「重巡4隻を屠った盾」——ルンガ沖夜戦でたった1隻、米艦隊の猛砲火を引き受けた夕雲型6番艦「高波」の全記録

1942年11月30日21時16分、ガダルカナル島タサファロング沖。前方警戒のため単艦で先行していた駆逐艦「高波」が、米第67任務部隊——重巡4隻・軽巡1隻・駆逐艦6隻——を発見した。「敵駆逐艦七隻見ユ」。この報告を受け、指揮官・田中頼三少将は全軍突撃を下令する。しかし高波は、輸送隊本隊から一足先に飛び出していたがゆえに、米巡洋艦部隊の猛烈な砲撃を一身に浴びることになった。50発以上の砲弾が降り注ぎ、艦橋もろとも爆発、炎上。それでも高波は主砲と魚雷を撃ち続け、その燃え盛る姿は、闇の中で米艦隊の位置を僚艦たちに教える「灯台」となった。

夕雲型6番艦として1942年8月に竣工した「高波」は、わずか3ヶ月の艦歴しか持たない艦だった。しかしこの短い生涯の中で、日本海軍屈指の夜戦での大戦果——重巡1隻撃沈、3隻撃破——という記録に、決定的な役割を果たしている。高波が敵の集中砲火を引き受けている間に、僚艦たちは態勢を立て直し、必殺の酸素魚雷を斉射した。米海軍が夕雲型全体を「高波級(Takanami Class)」と呼称したのは、この一隻の艦がそれだけ強烈な印象を刻みつけた証でもある。

そして——高波自身は、この戦果と引き換えに沈んだ。乗員255名のうち、生き延びたのはわずか33名。艦長は砲撃戦の最中に致命傷を負い、司令は爆発後行方不明となった。「高波が一艦で敵の攻撃を引き受けたため、他の駆逐隊が態勢を立て直し、夜戦能力を発揮できた」——戦史叢書はこの海戦をそう総括している。

建造所・起工
浦賀船渠
仮称第121号艦
進水・竣工
1942年3月16日進水
1942年8月31日竣工
基準排水量・全長
2,077トン
119.3m
最大速力・出力
35.0ノット
52,000馬力
主砲
50口径12.7cmD型連装砲
3基6門(対空仰角75度)
魚雷
61cm4連装発射管2基
九三式酸素魚雷
所属駆逐隊
第三十一駆逐隊(司令艦)
(長波・巻波)
特筆データ
米側呼称「高波級」の由来艦
米重巡4隻撃沈・撃破に貢献
最終結果
1942年11月30日 戦没
竣工からわずか3ヶ月

「高波」は浦賀船渠で仮称第121号艦として建造された。1941年の段階では、日米開戦がなければ第六航空戦隊(特設空母3隻護衛)に配属される予定だったという。1942年1月20日、正式に「高波」と命名され夕雲型駆逐艦に類別された。3月16日、横須賀鎮守府長官・平田昇中将立ち会いのもと進水。7月25日、朝潮型「山雲」艦長を兼務していた小野四郎少佐が艤装員長に任命されるが、8月20日、白露型「満」艦長だった小倉正身中佐に交代する。8月31日、高波は竣工し、小倉中佐が正式な初代艦長となった。

竣工からわずか1ヶ月足らずの訓練期間を経て、高波は輸送船「波上丸」「加茂丸」を護衛し、大分県佐伯からラバウルへ向かう。第38師団のラバウル緊急輸送「沖輸送」の第一陣だった。しかし10月7日、ラバウル到着まであと数時間という地点で、輸送船「波上丸」が米潜水艦「スカルピン」の雷撃を受け沈没する。高波は直ちに爆雷を投射しスカルピンに損傷を与えたが、撃沈には至らなかった。ほろ苦い初陣だった。10月1日、高波は第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将)麾下の第三十一駆逐隊に編入され、僚艦「長波」「巻波」と合流。ただちにガダルカナル島の戦いに投入されることになる。

■ 「高波」の全戦歴ハイライト ■
【1942年10月7日】:初陣、護衛の輸送船「波上丸」が被雷沈没
【1942年10月13日】:金剛・榛名によるヘンダーソン基地砲撃を護衛、大成功
【1942年11月6日】:甲増援隊としてタサファロング輸送、空襲下で軽傷者
【1942年11月30日21時16分】:ルンガ沖夜戦、米艦隊を発見・単艦で集中砲火を受ける
【同日】:戦没。乗員255名中、生存わずか33名
【1943年9月15日】:連合艦隊司令長官より増援部隊へ感状
エピソード① ヘンダーソン基地砲撃——918発の咆哮

1942年10月13日深夜、高波たち第三十一駆逐隊は、戦艦「金剛」「榛名」によるヘンダーソン飛行場艦砲射撃を護衛する任務についた。二航戦の零戦の傘の下、挺身攻撃隊はガ島沖へ高速で突入。サボ島南水道を通過後、速力を18ノットに落として射撃態勢に入る。米艦隊との遭遇はなかったが、高波たち警戒隊は金剛・榛名に先行する形でツラギ側に布陣し、警戒を続けた。23時36分、金剛が、続いて榛名が砲撃を開始。三式弾・零式弾・一式弾、合計918発がヘンダーソン飛行場に叩き込まれ、飛行場は火の海となった。陸上の米軍砲台やルンガ方面の反撃はいずれも射程が届かず、高波たち警戒隊にも被害はなかった。深夜に米魚雷艇の襲撃もあったが、これは僚艦「長波」が単独で排除している。挺身攻撃隊は砲撃終了後、無事に本隊へ帰投した。この日の砲撃は、日本軍のガダルカナル方面作戦における数少ない完全な成功例の一つとなった。

エピソード② ルンガ沖夜戦——単艦で受け止めた集中砲火

1942年11月6日深夜、高波を含む甲増援隊(第15駆逐隊〈親・早・陽炎〉、第24駆逐隊〈海風・江風・涼風〉、第31駆逐隊〈巻波・高波・長波〉、第10駆逐隊〈夕雲・風雲〉)がショートランドを出撃した。途中B-17の空襲を受け、高波は軽傷者1名、長波は負傷者16名を出したが、輸送隊は深夜にタサファロング沖に到着し、糧食を降ろして傷病兵と便乗者を収容し帰投した。11月12日には、第38師団の将兵を乗せた輸送船11隻と共に、増援部隊がショートランドを出撃する。しかし同日夜からの第三次ソロモン海戦第一夜戦、翌日昼間の空襲で戦艦「比叡」駆逐艦「暁」「夕立」の3隻が失われ、ヘンダーソン飛行場砲撃計画そのものが中止されたことを受け、輸送船団は命令によりショートランド泊地へ一旦引き返している。

1942年11月29日深夜、田中頼三少将率いる第一次ガダルカナル島増援部隊——駆逐艦8隻——がショートランド泊地を出撃した。旗艦「長波」と「高波」からなる警戒隊、第15駆逐隊(黒潮・親・陽炎)と「巻波」からなる第一輸送隊、第24駆逐隊(江風・涼風)からなる第二輸送隊。長波と高波を除く6隻の甲板には、ドラム缶が所狭しと積み込まれていた。物資搭載の代償として、予備魚雷8本は陸揚げされていた。高波もまた、ショートランドで予備魚雷を降ろしており、発射管に装填された8本以外に次発装填はできない状態だった。

11月30日夜、輸送隊はガダルカナル島タサファロング沖に接近する。月齢21.4、視程約8000メートル、小雨がぱらつく生憎の空模様だった。20時頃、高波は前路警戒のため艦隊から分離し、単艦で先行を開始する。21時12分、高波は「100度方向ニ敵ラシキ艦影見ユ」と報告。1分後、「黒潮」も敵艦影を発見した。輸送隊は警戒しつつもドラム缶投入の準備を続けていた。21時15分、高波は「敵駆逐艦七隻見ユ」と改めて報告。これを受け田中少将は21時16分、「揚陸止メ、全軍突撃セヨ」を下令した。ルンガ沖夜戦(米側呼称タサファロンガ海戦)の始まりである。

■ 「単艦先行」は命令だったのか
この海戦を紹介する多くの書籍では「高波は指揮官から先行を命じられた」と語られることが多い。しかし第二水雷戦隊戦闘詳報や乗組員の回想記録を精査しても、そうした命令の記載は見当たらないという指摘もある。計画上、高波は陸岸から5,000〜3,000メートルの海域を「長波」と共に哨戒する予定だったが、長波が輸送隊と共に陸岸近くまで踏み込んでから舵を切ったのに対し、高波はやや早い段階で変針している。第三十一駆逐隊司令が座乗する司令駆逐艦としての独断だったのか、あるいは単なる判断のズレだったのか——真相は今も定かではない。しかしこの僅かな変針の差が、結果として高波の運命を大きく左右することになった。
■ 11月30日夜、タサファロング沖の時系列 ■
20:00
高波、前路警戒のため単艦で先行
21:12
高波、米第67任務部隊を発見・報告
21:16
田中少将「揚陸止メ、全軍突撃セヨ」を下令
直後
米駆逐艦の魚雷20本、高波の艦底を通過するも命中せず。米巡洋艦5隻の猛砲撃が高波に集中
数分後
50発以上の砲弾を受け艦橋もろとも爆発・炎上、航行不能に。それでも主砲・魚雷で反撃
21:28まで
炎上する高波を目印に、二水戦各艦が九三式酸素魚雷を斉射
■ 炎が「灯台」になった——酸素魚雷の猛威
高波が敵の攻撃を一身に受けている間、態勢を立て直した二水戦各艦は、炎上する高波を明かり代わりに、次々と酸素魚雷を発射した。旗艦「ミネアポリス」は艦首に2本被雷し大破。「ニューオリンズ」は左舷前部への被雷で弾薬庫が誘爆、艦首を失う大損害。「ペンサコラ」は艦橋直下に被雷し大火災。「ノーザンプトン」は左舷後部に2本被雷し、そのまま沈没した。重巡1隻撃沈、3隻撃破——この夜戦は、日本海軍の酸素魚雷の威力を世界に示した戦いとして記憶されることになる。つまりどういうことか——高波の犠牲は、この歴史的な戦果と表裏一体のものだった。
エピソード③ 「灯台」の代償——33名の生存者

戦闘終了後、残敵掃討のために戦場に舞い戻った米駆逐艦が、航行不能となっていた高波に魚雷を発射する。この1本が命中し、搭載していた爆雷が誘爆した。艦から脱出し海に飛び込んでいた約100名の乗組員は、この爆発の衝撃波で次々と圧死する。さらに高波から流出していた重油に引火し、大火災が発生。多くの乗員がこの炎に巻き込まれた。最終的にガダルカナル島の日本軍基地にたどり着いた生存者は、准士官以上4名、下士官兵29名の、わずか33名にすぎなかった。艦長・小倉正身中佐は砲撃戦の最中に右半身に致命傷を負い戦死。脱出を指揮していた第三十一駆逐隊司令・清水利夫大佐は、爆発後行方不明となった。

この海戦は、艦隊戦としては日本側の圧倒的な勝利だったが、輸送作戦そのものは完全な失敗に終わった。特に指揮官・田中頼三少将への批判は大きく、後の左遷の一因になったとも言われる。増援部隊旗艦「長波」が真っ先に避退したことに対し、「高波を囮同然にした挙句、長波が先に帰ってしまった」という反発の声も上がったという。それでも戦史叢書は、この海戦における勝利の要因を「高波が一艦で敵の攻撃を引き受けたため、他の駆逐隊が態勢を立て直し夜戦能力を発揮できたから」と総括している。1943年9月15日、連合艦隊司令長官はルンガ沖夜戦の勝利を讃え、増援部隊に感状を授与した。

猫工艦の考察

高波の本質は、竣工からわずか3ヶ月という短い艦歴の中で、日本海軍史に残る夜戦の勝敗を決定づけた「盾」としての役割を果たしたという点にある。単艦での先行が、指揮官の命令によるものだったのか、高波自身の独断・錯誤だったのかは、今なお議論が分かれている。しかし結果として、この位置取りが高波を集中砲火の的にし、同時に僚艦たちに態勢を立て直す時間を与えた。米海軍が夕雲型全体を「高波級」と呼んだという事実こそ、この一隻がどれほど強い印象を敵に刻みつけたかを物語っている。

しかし、その戦果の代償はあまりにも大きかった。255名のうち生存者はわずか33名。艦長は戦死、司令は行方不明。輸送任務そのものも失敗し、司令官は批判にさらされることになった。「艦隊戦の勝利」と「輸送作戦の失敗」、そして「戦果への貢献」と「乗員の壊滅的損失」——高波の艦歴は、この矛盾した結果を一身に体現している。

高波が残したものは何か。それは、たった一隻の駆逐艦が、艦隊全体の運命を左右し得るという事実の証明である。米重巡「ノーザンプトン」を沈め、3隻を撃破するという戦果の陰には、高波が引き受けた集中砲火と、そこで失われた222名の命があった。猫工艦は、竣工からわずか91日でその生涯を終えた高波の乗員たちに、深い敬意を表したい。

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重巡4隻を屠った盾——「高波」の意志を、その身に纏え

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■ 参考文献・資料

  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書83『南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで』朝雲新聞社、1975年
  • ・アジア歴史資料センター(JACAR)高波関連公文書・第二水雷戦隊戦闘詳報第14号
  • ・半藤一利『ルンガ沖夜戦』朝日ソノラマ〈航空戦史シリーズ41〉、1984年
  • ・江田高市「ルンガ沖夜戦」回想記録
  • ・ラッセル・クレンショウ著、岡部いさく・岩重多四郎訳『ルンガ沖の閃光』
  • ・『歴史群像』編集部『水雷戦隊II 陽炎型駆逐艦』学習研究社〈歴史群像太平洋戦史シリーズ19〉、1998年
  • ・山本平弥ほか『秋月型駆逐艦<付・夕雲型・島風・丁型>』潮書房光人社、2015年
  • ・Wikipedia「高波 (駆逐艦)」「夕雲型駆逐艦」「ルンガ沖夜戦」「タサファロンガ岬」
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