夕雲型 · 19番艦(最終艦) · 第2駆逐隊
KIYOSHIMO 清霜
戦艦「武蔵」の最期を看取り、僚艦に見送られた夕雲型最終艦
浦賀船渠が建造した夕雲型駆逐艦19番艦にして最終竣工艦。シブヤン海で戦艦「武蔵」を護衛中に被弾しながらも約500名の生存者を救助し、2ヶ月後の礼号作戦で自らも爆発沈没。僚艦「霞」「朝霜」による74分間の救助劇とともに、夕雲型19隻の全戦歴を締めくくった艦の諸元と全戦歴。
SPECIFICATIONS
SPEC
基本諸元サマリー
TYPE
夕雲型 19番艦(最終艦)
DISPLACEMENT
2,077 t
MAX SPEED
35 kt
MAIN GUN
12.7cm連装 × 6
TORPEDO
61cm × 8射線
FATE
1944.12.26 礼号作戦で戦没
| 艦名 | 清霜(きよしも) |
| 艦型・番艦 | 夕雲型駆逐艦 19番艦(最終竣工艦) |
| 仮称艦名 | 第347号艦(1942年度マル急計画)/浦賀船渠第517番船 |
| 建造所 | 浦賀船渠 |
| 起工日 | 1943年(昭和18年)3月16日 |
| 命名 | 1943年(昭和18年)8月30日 |
| 進水日 | 1944年(昭和19年)2月29日 |
| 竣工日 | 1944年(昭和19年)5月16日 |
| 除籍日 | 1945年(昭和20年)1月10日 |
| 類別 | 一等駆逐艦 |
| 籍 | 横須賀鎮守府籍 |
| 全長 | 119.3m |
| 基準排水量 | 2,077t |
| 満載排水量 | 約2,900t |
| 出力 | 52,000馬力 |
| 最大速力 | 計画35ノット |
| 主砲 | 50口径三年式12.7cm連装砲 3基6門 |
| 機銃 | 九六式25mm連装機銃 2基(竣工時、後に増備) |
| 魚雷発射管 | 61cm九二式4連装発射管 2基8射線 |
| 搭載魚雷 | 九三式酸素魚雷 16本 |
| 爆雷兵装 | 九四式爆雷投射機 1基(九五式爆雷18〜36個) |
| 初代艤装員長・艦長 | 宮崎勇少佐(1944.3.5艤装員長/5.16艦長) |
| 2代目艦長 | 梶本顗少佐(1944.9.5〜戦没) |
| 所属部隊 | 第十一水雷戦隊(訓練)→第2駆逐隊(早霜・秋霜)/第二水雷戦隊 |
| 特記事項 | 1944年10月24日、シブヤン海で戦艦「武蔵」を護衛中に被弾しながらも沈没時に約500名の生存者を救助。夕雲型19隻中、最後に竣工した艦 |
| 最期 | 1944年12月26日、礼号作戦従事中にB-25の爆撃を受け航行不能、23時15分に大爆発を起こして沈没 |
| 戦後の記録 | 僚艦「霞」「朝霜」による1時間14分の救助活動で258名が救助された。清霜の戦没をもって夕雲型19隻は全艦戦没を完結させた |
TIMELINE
HISTORY
清霜 全戦歴タイムライン
1943年3月16日 — 起工
浦賀船渠にて起工(仮称第347号艦)
- 1942年度マル急計画による駆逐艦として建造開始。8月30日に「清霜」と命名され夕雲型駆逐艦に分類された(同日、姉妹艦「秋霜」も命名)。
1944年5月16日 — 竣工
竣工。夕雲型19隻の最終竣工艦に
- 宮崎勇少佐が艤装員長を経て初代艦長に着任。横須賀鎮守府籍、第十一水雷戦隊に編入。
- 水中聴音器の不良により横須賀で補修整備。5月23日に内海西部到着、訓練開始。
1944年6-8月 — 輸送作戦の日々
伊号作戦・ろ号作戦・パラオ輸送に従事
- 6月、小笠原諸島「伊号作戦」で父島・硫黄島への輸送を実施。
- 7月、沖縄・南大東島への「ろ号作戦」輸送を実施。
- 8月、パラオへの輸送任務。8月18日に軽巡「名取」が撃沈されると捜索に派遣されるも手掛かり得られず。
1944年8月15日 — 第2駆逐隊編成
早霜・秋霜と第2駆逐隊を新編
- 第二水雷戦隊(司令官・早川幹夫少将)隷下に編入。9月5日、艦長が宮崎少佐から梶本顗少佐に交代。
1944年10月18日 — 捷一号作戦発動
第二部隊に編入、レイテ沖海戦へ
- 第2駆逐隊から分離し、栗田艦隊第二部隊(戦艦「金剛」「榛名」、重巡「熊野」「鈴谷」「筑摩」「利根」等)に編入。
- 駆逐艦「野分」と三番隊を編成、第十戦隊(旗艦「矢矧」)の指揮下でレイテ沖海戦に参加。
1944年10月24日
シブヤン海、「武蔵」護衛中に被弾・約500名を救助
- 戦艦「武蔵」が空襲で部隊落伍。「清霜」は重巡「利根」とともに援護にあたる。
- 対空戦闘中、一番魚雷発射管に直撃弾1発が命中。速力24ノットに低下。
- 「島風」も応援に加わり3隻で「武蔵」を護衛するも、「利根」「島風」は栗田艦隊主力へ合流のため離脱。
- 「清霜」「浜風」の2隻だけが「武蔵」を護衛。沈没時の渦を避けるため横付けはせず。
- 19時35分、「武蔵」沈没。「清霜」は約500名、「浜風」は約850名を救助。
1944年10月25日 — コレヒドール揚陸
「武蔵」生存者の半数をコレヒドール島へ揚陸
- 「武蔵」沈没の隠匿を目的に、コロン島経由でコレヒドール島に生存者半数を揚陸。
- 揚陸された将兵の大半は後にマニラの戦いに投入され全滅したと伝えられる。
1944年10月29日〜11月 — マニラ・シンガポール
マニラで対空戦闘、高雄護衛でシンガポールへ
- 10月29日、マニラ湾で対空戦闘。その後タンカー船団護衛。
- 11月8日、米潜水艦「ダーター」の雷撃で大破していた重巡「高雄」を「第34号掃海艇」とともに護衛、11月11日シンガポール到着。
- 11月26日〜12月8日、昭南(シンガポール)で整備。
1944年12月上旬 — カムラン湾進出
伊勢・日向・足柄・大淀・朝霜とカムラン湾へ
- 整備後、航空戦艦「伊勢」「日向」、重巡「足柄」、軽巡「大淀」、駆逐艦「朝霜」とともにカムラン湾へ進出。
- 12月13日、多号作戦参加のためマニラへ向かうも、ミンドロ島への米軍上陸で中止、カムラン湾へ引き返す。
1944年12月24〜26日
礼号作戦、爆撃を受け大爆発・沈没
- 12月24日、ミンドロ島の米軍拠点を叩く殴り込み作戦「礼号作戦」発動。旗艦「霞」(木村昌福少将座乗)以下8隻の挺身部隊がカムラン湾を出撃、「清霜」「朝霜」は1番隊。
- 12月26日、部隊は米軍機に発見される。21時15分、「清霜」はB-25の爆撃を受け、左舷中部に250キロ爆弾1発が命中。
- 重油タンク火災が3号缶・左舷主機械を破壊、衝撃で1号缶・右舷主機械も停止し航行不能に。
- 火災が艦全体に広がり、23時15分に大爆発を起こして沈没(北緯12度38分・東経120度43分)。
同日 — 74分間の救助
「霞」「朝霜」による決死の救助、258名生還
- 「朝霜」が清霜行方不明を旗艦「霞」座乗の木村昌福少将へ報告。木村少将は作戦終了後の救助方針を変え、「霞」「朝霜」をその場に残留させる。
- 機関を止め航空機・魚雷艇に警戒しながら救助活動。木村少将自ら双眼鏡で生存者を数え続けた。
- 1時間14分の救助の末、白石長義司令以下91名が「霞」に、梶本艦長以下167名が「朝霜」に、計258名が救助された。
- 戦死・行方不明84名(うち5名は米軍魚雷艇に救助)。生存者の一部はクラーク地区の地上兵力に編入。
1945年1月10日 — 除籍
帝国駆逐艦籍より除籍。夕雲型19隻、全艦戦没が完結
- 「清霜」の戦没をもって、夕雲型駆逐艦19隻は生存艦ゼロ・全艦戦没という記録を完結させた。
SUMMARY
RECORD
清霜 全艦歴まとめ
清霜は1944年5月に浦賀船渠で竣工した夕雲型駆逐艦19番艦、そして最終竣工艦。伊号作戦・ろ号作戦などの輸送任務を経て、10月24日のシブヤン海海戦では戦艦「武蔵」の護衛中に被弾しながらも、沈没時に約500名の生存者を救助した。だが救助された将兵の半数は沈没隠匿のためコレヒドール島に揚陸され、その多くが後のマニラの戦いで命を落とすことになる。清霜自身も2ヶ月後の12月26日、礼号作戦従事中にB-25の爆撃を受けて航行不能となり、大爆発を起こして沈没。僚艦「霞」「朝霜」による1時間14分の救助活動で258名が生還した。清霜の戦没をもって、夕雲型駆逐艦19隻は全艦戦没という記録を完結させている。
木村昌福少将、双眼鏡越しの74分間——作戦終了後の救助という選択肢を退け、その場に艦を残して仲間を救おうとした判断は、崩壊寸前の戦局の中でもなお生きていた海軍の意志を物語る。
夕雲型19隻、全艦戦没の完結——理想の駆逐艦として設計されながら、艦隊決戦を一度も経験することなく、最終竣工艦「清霜」の戦没によって、夕雲型は生存艦ゼロという記録を刻んで幕を閉じた。
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)駆逐艦清霜戦時日誌・軍艦武蔵戦闘詳報・第2駆逐隊戦時日誌戦闘詳報・第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書56巻『海軍捷号作戦(2) フィリピン沖海戦』関連巻
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
- ・佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編』光人社NF文庫、1995年
- ・生出寿『戦場の将器 木村昌福』光人社、1997年
- ・Wikipedia「清霜 (駆逐艦)」「夕雲型駆逐艦」「礼号作戦」
- → 【諸元と全戦歴】弥生——梶本顗艦長が15日間の漂流を生き延びた艦