1945年7月24日、別府湾周辺。米英の艦載機が相次いで襲来するなか、護衛空母「海鷹」が磁気機雷に触れ、舵と機関を損傷して動けなくなった。その巨体に索を渡し、夕刻から夜通し曳いたのが、峯風型駆逐艦「夕風」である。竣工から24年、排水量わずか1,000トン台の旧式駆逐艦が、空母を曳いて陸へ運んだ。
「夕風」は峯風型駆逐艦の10番艦として、1921年8月24日、三菱長崎造船所で竣工した一等駆逐艦である。二・二六事件では海軍陸戦隊を運び、米国大使や英国王族を迎える儀礼の艦として働いた。1940年に第三航空戦隊へ入ると、軽空母「鳳翔」の随伴艦となり、真珠湾攻撃の日の出撃からミッドウェー作戦、そして内海での訓練支援まで、鳳翔の影として行動する。
「夕風」は戦闘の主役になることなく、終戦まで生き残った。そして戦後は復員輸送で約8,300名を運び、賠償艦としてシンガポールへ回航されて、その艦歴を閉じる。華々しい戦果のない艦が、なぜ最後まで生き残ったのか。この記事は、空母の影として働いた駆逐艦の全記録を辿る。
→公試1,345t
1921年12月、竣工直後の「夕風」は第3駆逐隊に属して第二艦隊の一員となった。平時の「夕風」は、峯風型のなかでも様々な場面に立ち会っている。1925年4月16日には、バンクロフト駐日米国大使を乗せて横浜から下田へ送り届けた。1929年5月2日には、来日したグロスター公ヘンリーを横浜沖で出迎えている。
一方で、事故もあった。1928年10月11日、東京湾の浦賀水道で夜間訓練中、僚艦「島風」(初代)と衝突し、島風には大破口が生じ、「夕風」も艦首に軽微な損傷を負っている。そして1936年2月26日の二・二六事件では、海軍陸戦隊を横須賀から芝浦へ輸送した。
1937年以降は華中沿岸作戦に加わり、南洋諸島や樺太沿岸の警備にもあたった。1940年11月15日に第34駆逐隊へ編入され第三航空戦隊を構成、1941年4月10日には駆逐隊から外れて第三航空戦隊所属の単艦となる。この年の3月には台湾海峡の東方で座礁し、満潮で離礁するという事故も経験した。
1941年12月8日、開戦。「夕風」は第三航空戦隊(鳳翔、瑞鳳、三日月)の一員として、山本五十六長官直率の主力部隊とともに出撃した。南雲機動部隊の支援と掩護が目的だったが、ハワイ作戦の成功後、小笠原近海で反転している。日本海軍の戦艦群が出撃しながら、結局は戦場に届かなかった出撃だった。
1942年3月12日には、東京空襲を警戒して鳳翔とともに小笠原諸島へ出撃した。敵とは会わないまま父島に寄港し、帰投の途中で台風に遭っている。そして6月のミッドウェー作戦では、空母隊として主力部隊の護衛についたうえ、タンカーの護衛も担当。海戦そのものには参加せず、6月14日に桂島泊地へ到着した。
「夕風」は、日本海軍の開戦と大海戦の両方に「その場にいた」艦でありながら、直接の戦闘とは縁が薄かった。つまり、重要な局面で護衛という地味な役割を担い続けた艦だった。
1942年7月以降、「夕風」は鳳翔の随伴艦として、瀬戸内海を中心に活動した。仕事は多岐にわたる。対潜哨戒、着艦訓練の支援、雷爆撃訓練の目標艦、そして訓練用魚雷の回収。航空機が訓練するたびに、その横には必ず駆逐艦の姿があった。1943年以降も、警戒、採収、曳的、目標艦と任務は広がったが、司令部が駆逐艦の増配を求めても実現しなかったという。
所属も細かく変わった。1942年4月に第三航空戦隊が解隊となり第一艦隊付属、7月に第三艦隊付属、1943年1月に第五十航空戦隊、1944年1月に第五十一航空戦隊、そして2月には連合艦隊付属となる。1945年春には別府方面へ移り、空母「海鷹」とともに、特攻兵器の標的艦訓練に従事した。
1945年7月24日、別府湾周辺は米海軍機動部隊の艦載機の空襲を受けた。「夕風」は対空砲火と回避運動を重ね、被害はなかった。夕刻、別府湾を出た空母「海鷹」が磁気機雷に触れる。舵が破壊され、機関も損傷して航行不能となった。
その「海鷹」を曳航したのが、「夕風」だった。夜通し曳かれた「海鷹」は、翌朝、別府近郊の日出海岸で座洲する。「海鷹」はその後も空襲を受け続け、のちに放棄された。曳航場所と座洲地点については資料により細部が異なるが、小さな旧式駆逐艦が空母を曳いたという事実は、「夕風」の艦歴で最も劇的な場面になった。
曳航の時刻と場所は、「夕風」の記事と「海鷹」の記事で細部が一致しない。本記事は、触雷は7月24日夕方、曳航は夜通し、座洲は翌朝という流れに従い、地名は「別府湾周辺」「日出海岸」と記した。
終戦時、「夕風」は別府湾にあり、ほぼ無傷で残存していた。その後は呉へ回航され、1945年10月に除籍。12月には特別輸送艦に指定され、博多〜釜山、博多〜上海、博多〜葫芦島の航路で19回の復員輸送に従事した。運んだ人員は、軍人約2,000名、邦人約6,300名の計約8,300名にのぼる。翌1946年1月には、人員輸送のため3か所にデッキハウスが設置された。
横須賀の長浦に繋船されたのち、1947年7月に賠償艦に指定される。佐世保から英国領シンガポールへ回航され、8月15日にセレター軍港へ到着した(8月14日とする資料もある)。現地で解体され、26年の艦歴は終わった。
「夕風」の本質は、空母の影として働き、生き残った駆逐艦、という一点にある。鳳翔という旧式の小型空母の随伴艦は、艦隊決戦の最前線ではなく、搭乗員を育てる内海の訓練場に配置された。主役の艦たちが次々と沈む戦争のなかで、訓練と護衛を日々こなす艦が、結果として最も長く生き残った。
それは決して、安全だったという意味ではない。1945年夏、内海は連日のように空襲を受けていた。「夕風」が空母を曳いた夜は、まさにそのただなかだった。ただし、乗組員の被害や、艦長の具体的な指揮については、確認できた資料に詳しい記録がなく、本記事でも踏み込んでいない。
戦後の復員輸送と賠償艦としての回航まで含めれば、「夕風」は大正の竣工から戦後の1947年まで、四半世紀を生き抜いた艦である。同じ峯風型の生き残りのうち、澤風と汐風は小名浜で堤防に転用され、矢風も戦後に解体された。猫工艦は、峯風型10番艦「夕風」と、空母の影を最後まで守り続けた乗組員たちに、深い敬意を表したい。
▼ 関連記事
■ 参考文献・資料
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻・第9巻、第一法規出版、1995年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)海軍辞令公報(部内限)各号
- ・Wikipedia「夕風 (駆逐艦)」「海鷹 (空母)」「鳳翔 (空母)」「峯風型駆逐艦」、English Wikipedia “Japanese destroyer Yūkaze”「Japanese aircraft carrier Kaiyō」