ、どのように海底に没したのかは長らく明らかではなかった。撃沈が確認されないまま漂流を続けた艦の最期は、記録の隙間に埋もれていた。しかし2018年1月、故ポール・アレン氏(マイクロソフト共同創業者)率いる沈船捜索チームが、オルモック湾の海底に眠る浜波の残骸を発見し、その画像を公開する。同じ調査では、同じ海域で戦没した「長波」「若月」の残骸も同時に発見されている。
奇しくもこの発見のわずか1ヶ月後、艦艇擬人化ゲーム「艦隊これくしょん」に浜波が実装されたという後日談も残っている。74年の時を経て、深海に眠っていた艦の姿が現代の技術で明らかになったことは、歴史の記録に一つの区切りをもたらした出来事だった。
放棄されたまま行方不明とされていた艦の残骸が、74年後に発見された。つまりどういうことか——現代の技術は、戦時中の記録だけでは分からなかった艦の最期の姿を、静かに、しかし確かに私たちに伝えてくれる。
浜波の本質は、僚艦との間で連鎖する救助劇の渦中にありながら、自らは明確な「戦没」の瞬間を記録されないまま消えていった艦だという点にある。マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦という大規模な戦いを生き延び、最後には長波の生存者を受け入れる側でありながら、その数時間後には自らが救われる側に転じる——この目まぐるしい展開は、太平洋戦争末期のフィリピン方面がいかに一日のうちに何度も生死の境界が入れ替わる戦場だったかを物語っている。
しかし、浜波の物語には他の艦にはない特異な結末がある。「撃沈」ではなく「放棄」という形で戦列を離れたこの艦は、正確な最期の瞬間を誰にも見届けられなかった。それゆえに、2018年の残骸発見という出来事は、単なる考古学的発見以上の意味を持つ。それは、記録の空白の中に置き去りにされていた艦に、ようやく確かな終着点を与える出来事だった。
浜波が残したものは何か——それは、僚艦同士が互いを救い合いながら戦い抜いた、駆逐艦乗りたちの連帯の記録である。長波の生存者を受け入れ、自らは朝霜に救われた浜波の最後の数時間は、たとえ艦自体が明確な戦没を記録されなかったとしても、乗員たちの間に確かに存在した助け合いの精神を物語っている。猫工艦は、記録の外へと静かに消えていった浜波と、その乗員たちに敬意を表したい。
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第32駆逐隊戦時日誌・第一遊撃部隊戦時日誌・南西方面部隊戦時日誌
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書『捷号作戦』『レイテ沖海戦』『多号作戦』関連巻
- ・山本平弥ほか『秋月型駆逐艦〈付・夕雲型・島風・丁型〉』潮書房光人社、2015年
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫、1993年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・Wikipedia「浜波 (駆逐艦)」「夕雲型駆逐艦」「長波 (駆逐艦)」「レイテ沖海戦」
- ・RV Petrel(ポール・G・アレン氏率いる海洋調査チーム)オルモック湾残骸発見報告、2018年1月26日