1941年12月11日午前5時37分、ウェーク島ピーコック岬の沖合。撤退中の駆逐艦「如月」に、米海兵隊F4Fワイルドキャット戦闘機が急降下し、機銃掃射とともに100ポンド爆弾1発を投下した。爆弾は魚雷(一説には爆雷)に誘爆し、艦橋と二番煙突の半分、そしてマストを一瞬で吹き飛ばした。艦橋を失った「如月」は、しばらく異様な姿のまま航行を続けたのち、船体が二つに折れ、午前5時42分、爆沈した。約2000m離れた僚艦「追風」からも、その最期は目撃された。
「如月」は睦月型駆逐艦の2番艦として、舞鶴工作部で1924年6月3日に起工、1925年6月5日に進水、同年12月21日に竣工した。「日本駆逐艦初の61cm魚雷」を掲げる新鋭艦として佐世保鎮守府に配属され、上海事変・支那事変を経て太平洋戦争開戦を迎える。だが開戦からわずか3日、太平洋戦争緒戦のウェーク島攻略戦で、「如月」は睦月型19隻の中で最初に失われる艦となった。
そしてこの戦いには、もう一つの歴史的な意味があった。ウェーク島守備隊の海岸砲台が上陸侵攻部隊を撃退したこの一戦は、第二次世界大戦を通じて他に例のない、唯一の事例として記録されている。「如月」の喪失は、単なる1隻の悲劇ではなく、太平洋戦争全体の戦訓——航空機の協力なくして上陸作戦は成立しない——を、開戦劈頭に日本海軍へ突きつける出来事でもあった。
→改修後1,445t
竣工した「如月」は当初「第二十一号駆逐艦」という番号名を与えられていた。1928年8月1日、睦月型全艦が一斉に改名される中で正式に「如月」となる。佐世保鎮守府に所属し、僚艦「睦月」と第三十駆逐隊を編成した。1932年の第一次上海事変では第三艦隊隷下で上海方面の作戦行動に従事し、1937年の第二次上海事変でも東シナ海方面へ進出、空母「龍驤」「鳳翔」の護衛にあたるなど、実戦経験を積み重ねていく。
1941年10月1日、第30駆逐隊の司令駆逐艦は「如月」から「睦月」へと変更された。この人事異動からわずか2ヶ月後、「如月」艦長には小川陽一郎大尉(のち少佐)が着任する。そして12月8日、太平洋戦争が開戦。「如月」は「睦月」「弥生」「望月」とともに第30駆逐隊を編成し、井上成美中将率いる第四艦隊の南洋部隊指揮下で、開戦劈頭のウェーク島攻略戦に投入されることになる。誰もこの作戦が、竣工から16年を数える「如月」にとって最後の任務になるとは、まだ知らなかった。
1941年12月10日夜半、ウェーク島に到着した第一次攻略部隊は上陸用舟艇を降ろそうとしたが、外洋の強風と波浪により失敗する。攻略部隊指揮官・梶岡定道少将は各艦に対地砲撃と揚陸準備を指示し、「疾風」「如月」にはウェーク島南部の砲撃が命じられた。翌11日、軽巡3隻(夕張・天龍・龍田)の艦砲射撃で戦闘が始まる。約1時間の砲撃ののち、日本軍輸送船団は上陸部隊の展開を始めた。
だがウェーク島守備隊は、日本側が「壊滅した」と判断していた海岸砲台をまだ温存していた。午前4時頃、ビール島のB砲台が「睦月」「弥生」と交戦しこれを撃退。そして西側ウィルクス島に秘匿されていたL砲台が、単縦陣で航行する駆逐艦3隻に距離6300mで発砲、直撃を受けた「疾風」が瞬時に轟沈した。米軍の予期せぬ反撃と「疾風」の喪失により、攻略部隊の駆逐隊は大混乱に陥る。日本艦隊はクェゼリンへの退却を開始したが、それで終わりではなかった。
日本軍は上陸前、ウェーク島の海岸砲台を「概ね壊滅」と判断していた。だが実際には温存されていたこの砲台が、「疾風」を一瞬で沈め、日本の第一次攻略部隊全体を退却に追い込んだ。つまりこの敗北は、事前の戦力評価そのものが誤っていたことを、最も過酷な形で証明した出来事だった。
退却する日本艦隊を追ったのは、地上砲台だけではなかった。ウェーク島に残存していた第211海兵戦闘飛行隊のF4Fワイルドキャット4機——指揮官ポール・A・パットナム少佐——が、100ポンド爆弾2発を搭載して追撃に転じる。日本軍機がいないことを確認したパットナム少佐は、部下機に「降りていって、パーティの仲間入りをしようじゃないか」と呼びかけたと伝えられる。米軍機は魚雷や爆雷の誘爆を狙い、燃料と弾薬の補給を繰り返しながら、合計9回もの出撃を行った。
まず比較的大型の軽巡3隻が狙われた。午前4時43分、「夕張」への爆撃は失敗。5時10分から5時30分にかけて「天龍」「龍田」も数回の空襲を受け、死傷者を出す。そして午前5時37分、狙いは「如月」に移った。ウェーク島ピーコック岬の南で機銃掃射を受け、投下された100ポンド爆弾1発が命中する。爆弾は搭載していた魚雷(あるいは爆雷)に誘爆し、艦橋と二番煙突の半分、マストが吹き飛んだ。「天龍」主計長の証言によれば、艦橋を失った「如月」はしばらく異様な姿のまま航行を続けたのち、姿が見えなくなったという。同じ光景は「如月」の左舷前方約2000mを航行していた「追風」からも目撃された。
たった4機のF4Fが、燃料と弾薬を補給しながら9回も出撃を繰り返し、日本の攻略部隊を痛めつけた。つまりこの戦いは、兵力の絶対数ではなく、限られた戦力をどう粘り強く運用するかという戦術の巧拙が、勝敗を大きく左右することを示した戦例だった。
「如月」「疾風」の喪失により、この第一次ウェーク島攻略作戦は第二次世界大戦を通じて、海岸砲台が上陸侵攻部隊を撃退した唯一の事例として記録されることになった。日本軍にとっては手痛い敗北だったが、歴史的には特異な一戦として記憶される。第四艦隊の当初の報告では「疾風」「如月」ともに生存者なしとされたが、後の記録では「疾風」から機関兵1名、「如月」から水兵1名・機関兵2名の計3名が救助されたという。「如月」艦長・小川陽一郎少佐は戦死し、同日付で海軍中佐に特別昇進した。
12月18日、第四艦隊はこの戦訓を受けて、全艦艇に対し魚雷・爆雷の誘爆対策として釣床(ハンモック)を巻き付けるよう緊急通達を出す。「如月」の喪失は、航空機の脅威に対する日本海軍の備えがいかに不十分だったかを、開戦からわずか3日で証明する出来事となった。1942年1月15日、「如月」は睦月型駆逐艦・第30駆逐隊・帝国駆逐艦籍のそれぞれから静かに除籍された。
「降りていって、パーティの仲間入りをしようじゃないか」
日本軍機がいないことを確認したパットナム少佐が、部下機に呼びかけたとされる言葉
——イアン・トール『太平洋の試練』229-230頁より
「如月」の本質は、開戦からわずか3日で睦月型19隻の中で最初に失われた艦でありながら、その敗北自体が第二次世界大戦を通じて唯一の戦例——海岸砲台が上陸侵攻部隊を撃退した事例——として歴史に刻まれたという点にある。日本軍が「壊滅した」と誤って判断した砲台に足元をすくわれ、さらに執拗な航空攻撃に追い詰められて沈んだこの艦の最期は、太平洋戦争全体を通じて繰り返されることになる「事前情報の過信」と「制空権の喪失」という2つの教訓を、開戦劈頭からすでに体現していた。
しかし「如月」の物語は単なる敗北の記録として片付けられるものでもない。わずか4機のF4Fが燃料・弾薬を補給しながら9回も出撃を繰り返したという事実は、圧倒的な劣勢の中でも粘り強く戦い続けた米軍守備隊の姿を映し出している。一方で、艦橋を失いながらもしばらく航行を続けた「如月」の姿を、僚艦「天龍」「追風」の乗組員たちが見つめていたという証言は、味方の最期を目撃することしかできなかった者たちの、言葉にならない痛みを伝えている。
それでも「如月」が残したものは確かにある。艦長・小川陽一郎少佐の戦死と特別昇進、そして12月18日に出された全艦への誘爆対策通達——「如月」の喪失は、その後の日本海軍の防御思想に、確かな痕跡を残した。派手な戦果を持たない敗北の記録だからこそ、私たちに戦争の初期段階ですでに露呈していた構造的な弱さを、静かに教えてくれる。猫工艦は、睦月型で最初に失われた艦として、「如月」とその乗組員たちに深い敬意を捧げたい。
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第6水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報・第18戦隊戦時日誌戦闘詳報 AA攻略作戦
- ・岡村治信『青春の棺 生と死の航跡』光人社、1979年(「追風」乗艦・主計科士官の証言記録)
- ・五月会「三島義温「ウェーキ島攻略戦記」」『波濤と流雲と青春と』朝雲新聞社、1980年(「天龍」主計長の証言)
- ・イアン・トール(村上和久訳)『太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで』文藝春秋、2013年
- ・木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・高松宮宣仁親王『高松宮日記 第三巻』中央公論社、1995年
- ・Wikipedia「如月 (睦月型駆逐艦)」「睦月型駆逐艦」「ウェーク島の戦い」
- → 弥生——ウェーク島で如月の喪失を共に経験した同型艦の全記録