1942年5月4日午前6時20分、ツラギ泊地。敷設艦「沖島」に横付けして燃料補給を終えたばかりの駆逐艦「菊月」に、空母「ヨークタウン」から発進した米軍機動部隊の攻撃隊が襲いかかった。雷撃機TBDデヴァステーター8機が「沖島」を包囲して魚雷を投下する中、そのうちの1本が、「沖島」から離れたばかりの「菊月」右舷機関室に命中した。戦死12名、負傷22名。動けなくなった艦は特設駆潜艇に曳航され、ガブツ島の海岸に擱座することになる。
「菊月」は睦月型駆逐艦の9番艦として、舞鶴工作部で1925年6月15日に起工、1926年5月15日に進水、同年11月20日に竣工した。グアム島攻略作戦、ラバウル・ラエ・サラモア方面での作戦を経て、太平洋戦争の転換点となる珊瑚海海戦——その前哨戦にあたるツラギ島攻略作戦で、「菊月」はこの艦型で最初期の喪失艦の1隻となる。
だが「菊月」の物語は、1942年5月の沈没だけで終わらない。現在、「菊月」はソロモン諸島フロリダ諸島のンゲラスレ島にある「トウキョウ・ベイ」と呼ばれる湾内の海岸に、80年以上を経た今もその姿をとどめている。長年の風雨で船体の多くは崩壊しているが、これは現存が確認できる、水上にある数少ない日本海軍艦艇の1隻である。2017年には、有志による保存会の尽力で第四砲身が引き揚げられ、日本へ里帰りを果たした。
→改修後1,445t
竣工した「菊月」は佐世保鎮守府に所属し、1937年からの支那事変では中支・南支方面に進出、仏印進駐作戦にも参加した。太平洋戦争開戦時には第1航空艦隊・第2航空戦隊隷下の第23駆逐隊(菊月・夕月・卯月)に所属していたが、南雲機動部隊の直衛には航続距離の長い朝潮型・陽炎型が投入されたため、睦月型の第23駆逐隊は井上成美中将率いる南洋部隊に編入され、グアム島攻略作戦に参加する。作戦は大きな被害なく成功し、「菊月」は以後、ラバウル・ラエ・サラモア方面の攻略作戦、アドミラルティ諸島攻略作戦の支援に転戦していく。
1942年4月下旬、第23駆逐隊はポートモレスビー作戦実施のため敷設艦「沖島」を護衛してトラック泊地を出撃、ラバウルへ進出した。4月29-30日、ツラギ攻略部隊(指揮官・志摩清英少将)と第23駆逐隊はラバウルを出撃し、5月3日、ツラギ島(フロリダ諸島)を占領する。守備隊のオーストラリア軍は一週間前にすでに撤退しており、占領そのものは無血だった。だがこの動きは米軍に暗号解読で察知されており、フランク・J・フレッチャー提督率いる第17任務部隊が、すでに攻撃に向かっていた。
1942年5月4日午前5時30分、「菊月」と「夕月」は第十九戦隊旗艦「沖島」に横付けし、燃料補給を開始した。輸送船「高栄丸」「吾妻丸」は荷役作業を続けている。だが午前6時20分、空母「ヨークタウン」から発進した攻撃隊——戦闘機F4F6機、急降下爆撃機SBD28機、雷撃機TBD12機——が、ガダルカナル島を飛び越えてツラギ泊地への空襲を敢行した。
TBD艦攻8機が「沖島」を包囲して雷撃を実施し、そのうち魚雷1本が「沖島」から離れたばかりの「菊月」右舷機関室に命中した。(爆弾命中という証言も残る。)戦死12名、負傷22名。「菊月」は第563号駆潜艇となっていた特設駆潜艇「第三利丸」に曳航され、ガブツ島の海岸に擱座した。この空襲では他にも第14掃海隊「玉丸」、掃海特務艇2隻が沈没し、「沖島」と「夕月」も損傷を受けている。
米軍パイロットたちはこの空襲で「軽巡1隻、駆逐艦2隻、水上機母艦1隻、輸送船5隻」を撃沈したと報告したが、実際の戦果ははるかに小さいものだった。歴史家サミュエル・モリソンは「彼らの白鳥はみなガチョウで、彼らのガチョウはみなアヒルの子だった」と評している。つまり戦場の報告には、常に誇張という影がつきまとう。
「菊月」被雷の報告を受けた重巡「加古」艦長・高橋雄次大佐は、後にこの日のことを一首の和歌に残している。「小さき艦(ふね)に襲ひかかれる敵百機 掩護のわれは遠くにありしに」——小さな駆逐艦に押し寄せる多数の敵機、それを守るはずの自分が遠く離れた場所にいたことへの、深い悔恨がにじむ一首だった。
5月5日午前1時、「沖島」は反転し、同日午後3時にツラギへ到着すると「菊月」乗組員と重要書類を収容してラバウルへ撤退した。午後10時25分、放棄された「菊月」はカブツ島のハラボで沈没する。5月7日、生存者を乗せた「沖島」はラバウルに到着したが、先着していた僚艦「夕月」も5月4日の空襲で艦長・橘広太少佐が戦死するなど多数の死傷者を出していた。「菊月」生存者は「夕月」に移乗し、「菊月」最後の艦長となった森幸吉少佐が、後任者の到着まで「夕月」艦長として同艦を指揮することになった。1隻の艦を失った艦長が、傷ついたもう1隻の艦を率いる——この人事の連鎖は、ソロモンの戦場がいかに人材の余裕を欠いていたかを物語っている。
小さき艦に襲ひかかれる敵百機 掩護のわれは遠くにありしに
重巡「加古」艦長・高橋雄次大佐が、「菊月」被雷の報を受けて詠んだ一首
——高橋雄次『鉄底海峡 重巡「加古」艦長回想記』65頁より
1942年5月25日、「菊月」は帝国駆逐艦籍と睦月型駆逐艦から除籍された。同日、「沖島」も除籍され、第23駆逐隊も解隊される。その後、ツラギ島とガダルカナル島は同年8月、米軍によって奪還された。「菊月」は1943年、米軍の手によって引き上げられ徹底的な調査を受けた後、船体はそのまま海岸へ沈座放置される。現在もソロモン諸島フロリダ諸島のンゲラスレ島にある「トウキョウ・ベイ」と呼ばれる湾内の海岸に、座礁した状態でその姿をとどめている。
長年の風雨と波浪による風化で、水上に出ている船体のほとんどは崩壊し、原形をとどめていない。それでも「菊月」は、現在水上にある数少ない旧日本海軍艦艇として知られている。近年は地球温暖化による海面上昇で、少しずつ海面下に沈みつつあるという。2016年、有志による「菊月保存会」が結成され、ソロモン諸島政府と現在の所有者の許可を得て、第四砲身のサルベージと舞鶴での展示に向けた準備が進められた。2017年6月18日、砲身の引き揚げが完了し、洗浄・錆止め処理の後、ホニアラ港経由で神戸港へ、そして9月5日、ジャパンマリンユナイテッド舞鶴事業所——かつての舞鶴海軍工作部——へと移送された。「菊月」が生まれた場所へ、その砲身は80年近い歳月を経て帰り着いたのである。
「菊月」の本質は、珊瑚海海戦という太平洋戦争の転換点の前哨戦で失われながら、その船体が80年以上を経た今も、海面に姿をとどめ続けているという一点にある。多くの艦が完全に沈没し、あるいは深海に消えていった中で、「菊月」は座礁という形で戦争を終え、そして現在まで「見える存在」であり続けている。これは、この艦型19隻の中でも極めて稀な結末だった。
しかし「菊月」の物語は単なる幸運の記録ではない。重巡「加古」艦長が和歌に残した悔恨、そして自らの艦を失った森幸吉少佐が傷ついた僚艦「夕月」を率いなければならなかったという事実は、この喪失が多くの人々に重い影を落としたことを物語っている。それでも地球温暖化による海面上昇で船体が少しずつ沈みつつあるという現在の状況は、この「見える記憶」もまた、いずれ失われていく運命にあることを静かに示している。
だからこそ、2016年に結成された「菊月保存会」の活動は重い意味を持つ。第四砲身が竣工の地・舞鶴へ里帰りしたという事実は、消えゆく記憶を、確かな形で未来へ手渡そうとする人々の意志の表れだった。派手な戦果を持たない艦だからこそ、私たちに「記憶を残す」という営みそのものの尊さを教えてくれる。猫工艦は、「菊月」と、その記憶を守り続ける人々すべてに、深い敬意を捧げたい。
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80年を経てなお海面にその姿をとどめる駆逐艦——「菊月」の記録を、その身に纏え
「小さき艦に襲ひかかれる敵百機——今も水上に残る、唯一の記憶」
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第19戦隊戦時日誌戦闘詳報・軍艦祥鳳戦時日誌戦闘詳報
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書38『中部太平洋方面海軍作戦(1)』、戦史叢書『南東方面海軍作戦(1) ガ島奪還作戦開始まで』関連巻
- ・高橋雄次『鉄底海峡 重巡「加古」艦長回想記』光人社NF文庫、1994年(原著1967年)
- ・イアン・トール(村上和久訳)『太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで 下』文藝春秋、2013年
- ・原勝洋「史上初の空母対決・珊瑚海海戦と日米の戦訓」『猛き艨艟 太平洋戦争日本軍艦戦史』文春文庫、2000年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・京都新聞「駆逐艦『菊月』の砲身が京都・舞鶴に帰郷」2020年6月29日
- ・Wikipedia「菊月 (睦月型駆逐艦)」「睦月型駆逐艦」「珊瑚海海戦」
- → 三日月——第23駆逐隊の僚艦、グロスター岬に散った駆逐艦