1942年9月11日午後3時35分、ニューギニア沖ノーマンビー島東方。行方不明になった陸戦隊「月岡部隊」の捜索に向かっていた駆逐艦「弥生」に、米陸軍のB-17とオーストラリア空軍のハドソン哨戒機が襲いかかった。後部への被弾で舵が故障、10分後に再び被弾して航行不能となり、午後4時15分、「弥生」は沈没した。艦長・梶本顗少佐以下の生存者は、カッターボートに乗り込み、自力でノーマンビー島へ漕ぎ着けるほかなかった。
「弥生」は睦月型駆逐艦の3番艦として、浦賀造船所で1924年1月11日に起工、1925年7月11日に進水、1926年8月28日に竣工した。第30駆逐隊の一員として、開戦劈頭のウェーク島攻略戦で僚艦「如月」の喪失を目撃し、その半年後には僚艦「睦月」の生存者を救助して自ら駆逐隊の司令艦となる。だが「弥生」自身の最期もまた、味方の消息を捜すという任務の途上で訪れた。
そして「弥生」の物語には、もう一つの奇跡が隠されている。沈没時の艦長・梶本顗少佐は、タロ芋で飢えをしのぎながら15日間を生き延び、救出された。そしてこの梶本という一人の男は、後に夕雲型駆逐艦「清霜」の艦長となり、そこでもまた僚艦に救助されて生還することになる。一人の艦長が、2度の駆逐艦沈没を生き延びたという事実は、太平洋戦争の駆逐艦史の中でも稀有な記録である。
→改修後1,445t
竣工した「弥生」は当初「第二十三号駆逐艦」の番号名で佐世保鎮守府に所属し、1928年8月1日に正式に「弥生」と改名された。1930年11月には、僚艦「睦月」「如月」「卯月」とともに、昭和天皇の御召艦「霧島」の供奉艦を務める。1937年からの支那事変では中支・南支方面に進出、仏印進駐作戦にも参加した。太平洋戦争開戦時、「弥生」は井上成美中将率いる第四艦隊・第六水雷戦隊・第30駆逐隊(司令・安武史郎大佐)に所属し、睦月型4隻(睦月・如月・弥生・望月)で編成されていた。
開戦劈頭、第30駆逐隊は第1次ウェーク島攻略作戦に投入される。1941年12月11日、僚艦「如月」がF4Fワイルドキャットの空襲により沈没し、第30駆逐隊は3隻編制となった。「弥生」自身もこの日の空襲で爆撃を受けたが、なんとか持ちこたえた。第2次攻略作戦では空母「飛龍」「蒼龍」ら大規模な増援を得て、ウェーク島は24日までに占領される。その後「弥生」はラバウル・ブーゲンビル島・ポートモレスビーの各攻略作戦に転戦していく。
1942年8月24日夜、「弥生」は「睦月」「陽炎」「磯風」「江風」とともにガダルカナル島ルンガ泊地に突入、約10分間の飛行場砲撃に成功する。翌25日午前6時、輸送船団と護衛艦隊が合流して陣形変更中のところを、米軍のSBDドーントレス8機とB-17爆撃機3機が急襲した。二水戦旗艦「神通」が被弾炎上し、「睦月」は後部機械室への直撃弾を受けて午前9時40分に沈没した。
「弥生」はただちに「睦月」の生存者全員を収容する。この時、「睦月」に乗艦していた第30駆逐隊司令・安武史郎大佐も「弥生」に移乗し、同艦がその日から新たな駆逐隊司令艦となった。重傷者13名を抱えた「弥生」は、哨戒艇1号・2号とともに、輸送船団に先行してラバウルへ退避することが決まる。8月27日午前2時、「弥生」らはラバウルに到着した。第30駆逐隊は「睦月」を失い、「卯月」も損傷して内地へ回航されるという、痛手の大きい海戦だった。
司令官が乗る艦が沈むたびに、指揮系統は隣にいた僚艦へと引き継がれていく。「弥生」が「睦月」に代わって司令艦になったという事実は、駆逐隊という組織が、1隻の喪失によって簡単には機能停止しない仕組みを持っていたことを示している。だがその仕組みを支えていたのは、結局のところ、生き残った僚艦が生存者を受け入れるという、地道な行為の積み重ねだった。
第二次ソロモン海戦の混乱と並行して、ニューギニア島東端では「ラビ攻略作戦」が進行していた。8月25日に上陸した陸戦隊が苦戦する中、増援として呉鎮守府第三特別陸戦隊と横須賀鎮守府第五特別陸戦隊の一部(吉岡中隊)の派遣が決定する。「弥生」は駆逐艦「嵐」「叢雲」や哨戒艇3隻とともにこの部隊をラバウルから輸送し、8月29日、ラビ付近に上陸させて帰途についた。
だが、ブナから舟艇機動でラビ攻撃に向かっていたはずの佐世保鎮守府第五特別陸戦隊の一部(月岡部隊)が、消息不明になっていた。9月3日、「弥生」は月岡部隊の予定上陸地であるタウポタへ連絡員を上陸させる。だが上陸の形跡はなく、連絡員20名はそのまま現地に残され、その後救出されることなく行方不明となった。「弥生」は9月4日にミルン湾へ進入し、糧食の揚陸と重傷者の収容にあたった後、ラビからの撤収作業に従事する。9月9日、ようやく月岡部隊がグッドイナフ島にいることが判明する。彼らは敵機の攻撃で大発をすべて失い、通信も途絶していた。9月10日、「弥生」は僚艦「磯風」とともに、その救援へ向かうことになる。
タウポタに残された連絡員20名は、結局最後まで救出されなかった。この事実は、「弥生」がどれほど誠実に任務を遂行しても、戦場という混沌の中では、すべての味方を見つけ出し救うことはできないという、駆逐艦にとって最も重い限界を物語っている。
1942年9月11日、グッドイナフ島の月岡部隊救援に向かっていた「弥生」は、ノーマンビー島東方で米陸軍のB-17とオーストラリア空軍のハドソン哨戒機、合わせて約10機の空襲を受けた。午後3時35分、後部への被弾で舵が故障。10分後の3時45分、再び被弾して航行不能となる。午後4時15分、「弥生」は沈没した。戦闘中に「弥生」とはぐれてしまっていた僚艦「磯風」は、日没後の午後4時40分頃に救出へ向かったが、見つかったのは油らしきものだけだった。翌日「天龍」「浜風」による捜索も、成果を得られなかった。
だが「弥生」の乗組員たちは生きていた。艦長・梶本顗少佐以下の生存者は、カッターボートに乗り込みノーマンビー島へ自力で上陸し、現地のタロ芋を調達して飢えをしのいでいた。9月21日、「弥生」のものと思われるカッター(10名乗艦)が戦闘機によって発見され、「磯風」「望月」と水上偵察機による捜索の末、「磯風」に収容される。だがノーマンビー島本体に残る乗組員との接触は、敵の上陸により森林への退避を余儀なくされていたため、この時点ではまだ失敗に終わった。9月23日、陸攻機がノーマンビー島で「弥生」生存者らしき姿を発見。9月25日夜、「磯風」「望月」が再出撃し、26日深夜、梶本艦長以下83名の救出をついに成し遂げた。「弥生」の戦死者は68名。第30駆逐隊司令もこの海戦で戦死している。
タロ芋を掘り、森に隠れ、それでも15日間、部下たちと生き延びた
この艦長・梶本顗少佐は、後に夕雲型駆逐艦「清霜」の艦長となり、そこでも僚艦に救助されて生還する
——佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編』217-219頁より
「弥生」の本質は、僚艦を救い、僚艦に救われるという駆逐艦の営みを、これ以上ないほど濃密な形で体現した艦だった、という一点にある。ウェーク島で「如月」の喪失を目撃し、ガダルカナルでは「睦月」の生存者を受け入れて自らが司令艦となり、そして最後は自らが沈み、僚艦「磯風」「望月」に救われる側になった。この循環——救う側と救われる側の入れ替わり——こそが、太平洋戦争における駆逐艦という艦種の本質そのものだった。
しかし「弥生」の物語は美談だけでは終わらない。タウポタに残された連絡員20名は最後まで発見されず、行方不明のままとなった。艦長・梶本顗以下83名が生還した一方で、68名の乗組員と、第30駆逐隊司令が命を落とした。救助の成功と失敗が同じ作戦の中に同居していたという事実は、戦争というものが決して単純な美談で片付けられないことを物語っている。
それでも「弥生」が残したものは確かにある。タロ芋で15日間を生き延びた梶本顗という一人の艦長は、後に夕雲型駆逐艦「清霜」の艦長として再び戦場に立ち、そこでもまた僚艦「霞」「朝霜」に救助されて生還することになる。一人の男が、2度の駆逐艦沈没を生き延びたというこの事実は、偶然以上の重みを持つ。派手な戦果を持たない艦だからこそ、私たちに「生き延びること」そのものの尊さを静かに教えてくれる。猫工艦は、「弥生」と、その後も戦い続けた梶本顗という一人の艦長に、深い敬意を捧げたい。
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第2水雷戦隊戦時日誌・外南洋部隊増援部隊戦闘詳報・第18戦隊戦時日誌戦闘詳報
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書49巻『南東方面海軍作戦(1) ガ島奪還作戦開始まで』、戦史叢書62巻関連巻
- ・佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』光人社NF文庫、1995年
- ・門司親徳『空と海の涯で―第一航空艦隊副官の回想』光人社、2012年
- ・田村俊夫「「睦月」型駆逐艦の戦時兵装の変遷と行動」『睦月型駆逐艦 真実の艦艇史4』歴史群像太平洋戦史シリーズ64、学研、2008年
- ・奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』学習研究社、2001年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・Wikipedia「弥生 (睦月型駆逐艦)」「睦月型駆逐艦」「第二次ソロモン海戦」「ラビの戦い」
- → 皐月——クラ湾夜戦を戦い、片脚を失っても指揮を続けた艦長を戴いた同型艦