1944年2月17日、トラック泊地。修理のため主機を分解したままだった駆逐艦「文月」は、米軍空母機動部隊の奇襲を受けた。乗組員は主機を急遽復旧させ、片舷12ノットというわずかな速力で回避運動を試みる。だが機械室に直撃弾を受け、浸水とともに航行不能に陥った。僚艦「松風」が曳航して擱座させようとするも、繰り返される空襲でその作業は中断され続けた。そして翌18日、「文月」は静かに海へ消えていった。
「文月」は睦月型駆逐艦の7番艦として、藤永田造船所で1924年10月20日に起工、1926年7月3日に竣工した。「皐月」「水無月」「長月」とともに第22駆逐隊を編成し、フィリピン・ジャワ攻略戦、ガダルカナル撤収作戦(ケ号作戦)、そしてソロモン諸島での絶え間ない輸送任務——「文月」は太平洋戦争のあらゆる局面で、地道な任務を担い続けた艦だった。
そして「文月」の物語は、沈没から80年以上を経た今もなお、確かな形で残っている。現在、「文月」はトラック環礁・月曜島(ウドット島)の北、水深37mの海底に静かに沈んでいる。一番煙突と艦橋は倒壊し、艦橋部分で船体が分断され、艦首側は左舷に傾き、艦尾側は正立したまま——その姿は、ダイバーたちによって今も確認されている。
→改修後1,445t
竣工した「文月」は佐世保鎮守府に所属し、「皐月」「水無月」「長月」とともに第22駆逐隊を編成した。太平洋戦争開戦後はフィリピン攻略戦、ジャワ島攻略戦、バタビア沖海戦に参加し、その後はジャワ海方面での船団護衛任務に従事する。1942年9月16日には、内地・台湾間の護衛任務中に日本郵船の大型客船「勝鬨丸」と衝突し大破するという事故にも見舞われ、12月まで長期の修理を余儀なくされた。
1943年1月20日、「文月」は「長月」「皐月」とともに第八艦隊隷下の外南洋部隊に編入され、ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)に投入される。2月1日、ガ島へ向け進撃中に空襲を受け、第三水雷戦隊旗艦「巻波」が至近弾で中破した。「文月」は「巻波」を曳航し、ショートランド泊地まで退避させた。司令官は座乗艦を「白雪」に変更せざるを得なかったが、それでも撤収作戦そのものは成功に終わった。ケ号作戦を終えた「文月」は、以後もソロモン方面での輸送任務を重ねていく。
1943年2月1日、ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)第1回作戦。橋本信太郎第三水雷戦隊司令官率いる大部隊の中、「文月」はエスペランス岬警戒隊の一員として作戦に加わっていた。ガ島へ向け進撃中、米軍機約30機の空襲を受け、三水戦旗艦「巻波」が至近弾により中破する。
「文月」はただちに「巻波」を曳航し、ショートランド泊地への退避を開始した。三水戦司令官は座乗艦を「白雪」へ移さざるを得なかったが、それでも作戦全体は続行され、この日の撤収作戦は陸軍5,119名・海軍250名・船員14名という大規模な収容に成功する。同時に「巻雲」が触雷して航行不能となり、味方の手で処分されるという痛手もあったが、「文月」による旗艦曳航は、混乱した戦場の中で確かな役割を果たした一幕だった。
司令官の乗る旗艦が傷ついた時、それを守り抜くかどうかは、指揮系統そのものの存続に関わる問題だった。「文月」が「巻波」を曳航したという行為は、単なる僚艦救助を超えて、作戦全体の指揮能力を維持するための、決定的な役割を果たしていた。
1944年1月4日、戊二号輸送部隊の護衛任務を終えてカビエンを出港した「文月」と「皐月」の2隻に、友軍機の援護がないまま米空母機動部隊の艦載機約80機が殺到した。索敵中の陸上攻撃機が発見した機動部隊は、実は輸送部隊本隊を発見できず、代わりに「文月」「皐月」の2隻に狙いを定めていたのである。
約20分間の対空戦闘で、両艦は直撃弾こそ免れたものの、至近弾と機銃掃射により死傷計40名以上を出しながら、15機(不確実6機を含む)を撃墜する健闘を見せた。結果として、輸送部隊本隊は無傷で任務を完遂できた。第八艦隊長官は、間接的に輸送部隊を守り抜いた「文月」「皐月」両艦へ表彰電を送っている。この日、2隻の駆逐艦が身を挺して引き受けた攻撃は、まさに囮としての犠牲の上に成り立った勝利だった。
偵察機が本隊を発見できなかったことは、「文月」「皐月」にとって不運だった。だが結果的にこの不運が、輸送部隊全体を守ることにつながった。つまり戦場では、目立つことが必ずしも不利益になるとは限らず、時にそれ自体が味方を守る「盾」としての役割を果たすことがあった。
1944年2月17日、トラック泊地。「文月」は1月30日にラバウルで受けた至近弾の浸水修理のため、主機を分解した状態で停泊していた。そこへ米軍空母機動部隊による大規模な奇襲空襲が始まる。乗組員は分解していた主機を急遽復旧させ、片舷12ノットというわずかな速力で回避運動を試みた。だが機械室に直撃弾を受け、浸水とともに航行不能に陥る。至近弾による損傷も重なった。
僚艦「松風」が曳航して擱座させようと試みたが、繰り返される空襲によって作業は何度も中断された。浸水は増加し続け、ついに曳航は断念せざるを得なくなる。翌18日、「文月」は静かに海へ消えていった。同じトラック島空襲では、軽巡「香取」「阿賀野」「那珂」、駆逐艦「舞風」を含む多数の艦船が撃沈されており、「文月」の喪失もその大きな損害の一部だった。1944年3月31日、「文月」は帝国駆逐艦籍から除籍された。
そして今、「文月」はトラック環礁・月曜島(ウドット島)の北、水深37mの海底に静かに横たわっている。一番煙突と艦橋は倒壊し、艦橋部分で船体が分断され、艦首側は左舷に傾き、艦尾側は正立したまま——その姿は、80年以上を経た今もダイバーたちによって確認され続けている。派手な戦果ではなく、静かに残された船体そのものが、「文月」の存在を今に伝えている。
「文月」の本質は、竣工から17年余り、太平洋戦争のほぼ全期間を通じて、僚艦を守り、時に僚艦に守られながら、地道な任務を積み重ね続けた艦だった、という一点にある。ケ号作戦で旗艦「巻波」を曳航した行為、カビエン沖で「皐月」とともに輸送部隊本隊への攻撃を引き受けた20分間——「文月」は繰り返し、自らが盾となる役割を引き受けてきた。
しかし「文月」の物語は美談だけでは終わらない。修理のため主機を分解していたところを奇襲されるという最悪のタイミング、そして僚艦の曳航擱座の試みが空襲で何度も阻まれるという不運——これらの事実は、どれほど乗組員が力を尽くしても、戦局と運が味方しなければ艦を救えないという、戦争の厳しい現実を物語っている。
それでも「文月」が残したものは確かにある。80年以上を経た今も、月曜島の海底にその船体をとどめているという事実だ。派手な戦果を持たない艦だからこそ、私たちに戦争の実相——地道な任務の積み重ねと、その先に待っていた静かな終わり——を、今もその場所から語り続けている。猫工艦は、「文月」と、その乗組員たちに深い敬意を捧げたい。
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第八艦隊戦時日誌・第三水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書83『南東方面海軍作戦(2) ガ島撤収まで』、戦史叢書96『南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』関連巻
- ・佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社、1982年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫、1993年
- ・Wikipedia「文月 (睦月型駆逐艦)」「睦月型駆逐艦」「トラック島空襲」「ケ号作戦」
- → 長月——クラ湾に散り、時鐘だけが海を越えて帰ってきた同型艦
- → 菊月——今もソロモンの海岸に現存する睦月型唯一の艦