1942年12月11日の夜、ガダルカナル島北岸、サボ島の沖。ドラム缶輸送の帰路についていた第二水雷戦隊の旗艦「照月」の左舷後部を、米軍魚雷艇の放った魚雷2本が貫いた。舵と左舷の主機が止まり、燃料と弾薬が燃え広がる。第二水雷戦隊司令官の田中頼三少将は足に傷を負って僚艦へ移り、艦長の折田常雄中佐は、艦を自沈させる決断を下した。12日午前2時40分、「照月」は海に沈んだ。
「照月」は、秋月型駆逐艦の2番艦である。三菱重工業長崎造船所で1941年11月21日に進水し、1942年8月31日に竣工した。日本海軍が初めて防空を主任務に据えた駆逐艦の2隻目であり、1番艦「秋月」とは第61駆逐隊を組んだ。ところが、竣工から沈没までは、わずか3か月と12日しかない。
その短い艦歴のなかで、「照月」は南太平洋海戦で空母を護り、第三次ソロモン海戦では沈みゆく戦艦「比叡」の乗員と、「霧島」の乗員を救った。そして2025年7月、艦は83年ぶりに、水深800メートルを超える海底で見つかった。新鋭艦が駆け抜けた103日間を、この記事は辿る。
秋月型は、艦隊の防空を主任務とする乙型駆逐艦で、基本計画番号はF51である。1941年10月25日、「照月」は達第328号で命名され、同日に秋月型へ類別された。起工は1940年11月13日、場所は武蔵の進水後の船台とされる。艤装員長には、浜風の初代駆逐艦長を務めた折田常雄中佐が、1942年7月20日に任命された。
1942年8月31日の竣工後、「照月」は佐世保から回航され、9月6日に出港して8日に横須賀へ着く。残工事は9月30日に終わった。10月7日、「秋月」とともに第61駆逐隊を編成し、第三艦隊と第十戦隊に編入される。同じ駆逐隊ではあったが、「秋月」と行動を共にする機会は少なかった。
10月10日に横須賀を出た「照月」は、14日にトラックへ着く。22日から23日にかけて重巡「筑摩」とともに艦隊から分かれ、南雲機動部隊の南方を捜索したが、米艦隊は見つからなかった。
26日の南太平洋海戦では、第一航空戦隊の翔鶴・瑞鶴・瑞鳳を護る直衛艦の一隻として、翔鶴の対空戦闘に加わった。この戦闘で至近弾を受けて軽く損傷し、戦死は7名とされる。南雲長官が移乗する予定だった照月が不在だったため、移乗先は嵐に変更されている。29日にトラックへ戻り、工作艦「明石」の修理を受けている。
損傷の原因は、戦史叢書が空襲による至近弾、英語版Wikipediaが急降下爆撃機の至近弾と、その夜の米飛行艇の爆弾としている。照月の主計長は、損傷は空襲中ではなく、夜間の飛行艇の爆撃によるものと回想した。戦死7名は日本語版Wikipediaも日本の軍艦(japanese-warship.com)も一致するが、負傷者数は後者が36名と記す。つまり、新鋭艦が空母護衛で初めて受けた傷の原因は、いまも1つに決まっていない。
11月9日、「照月」は阿部弘毅少将が指揮する挺身攻撃隊に加わり、トラックを出撃した。12日から13日にかけての第三次ソロモン海戦第一夜戦では、10cm砲を160発、25mm機銃を200発撃っている。戦闘概報は、駆逐艦1隻撃沈を報告したが、これは検証できない。
13日の朝、「照月」は舵が故障して動けない戦艦「比叡」に合流した。日の出後の米軍機の攻撃では、雪風、時津風などと対空戦闘にあたる。比叡の操舵の補助は成功せず、「照月」は比叡の乗員約70〜80名を収容した。比叡は放棄された。
14日から15日の夜には、近藤中将の前進部隊の一隻として、戦艦「サウスダコタ」を砲撃した。そして戦艦「霧島」が米戦艦「ワシントン」の砲撃で航行不能になると、「照月」は「朝雲」「五月雨」とともに救助にあたる。接舷が遅れ、霧島乗員の大半と御真影は朝雲へ移ったが、「照月」自身は霧島の沈降に巻き込まれそうになりながら離れた。3隻で救助された人数は、准士官以上69名、下士官兵1,031名とされる。
霧島の救助人数は、日本語版Wikipediaが3隻合計で1,100名(准士官以上69名、下士官兵1,031名)、英語版Wikipediaが1,128名と記す。比叡の収容人数も、前者は約70〜80名、日本の軍艦(japanese-warship.com)は70名から100名超とする。つまり、2隻の戦艦の最期に「照月」が立ち会い、乗員を救ったことは確かだが、人数は資料により揺れている。
12月3日、トラックを出た直後に座礁してスクリューを傷めた「照月」は、修理を済ませて5日に再出撃した。7日にショートランドへ進出すると、第二水雷戦隊司令部が乗艦し、「照月」は田中頼三少将の旗艦になる。田中は、11月30日のルンガ沖夜戦で、駆逐艦8隻を率いて米重巡4隻に打撃を与えた司令官である。
11日、第四次ドラム缶輸送が出撃した。「照月」は警戒隊に属する。夕刻前に米軍機の攻撃を受けたが、損傷はなかった。約23時、米軍魚雷艇の魚雷2本が、左舷後部に命中する。艦内の誰も、魚雷艇を見ていなかった。舵と左舷の主機が使えなくなり、燃料と弾薬に火がついて、炎は広がっていく。
約30分後、足を負傷した田中少将と司令部員は、駆逐艦「長波」へ移った。第4駆逐隊司令の有賀幸作大佐が指揮する「嵐」が「照月」に接舷し、救助と消火にあたる。折田艦長は、艦を救えないと判断し、機関長にキングストン弁を開いて自沈させるよう命じた。魚雷艇の再襲撃の危険も、その背景にあったと伝えられる。
沈没の時刻は、日本語版Wikipediaが午前2時40分、英語版Wikipediaが午前4時40分(爆雷弾薬庫の誘爆)と記す。攻撃した魚雷艇も、日本語版はPT37・PT40・PT48の3隻に、後からPT44とPT110が加わったとし、英語版は資料により、PT-40・PT-45・PT-59、PT-37・PT-40・PT-48、PT-37・PT-40の3系統を挙げて、2〜3隻と記す。救助された人数は、日本語版が嵐に乗員138名と司令部員27名、英語版が長波と嵐で197名とし、ガダルカナル島のカミンボ岬に上陸した156名は一致する。戦死者は、米研究団体の発表が9名、日本の報道が約10名である。つまり、魚雷艇2本で旗艦が失われ、乗員の大半が生還したことは確かだが、時刻と人数の細部は資料により揺れている。
折田艦長以下156名(准士官以上17名、下士官兵139名)はボートでカミンボ岬に上陸し、のちに潜水艦(伊19・伊20・伊21・伊31・伊168など)に便乗してガダルカナル島を離れた。「照月」の除籍は、日本語版Wikipediaによると1943年1月20日である。田中少将は、この戦闘を最後に、前線の艦隊指揮を離れた。
2025年7月、米国のオーシャン・エクスプロレーション・トラストは、E/Vノーチラスによる調査で、「照月」の沈没船を発見したと発表した。水深は800メートルを超え、前部の砲塔は上を向いたまま、魚雷で切断された長さ約19メートルの艦尾部が、船体から200メートル以上離れた場所で見つかった。京都大学の研究者も調査に加わっている。発見日は、発表文書が7月12日付で、資料により7月10日、11日とも記される。
「照月」の本質は、竣工から103日という短さのなかに、南太平洋海戦、2隻の戦艦の最期、そして旗艦としての最期までを詰め込んだという一点にある。新鋭の防空艦は、空母の護衛から戦艦の救助、輸送の警戒まで、戦局が日本に不利に傾く最も重い局面を、立て続けに引き受けた。
皮肉なのは、空の脅威に備えて作られた艦が、夜の海面を走る小さな魚雷艇の魚雷2本で倒れたことだ。ただし、その夜の時刻、攻撃した魚雷艇の数、救助された人数は、資料により一致せず、本記事は一つに決めていない。わかっていることとわからないことを分けて書くことが、この艦の記憶に対する誠実さだと考えた。
戦死者は、9名とも約10名とも記される。多くの乗員は生き延びたが、それでも、艦とともに海に残った人々がいる。2025年に見つかった艦は、前部の砲塔を空に向けたまま、いまも海底に眠っている。猫工艦は、秋月型2番艦「照月」と、サボ島沖の夜に命を落とした乗組員たちに、深い敬意を表したい。
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竣工から103日、戦艦の最期に立ち会い、旗艦として沈んだ駆逐艦——「照月」の記録を、その身に纏え
「83年ぶりに見つかった、砲塔を空へ向ける姿」
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■ 参考文献・資料
- ・片桐大自『帝国海軍全艦艇史』ベストセラーズ
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書 各巻 朝雲新聞社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考
- ・Wikipedia「照月 (駆逐艦)」「秋月型駆逐艦」、English Wikipedia “Japanese destroyer Teruzuki (1941)”、日本の軍艦(japanese-warship.com)「照月」、Ocean Exploration Trust プレスリリース “IJN Destroyer Teruzuki Found”(2025年7月12日)、National Geographic “A new expedition to Guadalcanal reveals WWII shipwrecks for the first time”