睦月型 · 3番艦 · 第30駆逐隊
YAYOI 弥生
睦月生存者を救い司令艦となった艦、タロ芋で15日生き延びた艦長を育てた駆逐艦
浦賀造船所が建造した睦月型駆逐艦3番艦。ガダルカナル島沖で沈没した僚艦「睦月」の生存者を救助し駆逐隊司令艦となるも、1942年9月11日、ニューギニア・ノーマンビー島沖で戦没。艦長・梶本顗少佐は生存者とともに15日間の漂流生活を生き延び、後に夕雲型「清霜」艦長として再び戦場に立つことになる艦の諸元と全戦歴。
SPECIFICATIONS
SPEC
基本諸元サマリー
TYPE
睦月型 3番艦
DISPLACEMENT
1,315 t
MAX SPEED
37.25 kt
MAIN GUN
12cm単装 × 4
TORPEDO
61cm × 6射線
FATE
1942.9.11 ノーマンビー島沖で戦没
| 艦名 | 弥生(やよい/登録上は彌生) |
| 艦型・番艦 | 睦月型駆逐艦 3番艦 |
| 計画名称 | 第二十三駆逐艦→第二十三号駆逐艦 |
| 建造所 | 浦賀造船所(浦賀船渠) |
| 起工日 | 1924年(大正13年)1月11日 |
| 進水日 | 1925年(大正14年)7月11日 |
| 竣工日 | 1926年(大正15年)8月28日 |
| 改名 | 1928年(昭和3年)8月1日、「第二十三号駆逐艦」より「弥生」に改称 |
| 除籍日 | 1942年(昭和17年)10月20日 |
| 類別 | 一等駆逐艦 |
| 籍 | 佐世保鎮守府籍 |
| 全長 | 102.72m |
| 基準排水量 | 1,315t(竣工時)/改修後1,445t |
| 機関 | 石川島式タービン——同型で唯一、艦本式ではなく比較試験のため搭載 |
| 出力 | 38,500馬力 |
| 速力 | 公試37.25ノット(竣工時) |
| 主砲 | 45口径三年式12cm単装砲 4門 |
| 魚雷発射管 | 一二年式61cm3連装発射管 2基(6射線)——日本駆逐艦初の61cm雷装 |
| 爆雷兵装 | 八年式爆雷投射機 |
| 初代艦長 | 和田省三中佐(1925.11.10〜) |
| 最終艦長 | 梶本顗少佐(1942.7.5〜1942.9.20、沈没時艦長) |
| 所属部隊 | 第30駆逐隊(睦月喪失後は司令艦)/第六水雷戦隊→第八艦隊 |
| 特記事項 | 1942年8月25日、第二次ソロモン海戦で沈没した僚艦「睦月」の生存者を救助、第30駆逐隊司令・安武史郎大佐が移乗し駆逐隊司令艦となった |
| 最期 | 1942年9月11日、ニューギニア・ノーマンビー島東方で米陸軍B-17・豪空軍ハドソン哨戒機の空襲を受け航行不能、16時15分沈没 |
| 戦後の記録 | 艦長・梶本顗少佐は生存者とともにノーマンビー島でタロ芋を食し15日間生存、9月26日に救出。後に夕雲型駆逐艦「清霜」艦長となり、そこでも僚艦に救助され生還した |
| 戦死者 | 68名(生存者83名)。第30駆逐隊司令・安武史郎大佐も戦死 |
TIMELINE
HISTORY
弥生 全戦歴タイムライン
1924年1月11日 — 起工
浦賀造船所にて起工(第二十三号駆逐艦)
- 1923年度計画艦。1928年8月1日、「弥生(彌生)」と正式に改名され睦月型駆逐艦に登録された。
1926年8月28日 — 竣工
竣工。佐世保鎮守府に所属
- 初代艦長・和田省三中佐が着任。同型で唯一、石川島式タービンを比較試験のため搭載(長月も同様)。
1930年11月 — 御召艦供奉
昭和天皇の御召艦「霧島」の供奉艦を務める
- 第30駆逐隊(睦月・如月・弥生・卯月)が岡山県宇野からの帰京に供奉。
1937年 — 支那事変・仏印進駐
中支・南支方面に進出
- 支那事変により中支・南支方面へ進出、仏印進駐作戦にも参加。
1941年12月8-11日 — ウェーク島攻略戦
僚艦「如月」の喪失を目撃
- 第四艦隊・第六水雷戦隊・第30駆逐隊(睦月・如月・弥生・望月)に所属し第1次ウェーク島攻略作戦に参加。
- 12月11日、僚艦「如月」がF4Fワイルドキャットの空襲で沈没。「弥生」自身も被弾したが持ちこたえた。
- 第2次攻略作戦で空母「飛龍」「蒼龍」等の増援を得て24日までにウェーク島占領。
1942年前半 — 南太平洋各作戦
ラバウル・ポートモレスビー方面に転戦
- ラバウル・ブーゲンビル島・ポートモレスビー攻略作戦に参加。5月25日、「卯月」編入で第30駆逐隊が定数4隻を回復。
- 6-7月、南洋部隊で船団護衛任務、「もんてびでお丸」等の護衛にあたる。
1942年8月24-25日 — 第二次ソロモン海戦
ガダルカナル砲撃、「睦月」生存者を救助し司令艦に
- 8月24日夜、「睦月」「陽炎」「磯風」「江風」とルンガ泊地に突入、飛行場を約10分間砲撃。
- 25日午前6時、輸送船団と合流中に米軍機の空襲。「神通」被弾炎上、「睦月」が後部機械室への直撃弾で沈没。
- 「弥生」が「睦月」生存者を全員収容。第30駆逐隊司令・安武史郎大佐も移乗し「弥生」が新たな司令艦となる。
- 8月27日、重傷者を乗せてラバウル到着。
1942年8月28-29日 — ラビ増援輸送
呉三特・吉岡中隊をラビへ輸送
- ニューギニア東端のラビ攻略作戦支援のため、「嵐」「叢雲」等とともに増援部隊を輸送、29日に上陸させ帰途につく。
1942年9月3-10日 — 消えた月岡部隊
行方不明の陸戦隊を捜索
- ブナから舟艇機動でラビへ向かっていた佐世保鎮守府第五特別陸戦隊の一部(月岡部隊)が消息不明に。
- 9月3日、予定上陸地タウポタへ連絡員20名を上陸させるも上陸の形跡なく、連絡員はそのまま行方不明となる。
- 9月4日、ミルン湾で糧食揚陸・重傷者収容。9月9日、月岡部隊がグッドイナフ島で発見され、10日に「磯風」とともに救援へ出撃。
1942年9月11日
ノーマンビー島沖、空襲を受け沈没
- グッドイナフ島東方で米陸軍B-17・豪空軍ハドソン哨戒機、合計約10機の空襲を受ける。
- 15時35分、後部への被弾で舵故障。15時45分、再度被弾し航行不能。
- 16時15分、沈没。「磯風」が16時40分頃救出に向かうも油痕のみ発見。翌日「天龍」「浜風」の捜索も不成功。
1942年9月11-26日
ノーマンビー島、タロ芋で生き延びた15日間
- 梶本顗艦長以下生存者はカッターボートでノーマンビー島へ自力上陸、タロ芋を調達し飢えをしのぐ。
- 9月21日、乗員10名のカッターが発見され「磯風」に収容。だが本隊は敵上陸のため森林へ退避しておりこの時は接触失敗。
- 9月23日、陸攻機がノーマンビー島で生存者らしき姿を発見。
- 9月25日夜、「磯風」「望月」が再出撃、26日深夜に梶本艦長以下83名を救出。
1942年10月20日 — 除籍
帝国駆逐艦籍より除籍
- 戦死者68名。第30駆逐隊司令・安武史郎大佐も戦死。12月1日、「睦月」「弥生」を喪失した第30駆逐隊も解隊された。
戦後の後日談 — 梶本顗、清霜艦長へ
生き延びた艦長の、もう一つの生還
- 「弥生」沈没時の艦長・梶本顗少佐は、後に夕雲型駆逐艦「清霜」艦長に就任。
- 1944年12月26日の礼号作戦で「清霜」が戦没した際も、僚艦「霞」「朝霜」による救助で生還した。
SUMMARY
RECORD
弥生 全艦歴まとめ
弥生は1926年に浦賀造船所で竣工した睦月型駆逐艦3番艦。開戦劈頭のウェーク島攻略戦で僚艦「如月」の喪失を目撃した後、1942年8月25日の第二次ソロモン海戦では沈没した僚艦「睦月」の生存者を救助し、第30駆逐隊司令艦となった。ニューギニア方面ではラビ攻略作戦を支援し、行方不明になった月岡部隊の捜索にもあたったが、9月11日、その救援に向かう途上でノーマンビー島沖にて米軍機の空襲を受け沈没。艦長・梶本顗少佐以下の生存者はカッターボートでノーマンビー島へ上陸し、タロ芋を食して15日間生き延び、9月26日に救出された。戦死者68名、第30駆逐隊司令・安武史郎大佐も戦死している。梶本艦長は後に夕雲型駆逐艦「清霜」艦長となり、そこでも僚艦に救助され生還するという稀有な記録を残した。
司令艦の継承——「睦月」沈没時に司令・安武大佐を受け入れ、「弥生」が第30駆逐隊司令艦となったという事実は、駆逐隊という組織が1隻の喪失で機能停止しない仕組みを持っていたことを示す。
2度生き延びた艦長——梶本顗少佐は「弥生」沈没時にタロ芋で15日間を生存、後に「清霜」艦長としても僚艦に救助され生還した。太平洋戦争の駆逐艦史でも稀有な、二度の生還記録である。
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第2水雷戦隊戦時日誌・外南洋部隊増援部隊戦闘詳報・第18戦隊戦時日誌戦闘詳報
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書49巻『南東方面海軍作戦(1) ガ島奪還作戦開始まで』、戦史叢書62巻関連巻
- ・佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』光人社NF文庫、1995年
- ・門司親徳『空と海の涯で―第一航空艦隊副官の回想』光人社、2012年
- ・田村俊夫「「睦月」型駆逐艦の戦時兵装の変遷と行動」『睦月型駆逐艦 真実の艦艇史4』歴史群像太平洋戦史シリーズ64、学研、2008年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・Wikipedia「弥生 (睦月型駆逐艦)」「睦月型駆逐艦」「第二次ソロモン海戦」「ラビの戦い」
- → 【諸元と全戦歴】皐月——クラ湾夜戦からマニラ湾での最期まで