1944年12月12日夕刻、マニラ湾口。オルモック湾への輸送任務を終えて帰投中の駆逐艦「夕月」に、米軍のP-38ライトニングとF4Uコルセアが襲いかかった。機関部に爆弾2発が命中し、火災発生。航行不能となった「夕月」の乗員は、僚艦「桐」と輸送艦へ移った。「桐」は砲撃による処分を試みたが、艦はすぐには沈まなかった。午後8時27分、パナイ島東方のシブヤン海で、「夕月」はようやく静かに海へ消えていった。この日、僚艦「卯月」もすでに未明に沈んでおり、「夕月」の戦没をもって、睦月型駆逐艦12隻は太平洋戦争においてすべて失われた。
「夕月」は睦月型駆逐艦の12番艦、そしてこの艦型で最後に竣工した艦だった。藤永田造船所で1925年11月27日に起工、1927年7月25日に竣工した。「三日月」「菊月」「望月」とともに第23駆逐隊を編成し、真珠湾攻撃の陰でグアム島攻略戦へ向かった「夕月」は、竣工から17年、太平洋戦争のほぼ全期間を戦い抜き、そして睦月型全体の物語を締めくくる艦となった。
その艦歴には、幾度も「船を失った側」に立たされた記憶が刻まれている。ツラギでは自艦の艦長を失い、菊月からの生存者を受け入れ、パラオでは僚艦「夕張」を、ブルネイ沖では僚艦「秋風」を失った。仲間を見送り続けてきた「夕月」自身も、最後には僚艦「桐」に見送られる番となった。
→改修後1,445t
竣工した「夕月」は佐世保鎮守府に所属し、太平洋戦争開戦時には第二航空戦隊(空母「蒼龍」「飛龍」)麾下の第23駆逐隊に所属していた。だが空母2隻は真珠湾攻撃に参加する一方、航続距離の短い睦月型の第23駆逐隊は南洋部隊に編入され、グアム島攻略作戦に従事する。1942年5月4日、ツラギ島攻略作戦中のツラギ泊地で、「夕月」は空母「ヨークタウン」艦上機の攻撃を受けた。この空襲で艦長・橘広太少佐が戦死し、多数の死傷者を出す。同時に姉妹艦「菊月」も直撃弾を受けて座礁、翌日放棄された。
第23駆逐隊司令と、菊月艦長・森幸吉少佐ら生存者は「夕月」に移乗した。艦長を失っていた「夕月」には、その森少佐が新たな艦長として着任する。1隻の艦が艦長を失い、もう1隻の艦を失った艦長がその後任となる——この巡り合わせは、睦月型全体の艦歴を貫く「喪失と継承の連鎖」を象徴していた。その後「夕月」は臨時の第十九戦隊旗艦にもなり、船団護衛任務を重ねていく。
1944年4月27日、パラオ・ソンソロール島への輸送を終えて帰路についた軽巡「夕張」と「夕月」は、哨戒中の米潜水艦「ブルーギル」に発見された。ブルーギルはまず「夕月」を狙ったのち、目標を「夕張」に変更する。発射された魚雷6本のうち1本が「夕張」に命中。「夕月」は爆雷でブルーギルを追い払ったが、「夕張」は翌28日朝、沈没した。第三水雷戦隊司令部と「夕張」の生存者は「夕月」に移乗した。
半年後の11月3日、今度は空母「隼鷹」の輸送部隊に加わっていた「夕月」の目の前で、僚艦「秋風」が犠牲になる。米潜水艦「ピンタド」が本来「隼鷹」を狙って発射した魚雷が、「秋風」に命中して轟沈させたのである。「夕月」は救援に向かったが、生存者を見つけることはできなかった。「夕張」を救い、「秋風」を見送れなかった——「夕月」の艦歴には、救えた命と救えなかった命の両方が刻まれている。
「秋風」を沈めた魚雷は、本来「隼鷹」に向けられたものだった。戦場では、狙われた本命ではなく、たまたまそこにいた艦が犠牲になることも珍しくない。「夕月」はこの理不尽な巡り合わせを、繰り返し目撃してきた。
1944年7月4日、「夕月」は「皐月」とともに、伊号輸送作戦に従事していた夕雲型駆逐艦「清霜」(艦長・宮崎勇少佐)の指揮下に入り、輸送船を護衛して東京湾へ戻ることになった。この日、米軍機動部隊艦上機の空襲を受け、「皐月」が若干の被害を受けている。「夕月」と「皐月」は睦月型の同期のような間柄であり、この時の指揮官だった宮崎勇少佐は、後に「清霜」艦長として夕雲型駆逐艦の最終艦を率い、1944年12月の礼号作戦で僚艦「霞」「朝霜」に救助されることになる人物だった。
7月17日には、睦月型3隻(夕月・卯月・皐月)が海防艦「満珠」らとともに機動部隊燃料補給部隊を護衛してマニラ経由でシンガポールへ向かい、リンガ泊地で3隻そろって訓練を行った。この訓練では夕雲型駆逐艦「秋霜」も参加し、睦月型3隻から見学者が派遣されている。竣工から17年を経てなお、「夕月」は新しい艦型との交流を保ちながら、任務を続けていた。
夕雲型の艦長の指揮下に入り、夕雲型の乗員が見学に訪れる——竣工から17年を経た睦月型は、それでも最新鋭の艦型と肩を並べて戦い続けていた。世代を超えた駆逐艦同士の交流が、この記録には静かに刻まれている。
1944年12月、「夕月」と「卯月」は、レイテ島オルモックへの増援輸送「第九次多号作戦」に投入された。12月9日午後、兵員4,400名を運ぶ輸送部隊がマニラを出港する。12月11日、部隊はレイテ島北で空襲を受け、輸送船2隻が沈没した。「卯月」が救助と護衛にあたる中、「夕月」は「桐」や輸送艦とともにオルモック湾へ向かう。
同日午後9時30分、揚陸を開始した「夕月」らは、米軍の補給船団と護衛の大型駆逐艦5隻に遭遇した。日付が変わった12日午前0時過ぎ、駆逐艦「コールドウェル」「コグラン」と交戦するが、双方に被害はなかった。午前2時、「夕月」と「桐」は湾外に脱出したが、「夕月」は揚陸作業中の輸送艦を援護するため、単艦でオルモック湾に引き返している。
同日夕刻、マニラへ帰投中の3隻は米軍機P-38・F4Uの襲撃を受けた。「夕月」は機関部に爆弾2発を受け、火災が発生し航行不能となる。乗員は「桐」と輸送艦へ移った。第30駆逐隊司令も「桐」に移動する。「桐」は「夕月」を砲撃で処分しようとしたが、艦はすぐには沈まなかった。午後8時27分、パナイ島東方のシブヤン海で、「夕月」はようやく沈没した。実はこの日未明、僚艦「卯月」もすでに魚雷艇の攻撃で沈没しており、「夕月」の戦没をもって、睦月型駆逐艦12隻は太平洋戦争で全て失われることになった。
「夕月」の乗組員181名は海軍陸戦隊に編入され、その後のマニラ市街戦、フィリピン地上戦で多数が戦死した。1945年1月10日、「夕月」は「卯月」とともに帝国駆逐艦籍から除籍され、第30駆逐隊も解隊された。
「夕月」の本質は、睦月型19隻——いや12隻の物語全体を締めくくる艦として、繰り返し「喪失」の現場に立ち会い続けた、という一点にある。自らの艦長を失い、菊月の生存者を受け入れ、夕張を救い、秋風を見送れず、そして最後には自らも僚艦「桐」に見送られる番になった。竣工から最後の除籍まで、睦月型で最も長く生きた艦の1隻でありながら、その艦歴は喪失と隣り合わせだった。
しかし「夕月」の物語は単なる悲劇の連続ではない。1隻の艦を失った艦長が、艦長を失った別の艦を率いるという巡り合わせ、そして竣工から17年を経てなお最新鋭の夕雲型と肩を並べて戦い続けたという事実は、駆逐艦という艦種が持つ、しなやかな継続性を物語っている。乗組員も艦も入れ替わりながら、「戦い続ける」という営みそのものは途切れなかった。
そして「夕月」の戦没をもって、日本駆逐艦として初めて61cm魚雷を搭載し「並型駆逐艦の完成形」と呼ばれた睦月型12隻は、生存者ゼロという記録を完結させた。派手な戦果を持たない艦だからこそ、私たちに1つの艦型が辿った長い戦争の全体像——竣工から最後の1隻まで——を、静かに語り継いでくれる。猫工艦は、睦月型を締めくくった「夕月」と、その乗組員181名、そして睦月型12隻すべてに、深い敬意を捧げたい。
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第30駆逐隊戦時日誌戦闘詳報・第十一水雷戦隊戦時日誌・第一海上護衛隊戦時日誌
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書56『比島捷号陸軍作戦(2)』、戦史叢書96『南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』関連巻
- ・岸見勇美『地獄のレイテ輸送作戦 敵制空権下の多号作戦の全貌』光人社NF文庫、2010年
- ・佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編』光人社NF文庫、1995年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・Wikipedia「夕月 (駆逐艦)」「睦月型駆逐艦」「多号作戦」「珊瑚海海戦」
- → 卯月——同じ日にオルモック湾で戦没した最後の同型艦
- → 峯風型・野風型駆逐艦——秋風の生存者を捜索した経緯につながる全記録