1943年1月23日、ビスマルク諸島カビエンの南方約15海里。水上機母艦「秋津洲」を護衛してラバウルへ向かっていた駆逐艦「羽風」は、米潜水艦「ガードフィッシュ」を探知して攻撃に向かい、そこへ放たれた魚雷を受けた。「羽風」は沈没し、「秋津洲」は生存者約140名を海から引き上げた。その11日前、同じ海域で同じ潜水艦に沈められたのが、同型艦の「島風」(初代)である。
「羽風」は峯風型駆逐艦の7番艦として、1920年9月16日、三菱長崎造船所で竣工した一等駆逐艦である。1933年の昭和三陸地震では第4駆逐隊の一員として岩手県大槌で救援にあたり、日中戦争では華中沿岸の作戦に参加。太平洋戦争が始まったときには、第十一航空艦隊の第34駆逐隊に属していた。
「羽風」の戦いは、航空隊の後ろ盾としての戦いだった。仏印の基地から前進航空基地へ資材を運び、パレンバン攻略を支え、ラバウルで輸送と護衛に走り、ガダルカナルをめぐる戦いでは高速輸送にも駆り出される。その最期までの23年間を、この記事は辿る。
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1933年3月3日、昭和三陸地震が発生したとき、「羽風」は第4駆逐隊に属して青森県の大湊要港部にいた。僚艦とともに直ちに出動し、被災地の岩手県大槌で救援にあたっている。竣工から13年目の艦が、平時の最後の大仕事を引き受けた場面だった。
1937年からの日中戦争では、華中の沿岸作戦に参加した。このころ「羽風」は船体を補強され、煙突にキャップを付け、燃料搭載量を300トンに減らす改装を受けたとされる。
駆逐隊の編成は、資料によって細部が異なる。1940年には第三航空戦隊の第34駆逐隊に属していたとされ、1941年4月10日の編成替えで、秋風・太刀風とともに「羽風」が第34駆逐隊を構成する形になった。いずれにせよ、この頃から「羽風」は空母や航空部隊と行動をともにする駆逐艦になっていく。
太平洋戦争が始まった1941年12月、「羽風」は第十一航空艦隊の第34駆逐隊に属し、仏印のサン・ジャック岬(サイゴン南方)を拠点に、第22航空戦隊を支える任務に就いていた。開戦直後から、前進航空基地となるミリやクチン(サラワク)、コタバル(マレー半島)へ資材を運ぶ。戦闘機や爆撃機が使う燃料や弾薬は、こうした小さな艦が先に届けるものだった。
1942年2月、「羽風」はパレンバン攻略(L作戦)を支援し、その後バンカ島を拠点に対潜哨戒を行った。3月にバンコク、4月にシンガポールへと転進。5月にはラバウルを拠点に、ポートモレスビー攻略(MO作戦)の支援にあたった。5月下旬には修理のため舞鶴へ戻り、その後はサイパンへの船団護衛や、サイパンと母島の往復に従事している。艦長は4月20日付で鹿島正徳少佐が着任した。
「羽風」が運んだのは、兵士ではなく基地を動かすための荷物だった。滑走路ができ、燃料が届き、整備員が着いて、はじめて飛行機は飛べる。駆逐艦の戦いは、砲撃だけではなかった。
1942年7月14日、「羽風」は「富士山丸」「鳴戸」を護衛して横須賀へ入港した。7月17日に横須賀を出港し、サイパンと父島に寄ったのち、8月2日に「りおん丸」を護衛してサイパンへ到着。8月3日にサイパンを出て、8月8日、ラバウルに着いた。前日の8月7日、米軍がガダルカナル島に上陸していた。
以後の「羽風」は、ラバウルを拠点に哨戒と船団護衛を重ねた。10月にはガダルカナルへの反攻を控えた複数の船団を護衛し、11月には、ブインからムンダへ兵員を運ぶ高速輸送(いわゆる鼠輸送)に就く。この月、ほかにも4回の輸送を行ったとされる。11月下旬から1943年1月20日ごろまでは、ショートランド、ブカ、ラバウル、カビエンのあいだで哨戒と護衛を続けた。同じ第34駆逐隊の「秋風」「太刀風」も、同じラバウル方面で同様の任務に就いていた。
「羽風」「秋風」「太刀風」の3隻は、同じラバウル方面で護衛と輸送を担った。のち「太刀風」は1944年2月、座礁したままトラック島空襲で戦没している。
1943年1月12日、カビエン沖で、峯風型の「島風」(初代、このときは第一号哨戒艇)が給油船「あけぼの丸」を護衛中に、米潜水艦「ガードフィッシュ」の雷撃を受けて沈んだ。この潜水艦は、1月中旬のこの哨戒で、ビスマルク諸島周辺の日本艦船を相次いで狙っていた。
1月15日に横須賀を出た水上機母艦「秋津洲」は、1月22日にカビエンへ到着し、翌23日、ラバウルへ向かって出発する。この航海を護衛していたのが「羽風」だった。カビエン南方約15海里、南緯2度47分・東経150度38分付近で、「羽風」は潜水艦に対する攻撃に向かったが、ガードフィッシュの魚雷がその艦体を捉えた。複数発射された魚雷のうち1本が命中したとされ、「羽風」は沈没。「秋津洲」は生存者約140名を救助し、翌24日にラバウルへ入港している。
「羽風」の除籍は、1943年3月1日。竣工から22年と半年、峯風型の7番艦はビスマルク海で艦歴を閉じた。
一部の資料は、護衛対象を「あきつ丸」と記している。本記事では、「秋津洲」自身の艦歴にも「羽風」の生存者約140名を救助したと記されていることから、護衛対象を水上機母艦「秋津洲」と判断した。沈没時の死者数は、確認できた資料に記載がない。
「羽風」の本質は、前線の航空基地を後ろから支え続けた「足」の艦だった、という一点にある。仏印、スマトラ、ラバウル、ブイン——「羽風」が走った海は、日本海軍の航空戦力が前進していく道筋そのものだった。名のある海戦での戦果こそないが、護衛と輸送がなければ、基地は一日も動かなかった。
その地道な仕事の終わりは、あまりに唐突だった。島風が沈んで11日後、同じ潜水艦の同じ哨戒で、同じ海域に「羽風」も沈んだ。ともに峯風型、ともに護衛の最中だった。老朽化した駆逐艦が、制空権と制海権を失いつつある海で護衛を続けるという構図が、はっきりと見えてくる。ただし、乗組員の被害については、確認できた資料に記録がなく、本記事でも断定を避けた。
それでも、「秋津洲」が約140名を救い上げたという事実は、この艦の最期に小さな救いを残している。護衛される側が、護衛した側を救った。猫工艦は、峯風型7番艦「羽風」と、その乗組員たちに深い敬意を表したい。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第62巻 中部太平洋方面海軍作戦〈2〉昭和十七年六月以降』朝雲新聞社
- ・伊藤大介「昭和三陸津波と軍隊」山本和重編『北の軍隊と軍港』(地域の中の軍隊1 北海道・東北)吉川弘文館、2015年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・『丸スペシャル』第51号「日本の駆逐艦Ⅱ」潮書房、1981年
- ・海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年
- ・Wikipedia「羽風 (駆逐艦)」「秋津洲 (水上機母艦)」「峯風型駆逐艦」、English Wikipedia “Japanese destroyer Hakaze”「USS Guardfish (SS-217)」、日本の軍艦(japanese-warship.com)「羽風」