1944年10月27日、フィリピン諸島セミララ島沖。座礁した僚艦「早霜」を救助しようと、ほとんど停止状態で救助作業を始めた「不知火」の頭上に、敵機の爆音が迫っていた。速力が上がらないまま艦中央部へ爆弾が直撃し、巨大な火柱と共に艦は真っ二つに折れて轟沈——司令・艦長以下、脱出する暇もなく全員が戦死した。レイテ沖海戦、最後の喪失艦だった。
「不知火」は陽炎型駆逐艦の2番艦。1943年5月、ネームシップの「陽炎」がブラケット海峡で機雷に消えた後、書類上の艦型名は「不知火型駆逐艦」へと改定された——つまり「不知火」は、生き残ったことによって型そのものの名を背負う立場になった艦である。竣工は「陽炎」よりわずかに遅れたが、キスカ島で艦橋付近を切断する大破を経験しながらも自力で本土へ帰り着き、長い修理期間に撮影された鮮明な写真の数々は、今日でも陽炎型研究の一級資料になっている。
しかし「名を継いだ」ことは、生き延びる保証にはならなかった。真珠湾攻撃からセイロン沖、キスカでの壊滅的被害、そしてレイテ沖海戦——「不知火」の5年間は、名前を引き継いだ艦の責務と、それでも訪れる終わりの理不尽さを、両方体現している。
1937年8月30日(陽炎型全19隻中、最初の起工)
1939年12月20日竣工(陽炎より約1.5ヶ月遅れ2番艦)
全長118.5m
52,000馬力
九三式酸素魚雷
長期修理中の撮影写真が陽炎型研究の一級資料に
シブヤン海で空襲を受け轟沈・総員戦死
「不知火」は1937年8月30日、浦賀船渠で起工された——実は陽炎型19隻の中でもっとも早い着工である。しかし建造は「陽炎」に先を越され、1939年12月20日、約1ヶ月半遅れての竣工となった。日本海軍の艦船名としては、1899年竣工の東雲型駆逐艦「不知火」に続いて2代目にあたる。呉鎮守府に所属し、「陽炎」と朝潮型駆逐艦2隻(霞・霰)と共に第18駆逐隊(第二艦隊・第二水雷戦隊)を編成した。
1942年7月5日、「不知火」「霞」「霰」の第18駆逐隊は、水上機母艦「千代田」「あるぜんちな丸」の護衛としてキスカ島に向かっていた。濃霧のため湾口で仮泊中、米潜水艦グロウラー(USS Growler)の雷撃を受け、艦隊はほぼ壊滅する。「霰」は轟沈、「霞」は大破。そして「不知火」自身も、艦橋付近を切断するほどの大損傷を負った。この結果を受け、18駆司令官・宮坂義登大佐は責任を取って自決し、第18駆逐隊は一時解隊された。
「不知火」の被害は凄まじく、艦首部分は使用不能となり爆破切断、島の砲台に転用しようとしたが結局転覆沈没した。魚雷・弾薬など重量物を陸揚げし、応急処置を施した艦体は、8月6日頃から後進状態で曳航され本土を目指す。その途上で第3缶室が使用可能となり、自力後進に切り替えて9月3日、ついに舞鶴へ帰り着いた。ちなみにこのとき「陽炎」は修理中で無傷だったため、第二水雷戦隊第15駆逐隊へ編入されている——皮肉にも、この配置換えが8ヶ月後の「陽炎」自身の運命(ブラケット海峡での機雷戦没)につながっていく。
艦橋付近を切断される大破を負いながら、艦は自力で後進し本土へ帰り着いた。つまりどういうことか。友鶴事件・第四艦隊事件の教訓を反映した陽炎型の船体強度は、このレベルの損傷でも艦を海に留め続けるだけの余力を持っていたということだ。設計思想の正しさが、皮肉にも「沈まない」という形で証明された瞬間だった。
1943年5月8日、ネームシップの「陽炎」がブラケット海峡で機雷に触れ戦没した。この時点で「不知火」は陽炎型19隻の中でもっとも古参の生存艦となっており、海軍は書類上の艦型名称を「陽炎型駆逐艦」から「不知火型駆逐艦」へと改定した。ネームシップが消えても型そのものが消えるわけではない——しかし、その名を継ぐのは、たまたま生き残っていた「不知火」だった。
奇しくもこの長期修理期間、「不知火」は数多くの鮮明な写真を撮影されている。ネームシップの「陽炎」がほとんど写真を残していないのとは対照的に、「不知火」の修理中・修理直後の姿は、今日の陽炎型研究や模型製作において貴重な一級資料となっている。名前を継いだ艦が、姿という形でも同型艦の記憶を後世に伝えることになったのは、歴史の巡り合わせというほかない。
1943年5月:ネームシップ「陽炎」戦没
同月:艦型名称が「不知火型駆逐艦」に改定
以降:長期修理中の「不知火」が数多く撮影され、陽炎型研究の一級資料に
つまりどういうことか。艦隊の記憶は、必ずしも一番艦だけが背負うものではない。生き残った艦が、結果として型全体の記録係を務めることになった——これもまた、駆逐艦たちの戦争の一断面である。
1944年10月、レイテ沖海戦。「不知火」は志摩清英中将率いる第五艦隊(志摩艦隊)の一員として、西村祥治中将率いる部隊に続きスリガオ海峡への突入を開始した。しかし先行した西村艦隊は「時雨」を除きほぼ壊滅しており、志摩艦隊の旗艦「那智」は炎上漂流中の重巡「最上」と衝突して損傷。前方には真っ二つに折れて炎上する戦艦「扶桑」の姿があった。絶望的な戦力差を悟った志摩艦隊は、戦果を挙げることなく反転・撤退した。
2日後の10月27日、「不知火」は損傷した重巡「鬼怒」の救助に向かったが発見できず、代わりにセミララ島の浅瀬に座礁した駆逐艦「早霜」を発見する。周囲からの警告を無視し、沖合約1,000メートルで停止して救助活動を開始した直後——敵機が来襲した。救助のためほとんど停止状態にあった「不知火」は機敏に動くことができず、猛烈な対空射撃で応戦するも、速力が上がる前に艦中央部へ爆弾が直撃。巨大な火柱と共に艦は2つに折れて沈んでいった。あまりに凄まじい爆沈だったため、司令・艦長以下、乗組員全員が脱出する暇もなく戦死したとされる。一方、当の「鬼怒」の乗組員は、この時すでに別の大発によって救助されていた。
「不知火」は、僚艦を救うために自らの機動力を捨てた。その代償は、生還者ゼロという最も重い形で払われた。つまりどういうことか。駆逐艦という艦種は、常に「誰かを助ける」宿命を背負っており、その宿命こそが時に艦自身の命を奪う——「不知火」の最期は、その構造そのものを体現している。
「不知火」の本質は、「一番艦ではないのに、一番艦の名を背負うことになった艦」という一点にある。竣工では「陽炎」に一歩譲りながらも、艦型名を継承する立場になったのは、単なる偶然——「陽炎」が先に沈み、「不知火」が生き残っていたという事実の積み重ねに過ぎない。
しかし、この艦は与えられた責務を静かに果たし続けた。艦橋を失う大破からも自力で帰還し、長い修理期間中に残された鮮明な写真の数々は、皮肉にもネームシップよりも多くこの艦型の記憶を後世に伝えている。一方で、その最期は僚艦を救おうとした結果の全滅だった。名を継いだ艦だからといって、特別な幸運が与えられるわけではない——駆逐艦という存在の宿命は、名前の重さとは無関係に、平等に牙を剥いた。
この艦が残したものは何か。「不知火型」という名は、戦争が終わるまで公式には定着しなかったかもしれない。しかし、写真という形で今日まで残る「不知火」の姿は、陽炎型という艦型全体を後世に伝える役割を、結果として果たし続けている。猫工艦は、名を継ぐことの重さと、それでも訪れる終わりの理不尽さの両方を背負ったこの艦に、敬意を表したい。
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