1944年10月24日夕刻、シブヤン海。空襲でぼろぼろになった戦艦「武蔵」を、駆逐艦「清霜」は重巡「利根」とともに護衛していた。対空戦闘の最中、「清霜」の一番魚雷発射管に直撃弾1発が命中し、速力は24ノットに低下する。それでも「清霜」は「武蔵」のそばを離れなかった。午後7時35分、「武蔵」が沈没すると、「清霜」は約500名の乗組員を海から引き上げた。戦艦「武蔵」が沈んだその瞬間に立ち会った、数少ない艦の1隻——それが「清霜」だった。
「清霜」は夕雲型駆逐艦の19番艦にして、この艦型で最後に竣工した「最終艦」だった。浦賀船渠で1943年3月16日に起工、1944年2月29日進水、同年5月16日竣工。艦隊決戦を夢見て設計された19隻の締めくくりとして生まれた「清霜」は、しかし戦艦「武蔵」の最期を看取り、その2ヶ月後には自らも劇的な最期を迎えることになる。
そして「清霜」自身が沈んだとき、僚艦「霞」「朝霜」による1時間14分にわたる決死の救助劇が繰り広げられた。木村昌福少将が自ら双眼鏡を覗き、海上に浮かぶ乗組員の数を数え続けたという——夕雲型19隻、最後の1隻の最期は、これほどまでに丁寧に見送られたのである。
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竣工した「清霜」は水中聴音器の不良で横須賀での補修整備を経て、5月23日に内海西部へ到着、訓練を開始する。だが「清霜」に与えられた最初の任務は、華々しい艦隊決戦ではなく、地道な輸送作戦だった。6月には小笠原諸島への「伊号作戦」で父島・硫黄島への輸送を担い、7月には沖縄・南大東島への「ろ号作戦」を実施。8月にはパラオへの輸送任務にもあたっている。8月18日、軽巡「名取」が米潜水艦「ハードヘッド」の雷撃で撃沈されると、「清霜」も含む複数艦が捜索に派遣されたが、手掛かりは得られなかった。
8月15日、「清霜」は僚艦「早霜」「秋霜」とともに第2駆逐隊を編成し、第二水雷戦隊に編入される。9月5日には艦長が宮崎勇少佐から梶本顗少佐へ交代した。そして10月18日、捷一号作戦発動。「清霜」は第2駆逐隊から分離し、栗田艦隊の第二部隊(戦艦「金剛」「榛名」、重巡「熊野」「鈴谷」「筑摩」「利根」など)に編入され、駆逐艦「野分」と三番隊を編成してレイテ沖海戦へ向かう。夕雲型最終艦としての初陣は、艦隊決戦を求めて設計された艦にふさわしい、連合艦隊主力との共同作戦だった。
1944年10月24日、シブヤン海。栗田艦隊は米軍機動部隊艦載機の波状攻撃を受け続けていた。戦艦「武蔵」は次々と魚雷・爆弾を受け、ついに部隊から落伍する。「清霜」は重巡「利根」とともに、傷ついた「武蔵」の援護にあたった。対空戦闘中、「清霜」の一番魚雷発射管に小型爆弾1発が直撃、最大発揮速力は24ノットまで低下する。「利根」にも命中弾と至近弾があったが、「武蔵」の被害はさらに甚大で、完全に継戦能力を失っていた。
駆逐艦「島風」が応援に駆けつけ、3隻で「武蔵」を護衛する態勢が整う。だがやがて栗田艦隊主力への合流を優先し、「利根」と「島風」(重巡「摩耶」の生存者を移乗させていた)は「武蔵」のそばを去った。残ったのは「清霜」と、昼間の空襲で損傷していた「浜風」の2隻だけ。微速前進する「武蔵」を護衛し続けたこの2隻は、沈没直前の「武蔵」から乗組員移乗のための横付け信号を受け取ったが、沈没時の渦に巻き込まれるのを恐れて接近しなかった。午後7時35分、「武蔵」は沈没する。「浜風」は約850名、「清霜」は約500名の乗組員を海から引き上げた。
「武蔵」からの横付け信号に応じなかった「清霜」と「浜風」の判断は、冷淡だったわけではない。巨大戦艦が沈む際の渦に巻き込まれれば、駆逐艦もろとも失われかねない。つまりこの判断は、目の前で沈みゆく艦を見捨てたのではなく、生存者を救うために自らの艦を残すという、駆逐艦としての最も冷静な選択だった。
「武蔵」生存者を救助した「清霜」は、いったんコロン島へ向かった後、10月25日、生存者の半数をコレヒドール島に揚陸させた。これは「武蔵」の沈没を隠匿するための措置だった。連合艦隊の象徴とも言える戦艦の喪失は、士気への影響を恐れて秘匿される必要があったのである。だがこの措置は、生存者たちにとって皮肉な結末をもたらした。コレヒドール島に降ろされた将兵の大半は、後にマニラの戦いに投入され、そこで全滅したと伝えられている。
海で溺れかけたところを「清霜」に救われた命が、陸上の激戦でふたたび失われる——この事実は、1隻の駆逐艦が救った命の重みと、戦争という巨大な機構がその命をどう扱ったかという、あまりに対照的な現実を突きつける。「清霜」自身にできることは、目の前の500名を海から引き上げることだけだった。その先で何が起きるかは、駆逐艦の艦長にも、乗組員にも、コントロールできることではなかった。
「清霜」が救った500名のその後は、駆逐艦1隻の力では変えようのない、より大きな戦局の中に飲み込まれていった。つまり「救助」という行為には、その瞬間の命をつなぐ力はあっても、その先の運命までは変えられないという、厳しい限界があった。
1944年12月24日、ミンドロ島の米軍拠点を叩く殴り込み作戦「礼号作戦」が発動された。木村昌福少将座乗の旗艦「霞」を筆頭に、「清霜」「朝霜」の1番隊など計8隻の挺身部隊がカムラン湾を出撃する。12月26日、部隊は米軍機に発見された。午後9時15分、「清霜」はB-25の爆撃を受け、左舷中部に250キロ爆弾1発が命中。破壊された重油タンクから出火し、火災が3号缶と左舷主機械を破壊、衝撃で1号缶と右舷主機械も停止した。「清霜」は完全に航行不能となる。
火災は艦全体に広がり、午後11時15分、「清霜」は大爆発を起こして沈没した。「朝霜」はただちに清霜行方不明の報を旗艦「霞」座乗の第二水雷戦隊司令官・木村昌福少将に伝える。木村少将は作戦終了後の救助を考えず、「霞」と「朝霜」をその場に残留させ、乗組員の救助にあたらせた。機関を止め、航空機と魚雷艇の脅威に警戒しながらの救助活動——木村少将自らが双眼鏡で海上の乗組員を数え続けたという。1時間14分に及ぶ救助の末、白石長義司令以下91名が「霞」に、梶本艦長以下167名が「朝霜」に、合計258名が救助された。戦死・行方不明者は84名にのぼったが、そのうち5名は皮肉にも米軍の魚雷艇に救助されている。
木村少将自ら双眼鏡越しに、海上に浮かぶ乗員の数を数え続けた
機関を止め、航空機と魚雷艇の脅威にさらされながらの1時間14分の救助
——木俣滋郎『日本水雷戦史』605頁より
「清霜」の本質は、夕雲型19隻の最後に生まれ、その約8ヶ月後には自らも消えていった「最終艦」でありながら、その短い艦歴の中で「見送る側」と「見送られる側」の両方を経験した艦だった、という一点にある。戦艦「武蔵」という連合艦隊の象徴が沈む瞬間に立ち会い、約500名を救ったかと思えば、わずか2ヶ月後には自らが爆発・沈没し、僚艦に74分間かけて丁寧に救助される側になった。
しかし「清霜」の物語は美談だけでは終わらない。救助した「武蔵」の生存者の半数は、沈没を隠すためにコレヒドール島へ降ろされ、その多くが後のマニラの戦いで命を落とした。海で救われた命が、陸上でふたたび失われるという事実は、1隻の駆逐艦の献身だけでは戦争の理不尽を覆せなかったことを物語っている。それでも木村昌福少将が自ら双眼鏡を覗き、「清霜」の乗組員一人ひとりの生存を確認しようとしたという事実は、崩壊寸前の戦局の中でも、仲間を見捨てないという意志がなお生きていたことの証だった。
「清霜」の戦没をもって、夕雲型駆逐艦19隻は全艦戦没という記録を完結させることになる。理想の駆逐艦として設計されながら、竣工した時にはすでに「艦隊決戦」という戦場そのものが失われていた——その最終艦が、巨大戦艦の最期を看取り、そして自らも僚艦に見送られて海に消えたという事実は、この艦型全体の物語を締めくくるにふさわしい。猫工艦は、夕雲型19隻すべての最後の1隻として、「清霜」に深い敬意を捧げたい。
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)駆逐艦清霜戦時日誌・軍艦武蔵戦闘詳報・第2駆逐隊戦時日誌戦闘詳報・第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書56巻『海軍捷号作戦(2) フィリピン沖海戦』関連巻
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
- ・佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編』光人社NF文庫、1995年
- ・生出寿『戦場の将器 木村昌福』光人社、1997年
- ・森田友幸「第4章 礼号作戦」『25歳の艦長海戦記 駆逐艦「天津風」かく戦えり』光人社、2000年
- ・Wikipedia「清霜 (駆逐艦)」「夕雲型駆逐艦」「礼号作戦」「武蔵 (戦艦)」
- → 弥生——清霜艦長・梶本顗が最初に生還を果たした睦月型駆逐艦