睦月型駆逐艦5番艦「皐月」——諸元と全戦歴、クラ湾夜戦からマニラ湾での最期まで

睦月型 · 5番艦 · 第22駆逐隊→第30駆逐隊
SATSUKI 皐月
片脚を失っても艦橋を離れなかった艦長を戴いた駆逐艦

藤永田造船所が建造した睦月型駆逐艦5番艦。クラ湾夜戦・コロンバンガラ島沖海戦とソロモンの激戦を渡り歩き、1944年1月のカビエン沖空襲では艦長・飯野忠男少佐が片脚切断の重傷を負いながらも指揮を執り続けた。同年9月21日、マニラ湾で米艦載機の猛攻を受け戦没した艦の諸元と全戦歴。

SPEC
基本諸元サマリー
TYPE
睦月型 5番艦
DISPLACEMENT
1,315 t
MAX SPEED
37.25 kt
MAIN GUN
12cm単装 × 4
TORPEDO
61cm × 6射線
FATE
1944.9.21 マニラ湾で戦没
艦名皐月(さつき)
艦型・番艦睦月型駆逐艦 5番艦
計画名称第27駆逐艦→第27号駆逐艦
建造所藤永田造船所
起工日1923年(大正12年)12月1日(同型1〜4番艦より早い)
進水日1925年(大正14年)3月25日
竣工日1925年(大正14年)11月15日
改名1928年(昭和3年)8月1日、「第27号駆逐艦」より「皐月」に改称
除籍日1944年(昭和19年)11月10日
類別一等駆逐艦
佐世保鎮守府籍
全長102.72m
基準排水量1,315t(竣工時)/改修後1,445t
出力38,500馬力
速力公試37.25ノット(竣工時)
主砲45口径三年式12cm単装砲(1944年時点3門)
魚雷発射管一二年式61cm3連装発射管 2基(6射線)——日本駆逐艦初の61cm雷装
機銃1944年8月時点:25mm3連装機銃3基・連装2基・単装9基、13mm単装機銃5基
爆雷兵装八年式爆雷投射機
初代艦長佐野哲少佐(1925.4.15〜)
最終艦長杉山忠嘉少佐(1944.1.15〜戦没時)/前任・飯野忠男少佐は1944.1.4戦傷、翌日死亡
所属部隊第22駆逐隊(皐月・水無月・文月・長月)→第30駆逐隊
特記事項1944年1月4日、カビエン沖対空戦闘で艦長・飯野忠男少佐が左脚切断の重傷を負いながらも艦橋で指揮を執り続けた。南東方面艦隊司令長官・草鹿任一中将より日本刀を授与
最期1944年9月21日、マニラ湾で米艦載機の空襲を受け、複数の直撃弾により15時45分沈没
戦死者52名(重軽傷42名)。生存者は陸上部隊・給糧艦「伊良湖」等に救助され、マニラの地上戦には巻き込まれず
HISTORY
皐月 全戦歴タイムライン
1923年12月1日 — 起工
藤永田造船所にて起工(第27号駆逐艦)
  • 1923年度計画艦。同型1〜4番艦よりも早く起工。1928年8月1日、「皐月」と正式に改名された。
1925年11月15日 — 竣工
竣工。第22駆逐隊を編成
  • 初代艦長・佐野哲少佐が着任。「水無月」「文月」「長月」とともに第22駆逐隊を編成し、佐世保鎮守府に所属。
1940年後半〜1941年 — 中国大陸沿岸封鎖
日中戦争の封鎖作戦に従事、「殊勲乙」評価
  • 第22駆逐隊4隻で中国大陸沿岸部の監視警戒・交通遮断任務に従事し高評価を得る。
  • 1941年、第五水雷戦隊編入。12月の太平洋戦争開戦後はフィリピン・ジャワ攻略戦、バタビア沖海戦に参加。
1943年1月〜 — 外南洋部隊、ソロモン輸送
ケ号作戦(ガダルカナル撤収)から中部ソロモン輸送へ
  • 「長月」「文月」とともに第八艦隊(三川軍一中将)隷下の外南洋部隊に編入。
  • 2月、糧食輸送・丙三号輸送(ウェワク)等に従事。5月28日、「長月」とともにブーゲンビル島南東沖で座礁するも離礁。
1943年7月2-6日 — クラ湾夜戦
「長月」座礁、曳航失敗。秋山少将戦死
  • 7月2日、突撃隊で米魚雷艇2隻を撃沈。7月5日夜、コロンバンガラ島緊急輸送中に米艦隊と交戦、クラ湾夜戦勃発。
  • 「長月」が座礁、「皐月」が曳航を試みるも失敗。6日未明、曳航を中止し物資揚陸後撤退。
  • 「新月」沈没・秋山輝男少将戦死。「長月」は放棄された。
1943年7月12日 — コロンバンガラ島沖海戦
輸送成功も「神通」沈没
  • 輸送隊として陸兵1200名・物資20トンの揚陸に成功。米艦隊と交戦し軽巡「神通」沈没、伊崎俊二少将戦死。
  • 「皐月」「水無月」が乗員捜索を行うも発見できず。
1943年7月17-28日 — ブイン空襲・座礁艦救援
度重なる空襲、僚艦の連続喪失
  • 7月17-18日、ブイン泊地空襲で「初雪」沈没、「皐月」「水無月」小破。
  • 7月27-28日、「有明」「三日月」がツルブ輸送中に座礁・空襲で沈没。「皐月」ら救援に向かうも「秋風」が先着し反転。
  • 7月29日、応急修理完了。「熊野」を護衛しトラック泊地へ。以後内地帰投・整備。
1943年9月28日-10月1日 — セ号作戦
コロンバンガラ島撤収、2685名を収容
  • 9月16日ラバウル再進出。9月28-30日、第一次撤収作戦で「皐月」「水無月」「文月」の輸送隊が2685名を収容。
  • 10月1日の第二次作戦では1450名を収容するも、敵艦を警戒し舟艇3隻・621名を残して撤退。
1943年10月24-25日
「望月」沈没、「皐月」も暗礁で損傷
  • 10月24日、僚艦「望月」が空襲で沈没。25日、「皐月」は海図にない暗礁に触れスクリュー破損、安全速力16ノットに低下。
  • パラオ経由で佐世保へ帰還、修理に従事。
1944年1月3-4日
カビエン沖対空戦闘、艦長重傷
  • 戊二号輸送部隊護衛でカビエンへ。1月4日朝、友軍機の援護なきまま米空母機動部隊艦載機約80機の攻撃を受ける。
  • 約20分の対空戦闘で「皐月」「文月」両艦、死傷計40名以上を出しながら15機(不確実6)を撃墜。
  • 艦長・飯野忠男少佐、左脚を機銃弾で砕かれる重傷を負いながらも切断処置後も艦橋で指揮継続。
  • ラバウル帰投・入院後、翌朝死亡。草鹿任一中将より日本刀を授与される。
1944年1-8月 — 護衛任務を継続
新艦長のもと、給糧艦護衛・船団旗艦を歴任
  • 1月15日、杉山忠嘉少佐が新艦長に着任。1月20日、給糧艦「伊良湖」護衛中に米潜水艦シードラゴンの襲撃を受け、爆雷攻撃で応戦。
  • 空母「雲鷹」護衛、東松五号・東松八号船団の護衛旗艦を歴任。
  • 6月6日、僚艦「水無月」が米潜水艦「ハーダー」に撃沈される。8月20日、第22駆逐隊解隊、第30駆逐隊(卯月・皐月・秋風・夕凪)へ編入。
1944年9月21日
マニラ湾、艦橋にわずか3名で戦没
  • 神威船団護衛でシンガポールからマニラへ。9月17日、同行の「西貢丸」が「フラッシャー」に撃沈されるも「皐月」は無事入港。
  • 9月21日、マタ27A船団護衛のため出港、追いつく途上で米艦載機の猛攻を受ける。
  • 最初の空襲で復水器破壊、片舷航行に。負傷者移送のため軍医長・水雷長・航海長が艦を離れ、艦橋に艦長・砲術長・操舵員の3名のみに。
  • 第一缶室・前部に直撃弾、複数の命中弾を受け15時45分沈没。戦死52名、重軽傷42名。
1944年11月10日 — 除籍
帝国駆逐艦籍より除籍
  • 生存者は陸上からの大発動艇や給糧艦「伊良湖」等に救助され、後のマニラの地上戦には巻き込まれなかった。
RECORD
皐月 全艦歴まとめ
皐月は1925年に藤永田造船所で竣工した睦月型駆逐艦5番艦。中国大陸沿岸部の封鎖作戦から太平洋戦争の南方作戦、ソロモン諸島でのクラ湾夜戦・コロンバンガラ島沖海戦と、19年の艦歴のほぼ全期間を最前線の輸送・護衛任務に費やした。1944年1月4日のカビエン沖対空戦闘では、艦長・飯野忠男少佐が左脚切断の重傷を負いながらも指揮を執り続け、後に殉職。南東方面艦隊司令長官・草鹿任一中将から日本刀を授与された。同年9月21日、マニラ湾で米艦載機の猛攻を受け、艦橋にわずか3名しか残らない状況の中、複数の直撃弾を受けて沈没した。戦死52名、生存者はマニラの地上戦に巻き込まれることなく日本へ帰還した。
片脚を失っても艦橋を離れなかった艦長——飯野忠男少佐の献身は、南東方面艦隊司令長官から日本刀を授与されるほどの重みを持って記録されている。
艦橋にわずか3名——マニラ湾最期の戦闘で、負傷者移送のため幹部が次々と艦を離れ、艦長・砲術長・操舵員の3名だけで戦い続けたという事実は、この艦が置かれていた極限状況を物語る。

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