1944年12月11日午後10時30分、レイテ島オルモック湾。空襲で輸送船2隻を失った「卯月」は、駆潜艇に救助と護衛を任せ、単独で湾内へと向かった。それきり、艦からの消息は途絶えた。米側の記録によれば、翌12日、レーダーで捕捉した魚雷艇PT-490とPT-492が「卯月」に魚雷2本を撃ち込んだ。艦は轟沈した。艦長・渡邊芳郎少佐以下170名が戦死し、59名が生還したと伝わる。翌13日には僚艦「夕月」も沈没し、こうして睦月型駆逐艦12隻は、太平洋戦争において全て失われることになった。
「卯月」は睦月型駆逐艦の4番艦として、東京・石川島造船所で1924年1月11日に起工、1926年9月14日に竣工した。「睦月」「如月」「弥生」とともに第30駆逐隊を編成し、太平洋戦争のほぼ全期間、地道な輸送・護衛任務を担い続けた「卯月」は、竣工から18年を経て、睦月型全体の物語を締めくくる最後の1隻となった。
その艦歴には、幾多の僚艦の最期を見届けてきた記憶が刻まれている。重巡「加古」の生存者650名を救助し、「望月」を見送り、「皐月」の喪失を知り、「秋風」が沈む様を目の当たりにした。「卯月」自身もまた、最後には誰にも見届けられないまま、単独で海に消えていった。
→改修後1,445t
竣工した「卯月」は佐世保鎮守府に所属し、1930年11月には「睦月」「如月」「弥生」とともに、昭和天皇の御召艦「霧島」の供奉艦を務めた。1937年からの支那事変では中支・南支方面に進出し、仏印進駐作戦にも参加。太平洋戦争開戦時は第23駆逐隊(卯月・菊月・夕月)に所属し、グアム島攻略戦、ラバウル・ラエ・サラモア攻略戦を経て、1942年5月4日のツラギ空襲では僚艦「菊月」が失われる。「卯月」は代わってナウル・オーシャン攻略部隊に編制替えされたが、この作戦は敷設艦「沖島」の喪失もあって中止された。5月25日、第23駆逐隊は解隊され、「卯月」は「睦月」「弥生」「望月」の第30駆逐隊に編入される。
1942年8月10日、米潜水艦の雷撃で沈没した重巡「加古」の乗員救助に出動した「卯月」は、11日早朝にシンベリ島へ到着し、乗員650名を救出した。8月25日、「卯月」はガダルカナル島で空襲を受け損傷、同日「睦月」が第二次ソロモン海戦で沈没する。9月にはラビの戦いで「弥生」も失われ、10月には睦月型の艦艇類別が「卯月型」に改称される事態にまでなった——皮肉にも「卯月」の名が、この艦型の代名詞になりかけた瞬間だった。12月1日、第30駆逐隊は解隊された。
1942年12月25日夕、輸送船「南海丸」を護衛してコロンバンガラ島へ向かっていた「卯月」は、米潜水艦の雷撃を受け大破した「南海丸」を避退させようとした際、その船体と衝突してしまう。「卯月」は左舷中部に直径5mの大破孔を負い、缶室が浸水、舵も故障して航行不能となった。ラバウルから「長波」「有明」「谷風」「浦風」の4隻が救援に向かい、「卯月」は「有明」に曳航される。
だが翌26日朝、曳航中の「有明」がB-24爆撃機の空襲を受け至近弾で損傷、戦死28名・戦傷40名という大きな被害を出してしまう。曳航の役目は「浦風」へと引き継がれ、「長波」がその護衛につき、ようやく「卯月」はラバウルへ帰り着いた。1943年1月5日にはラバウルで再び爆撃を受けさらに損傷し、工作艦「明石」の支援で応急修理を受けている。1隻の駆逐艦が動けなくなると、そこから連鎖的に複数の艦が危険にさらされる——この年末年始の一連の出来事は、駆逐艦同士の助け合いがはらむリスクを、如実に物語っていた。
「卯月」を救おうとした「有明」自身が空襲で大きな被害を受けたという事実は、駆逐艦の救援活動そのものが、常に新たな危険を呼び込みかねないという現実を物語っている。それでも艦隊は曳航役を交代させながら、最後まで「卯月」を見捨てなかった。
1943年10月23日、「卯月」は「望月」とともにニューブリテン島ジャキノットへ陸戦隊約100名を輸送するためラバウルを出撃した。揚陸中に敵機の攻撃を受け、「望月」が沈没する。「卯月」は揚陸を断念し、「望月」の生存者を収容してラバウルへ戻った。この8日後の10月31日には、ブカ島輸送に向かった「卯月」自身が、メリル少将率いる米艦隊(巡洋艦4隻、駆逐艦8隻)による砲撃圏内に入り、小破孔3箇所を生じている。
さらに11月25日、ブカ島輸送からの帰路についていた「大波」「巻波」「夕霧」がアーレイ・バーク大佐率いる米駆逐部隊の奇襲を受け、3隻とも沈没するというセント・ジョージ岬沖海戦が起きる。「卯月」は避退中に砲撃を受け損傷したが、僚艦「天霧」とともに、なんとか早朝のラバウルへたどり着いた。この頃の「卯月」は、次々と沈んでいく僚艦たちを見送りながら、自らも生き延びるという綱渡りを繰り返していた。
「大波」「巻波」「夕霧」が一度に失われた海戦で、「卯月」だけが生き延びたという事実は、単なる幸運では片付けられない。だがこの「生き延びた」という経験の蓄積こそが、後に「卯月」が睦月型最後の1隻として、この艦型の物語を締めくくる立場に立たされる伏線でもあった。
1944年に入ると「卯月」は「夕月」と行動を共にすることが多くなる。6月のマリアナ沖海戦では、炎上したタンカー「玄洋丸」から燃料補給と乗員収容を受けた後、主砲でこれを処分した。9月18日には特設巡洋艦「西貢丸」が米潜水艦「フラッシャー」に撃沈される中、生存者の捜索と爆雷攻撃にあたっている。9月21日には、僚艦「皐月」がマニラ湾で空襲を受け戦没した。11月3日には、空母「隼鷹」を護衛していた「秋風」が、本来「隼鷹」に向けられた魚雷を受けて轟沈するのを、「卯月」は目の当たりにした。この時「卯月」は護衛を続行し、「夕月」が秋風生存者の捜索にあたっている。
1944年12月9日、「卯月」「夕月」は駆逐艦「桐」らとともに、兵員4,400名を輸送する第九次多号作戦のためマニラを出港した。12月11日、レイテ島北で空襲を受け、輸送船「たすまにや丸」「美濃丸」が沈没する。「卯月」は駆潜艇2隻とともに救助と輸送船「空知丸」の護衛にあたった後、同日午後10時30分、単独でオルモック湾へ向かい、そのまま消息不明となった。
米側の記録によれば、翌12日、米魚雷艇PT-490(艇長ジョン・マッケルフレッシュ大尉)とPT-492(艇長メルビン・ヘイズ予備大尉)がレーダーで「卯月」を捕捉し、魚雷を発射した。魚雷2本が命中し、「卯月」は轟沈した。艦長・渡邊芳郎少佐以下170名が戦死し、同日付で渡邊少佐は海軍中佐に昇進した。生還者は59名と記録されている。翌13日、僚艦「夕月」もシブヤン海で沈没し、この2隻の戦没によって、睦月型駆逐艦12隻は太平洋戦争において全て失われることになった。
「卯月」の本質は、竣工から18年、太平洋戦争のほぼ全期間を生き延び続けた「最後の生存者」でありながら、その物語の終幕を誰にも見届けられないまま迎えた、という一点にある。重巡「加古」の650名を救い、「望月」の生存者を収容し、幾多の海戦を生き延びてきた「卯月」は、睦月型19隻——いや12隻の中で最も長くその名を保ち続けた艦の1隻だった。
しかし「卯月」の最期は、そのような重みとは裏腹に、静かで孤独なものだった。単独でオルモック湾へ向かい、そのまま消息を絶ち、日本側の記録には「爾後消息ナシ」の一文が残るのみである。私たちがその最期の詳細を知るのは、皮肉にも撃沈した側であるアメリカ軍の記録によってだった。これほど多くの僚艦の最期を見届けてきた艦が、自らの最期は誰にも見届けられなかったという事実は、戦争が奪うものの中に、時に「記録される権利」さえも含まれることを物語っている。
それでも「卯月」が残したものは確かにある。「卯月」と「夕月」、この2隻の戦没によって、日本駆逐艦として初めて61cm魚雷を搭載し「並型駆逐艦の完成形」と呼ばれた睦月型12隻は、生存者ゼロという記録を完結させた。派手な戦果を持たない艦だからこそ、私たちに1つの艦型が辿った長い戦争の全貌——1番艦「睦月」の戦没から、最後の「卯月」「夕月」の喪失まで——を、静かに語り継いでくれる。猫工艦は、睦月型を最後まで見届けた「卯月」と、渡邊芳郎少佐以下170名の乗組員、そして睦月型12隻すべてに、深い敬意を捧げたい。
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加古の650名を救い、睦月型を最後まで見届けた駆逐艦——「卯月」の記録を、その身に纏え
「爾後消息ナシ——記録される権利さえ奪われた、最後の1隻」
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第30駆逐隊戦時日誌戦闘詳報・第三水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報・軍艦加古戦闘詳報
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書46『海上護衛戦』、戦史叢書96『南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』関連巻
- ・浅田博、高城直一『海防艦三宅戦記 輸送船団を護衛せよ』光人社NF文庫、2013年
- ・ブライアン・クーパー(実松譲訳)『高速魚雷艇 PT Boat』サンケイ新聞社出版局、1972年
- ・淵田美津雄、奥宮正武『機動部隊』朝日ソノラマ、1992年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫、1993年
- ・Wikipedia「卯月 (睦月型駆逐艦)」「睦月型駆逐艦」「多号作戦」「セント・ジョージ岬沖海戦」
- → 峯風型・野風型駆逐艦——「秋風」が編入された艦型の全記録