1944年11月5日、マニラ湾。空襲で大破炎上した姉妹艦「曙」のもとへ、駆逐艦「潮」は迷わず駆けつけた。消火活動を行い、なおも沈みかける曙を、潮は浅瀬まで曳航して擱座させた。沈めるのではなく、座らせる——それは、敵との戦闘ではなく、僚艦を守るための、地味だが決定的な判断だった。
吹雪型駆逐艦20番艦・潮は、第7駆逐隊(潮・曙・朧・漣)の中で、最後まで生き延びた艦である。朧は1942年10月に、漣は1944年1月に、曙は1944年11月に、それぞれ戦没または大破着底した。潮だけが、終戦の日までその船体を保ち続けた。
そして——その潮の最期は、撃沈でも轟沈でもなかった。1945年6月、主機の損傷により予備艦に指定され、行動不能のまま横須賀に係留され続けた末に、終戦を迎えた。特型駆逐艦24隻のうち、戦争を生き延びた艦はごくわずかしかない。潮は、その数少ない一艦だった。
1929年12月24日
1931年11月14日 竣工
34.0kt
(朧型・特II型10番艦)
3基6門
9射線
(潮・曙・朧・漣)
唯一終戦まで生存
予備艦指定、行動不能のまま終戦
ワシントン海軍軍縮条約による主力艦保有制限の中、補助艦艇の戦力強化を目的に建造された一等駆逐艦。凌波性能を追求した船形、密閉式艦橋による居住性改善、重武装(12.7cm連装砲3基、61cm魚雷9射線)により、当時の列強海軍に衝撃を与えた。潮は浦賀船渠で建造され、吹雪型後期型「朧型」8隻(朧・曙・潮・漣・響・雷・電・暁)の一艦として竣工した。日本海軍の艦船としては神風型駆逐艦(初代)「潮」に続いて2代目にあたる。
潮は1929年12月24日、浦賀船渠で起工した。1930年11月17日に進水、1931年11月14日に竣工。一等駆逐艦に類別され、第7駆逐隊に編入された。1932年の第一次上海事変では長江水域の作戦に参加し、1937年の日中戦争では上海・杭州湾上陸作戦、仏印作戦に従事した。1940年4月、漣の復帰により第7駆逐隊は定数4隻(潮・曙・朧・漣)となり、第六駆逐隊(暁・雷・電・響)と共に第二艦隊・第四水雷戦隊に所属した。
太平洋戦争開戦と共に、潮は第7駆逐隊司令駆逐艦として姉妹艦「漣」と共にミッドウェー島砲撃に参加した。これは真珠湾攻撃を行った南雲機動部隊の退避を助けるための囮作戦だった。11月28日に館山湾を出航した両艦は、南雲機動部隊が真珠湾を攻撃してから十数時間後の12月8日午後6時40分、艦砲射撃を開始する。潮は12.7センチ砲弾108発を発射し、20分ほど砲撃を行って退避した。この時、米空母「レキシントン」は同島まであと1日の距離だったという。
砲撃後、給油艦「尻矢」と合流して補給を受け、12月22日に呉へ帰投した。日本海軍が南方進攻作戦を本格化させる中、第7駆逐隊もこの大きな潮流に組み込まれていく。
東南アジア占領後、第7駆逐隊(潮・曙)は内地へ帰投。4月、ドーリットル空襲への対応で空母「祥鳳」の護衛を命じられるが合流できず、トラック泊地へ進出した。5月8日の珊瑚海海戦では、第五戦隊(妙高・羽黒)と空母(瑞鶴・翔鶴)からなるMO機動部隊として米軍機動部隊と交戦する。
空母「翔鶴」が米軍艦載機の攻撃で被弾・中破した際、潮はカタログスペックを超える40ノットを発揮して戦場を離脱する翔鶴を追ったが、翔鶴は潮を引き離した——という話が艦歴として伝わっている。だが、これは当時の第七駆逐隊司令部付通信士の事実誤認の可能性が高い。珊瑚海海戦での翔鶴乗員の証言等と照合すると、実際には荒れた海面状況でほとんど速度の出ない潮を、翔鶴が最高速(34ノット)で追い越したというのが有力な説とされている。潮は翔鶴の火災鎮火・燃料補給のため約4時間で護衛を打ち切った。
この海戦の後、第7駆逐隊側は日本軍駆逐艦の対空戦闘能力の低さを痛感し、高射砲を装備した駆逐艦(秋月型)の出現を強く求めている。5月20日、第7駆逐隊(潮・曙・漣)は北方部隊に編入され、6月のミッドウェー作戦ではダッチハーバー攻撃部隊の一員として参戦した。
9月、第7駆逐隊はラバウル・ショートランド泊地へ進出し、ガダルカナル島への鼠輸送に従事した。9月12日には弾薬機材輸送、9月14日にはガ島ルンガ泊地への突入、9月19日には水上機母艦「日進」からの弾薬糧食移載と揚陸——いずれも地味だが欠かせない任務だった。9月23日、第7駆逐隊は外南洋部隊から除かれ原隊に復帰。9月28日、トラック泊地目前で空母「大鷹」が米潜水艦に襲撃される際、潮もその場に居合わせている。
1944年1月12日、内南洋部隊に編入され輸送任務に従事中の潮は、マロエラップ環礁のタロア島で米軍B-25中爆5機の空襲を受けた。小型爆弾2発が命中、戦死4名・重軽傷19名、最大速力は20ノットに低下し、クェゼリン環礁へ避退した。そして1月14日、姉妹艦「漣」が米潜水艦アルバコアの雷撃で撃沈され、第7駆逐隊は潮・曙の2隻となった。1月20日、給糧艦「伊良湖」が米潜水艦の雷撃で損傷した際には、潮は涼風・鳥海と共に救援に急行している。
2隻となった第7駆逐隊最初の任務は、大破した空母「雲鷹」の護衛だった。重巡「高雄」と協力し、燃料不足に悩まされながらも雲鷹を横須賀まで送り届けている。4月、潮・曙は大湊へ回航され北方海域の警備に従事。5月下旬には魚雷発射管の改造工事を実施し、九三式魚雷(酸素魚雷)の発射が可能になった。
1944年10月、レイテ沖海戦では志摩清英中将率いる第二遊撃部隊の一艦として、スリガオ海峡へ突入した。悪天候で地形を確認できず反転した潮は、軽巡「阿武隈」から誤射されるという混乱を経験している。志摩艦隊が西村艦隊壊滅の報を受けて反転した後、潮は米軍魚雷艇の雷撃で大破した「阿武隈」救援のため本隊から分離した。
潮と阿武隈は、たびたび米軍機の空襲を受けながらミンダナオ島ダピタン港へ避退し、コロンへ向かう。10月26日午前、米軍爆撃機の空襲で被弾した阿武隈の魚雷が誘爆し、12時42分に沈没した。潮は阿武隈生存者を救助した後、コロン島へ撤退した。第一水雷戦隊司令官・木村昌福少将(霞に移乗)は、コロン湾に到着した潮および阿武隈生存者に対し、「阿武隈乗員の奮闘を多とす 七生報国せよ」という発光信号を送ったという。
多号作戦では複数回の輸送任務に参加し、11月5日のマニラ湾大空襲では、姉妹艦「曙」が大破炎上する場面に遭遇する。潮は霞と共に曙の消火活動を行い、最終的に浅瀬へ曳航して擱座させた。11月13日、再びマニラ湾が空襲を受け、潮自身も中破。木曾・曙・沖波・秋霜・初春が沈没または大破着底する中、潮は一軸運転で何とか自力航行を保ち、深夜にマニラを脱出した。
12月、シンガポールで応急修理を終えた潮は、レイテ沖海戦で被雷大破した重巡「妙高」を護衛して内地へ向かう。タイランド湾で米潜水艦「バーゴール」と遭遇し、妙高は魚雷1本を受けて大破したが、主砲の反撃でバーゴールも大破した。損傷していた潮はバーゴールを追跡せず、護衛任務を続けた。
12月21-22日、ベトナム沿岸を護衛していたヒ82船団は米潜水艦「フラッシャー」に発見・追跡された。潮を含む護衛艦が一時的に船団から離れた隙を突き、フラッシャーはタンカー3隻(音羽山丸・ありた丸・御室山丸)を相次いで雷撃。航空機用ガソリンを満載していた船は次々と炎上・沈没し、ありた丸では船員・船砲隊員113名全員が戦死した。日本側は機雷敷設区域に入り込んだと誤認し、反撃を行わなかった。
1945年1月、潮は横須賀へ帰投し、主機損傷のためそのまま係留される。1月25日、姉妹艦「響」の編入で第7駆逐隊は3隻(霞・潮・響)に。3月、霞が第21駆逐隊へ転出し2隻に。4月7日の坊ノ岬沖海戦では、かつて護衛した戦艦「大和」が沈没し、第二水雷戦隊も多数の艦を失う中、潮は既に横須賀で行動不能の状態にあった。
阿武隈乗員の奮闘を多とす 七生報国せよ
第一水雷戦隊司令官・木村昌福少将が、阿武隈沈没後に潮と生存者へ送った発光信号。
——1944年10月26日、レイテ沖海戦・コロン湾にて。
5月5日、第7駆逐隊は解隊された。6月10日、潮は第四予備駆逐艦に指定される。行動不能の状態で8月15日の終戦を迎えた。9月に除籍となり、1948年(昭和23年)に解体された。
しかし、生き延びるということは、決して安らかな結末を意味しなかった。最後は敵の攻撃ではなく、自艦の主機損傷という地味な不調によって、潮は行動不能のまま係留され、その状態で終戦を迎えた。坊ノ岬沖海戦で多くの僚艦が壮絶な最期を遂げる中、潮はただ動けずにその報を聞いていたことになる。
潮が残したものは、勝利の記録でも壮絶な戦没の記録でもない。特型駆逐艦24隻のうち、終戦まで生き延びた数少ない艦であるという事実そのものが、この艦の戦歴の本当の価値なのかもしれない。
▼ 関連記事
■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書26『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書62『中部太平洋方面海軍作戦(2)』朝雲新聞社、1971年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書83『南東方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1975年
- ・宇垣纏『戦藻録』原書房、1968年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・木俣滋郎『潜水艦攻撃』図書出版社
- ・歴史群像編集部「第七駆逐隊」
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
- ・福田和也『戦場の将器』文藝春秋
- ・Wikipedia「潮 (吹雪型駆逐艦)」