1942年3月1日、スラバヤ沖海戦。駆逐艦「電」が放った魚雷が英重巡洋艦「エクセター」に命中し、撃沈に至らしめた瞬間、艦内には異様な放送が流れた。「沈みゆく敵艦に敬礼」——乗組員たちは甲板に立ち、沈んでいく敵艦に向かって敬礼した。直後、海に飛び込む英兵たちの姿を発見すると、艦長・竹内一中佐は「敵兵を救助せよ」と命じる。電はこの日、376名のイギリス兵を救い上げた。
吹雪型駆逐艦24番艦・電は、特III型(暁型)4隻の最後の艦であり、ロンドン海軍軍縮条約による排水量制限により、この艦をもって特型駆逐艦の建造が打ち切られた、いわば「最後の特型」である。同じ日、姉妹艦「雷」もまた英米兵422名を救助している——同じ艦隊の中で、二つの駆逐艦が同じ精神で動いていたことになる。
そして——その電もまた、最後は誰にも知られず、僚艦「響」とすれ違うように位置を交代した直後、見えない敵の魚雷に沈んでいくことになる。救う側だった艦が、今度は救われる側に回る——その夜、電を救ったのは、かつて共に第6駆逐隊を組んだ「響」だった。
1930年3月7日
1932年11月15日 竣工
34.0kt
(特III型・暁型4番艦・最終艦)
3基6門
9射線
(暁・響・雷・電)
(雷と同日に2隻が救助)
米潜水艦の雷撃で沈没、響が救助
ワシントン海軍軍縮条約による主力艦保有制限の中、補助艦艇の戦力強化を目的に建造された一等駆逐艦。凌波性能を追求した船形、密閉式艦橋による居住性改善、重武装(12.7cm連装砲3基、61cm魚雷9射線)により、当時の列強海軍に衝撃を与えた。電は暁・響・雷と共に、空気予熱器付きの新型ボイラーを採用した「特III型」(暁型)の4番艦として藤永田造船所で建造されたが、ロンドン海軍軍縮条約による排水量制限のため、本艦をもって特型駆逐艦24隻の建造は打ち切られた。日本海軍の艦船としては雷型駆逐艦「電」に続いて2隻目にあたる。
電は1930年3月7日、藤永田造船所で起工した。姉妹艦「雷」もまた同日付の起工である。1932年2月25日に進水し、11月15日に竣工。竣工・就役順では雷(8月15日)に次いで2番目、ネームシップである暁(11月30日)よりも早かった。1933年3月4日には昭和三陸地震の救援のため、僚艦「雷」と共に釜石へ急行し、6日には盛に入っている。
1934年6月29日、済州島南方で演習中、電は僚艦「深雪」に衝突した。深雪は沈没し、電自身も一番砲塔以前の艦首部を喪失、下士官1名が死亡している。軽巡「那珂」に曳航され、後進で佐世保へ帰投。修理は呉で約3ヵ月をかけて行われた。修理後、1934年11月から暁・響・雷・電の4隻でようやく第6駆逐隊が編成される。
1940年11月、第6駆逐隊は第一艦隊第一水雷戦隊に編入。同月から1941年8月まで石川島造船所で特定修理が行われ、九三式探信儀と九一式方位盤を装備した。13mm連装機銃の25mm機銃への換装も計画されたが、供給問題で実施されず、ガダルカナル島の戦いの時期まで13mm連装機銃が唯一の対空兵装という状態のまま太平洋戦争を迎える。
3月1日、スラバヤ沖海戦に参加した電は、英重巡洋艦「エクセター」に魚雷を放ち、撃沈に至らしめた。この時、艦内には「沈みゆく敵艦に敬礼」という放送が流れ、乗組員らは甲板に立って敬礼したという。直後、エクセターから海に飛び込む水兵らが目撃され、艦長・竹内一中佐は「敵兵を救助せよ」と命令。電は376名のイギリス兵を救助した。
沈みゆく敵艦に敬礼
エクセター撃沈の直後、艦内に流れた放送。乗組員たちは敵艦の最期に向かって、甲板で敬礼を行った。
——1942年3月1日、スラバヤ沖海戦。同じ日、僚艦「雷」もまた撃沈した敵艦の生存者422名を救助している。
電が376名、雷が翌3月2日に422名——同じ第6駆逐隊の2隻が、同じ海戦の前後で計798名の英米兵を救助したことになる。電のこの行動が、姉妹艦「雷」の工藤艦長の判断にどれほど影響したかは定かではないが、第6駆逐隊という編成全体に、敵兵を人として扱う気風があったことは間違いない。
呉に回航後、電は第二航空戦隊(角田覚治少将)の空母「飛鷹」「隼鷹」と訓練を実施。10月4日、電・磯波は飛鷹・隼鷹を護衛して呉を出撃し、トラックでガダルカナル島の戦いに加わる。10月20日深夜、飛鷹で機関室火災が発生して戦闘不能となり、電・磯波は飛鷹を護衛してトラック泊地へ向かった。
11月9日、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場砲撃に向かう挺身攻撃隊(戦艦比叡・霧島ら多数)に属しトラックを出撃。11月12日深夜〜13日未明、ノーマン・スコット少将率いる米巡洋艦部隊との第三次ソロモン海戦が生起。第6駆逐隊から暁が沈没、雷が大破する中、三番艦として行動していた電は弾片で魚雷発射管動力電路切断という軽微な損害のみで済んだ。霧島・朝雲・春雨・電の一群となって戦場を離脱。電は魚雷6本・主砲54発を発射し、防空巡洋艦1轟沈・同1中破・巡洋艦1小破という戦果を報告している。
この海戦後、電幹部は重要な提言を行っている。探照灯を照射した旗艦「比叡」が集中砲撃を受けて航行不能(後に自沈)になったことを踏まえ、「従来の夜戦戦術に対して『再考を要す』」という意見を上げたという。姉妹艦「暁」が探照灯照射の代償として沈んだことを目撃した電だからこそ出せた、痛切な戦術的洞察だった。
1943年以降、電は第十一水雷戦隊に所属し、船団護衛任務に従事し続けた。第6駆逐隊で暁を喪失し、雷も大破を経験した中、電は地味だが堅実な任務をこなしていく。だが1944年4月、その任務の最中に運命の夜が訪れる。
1944年4月14日、電は僚艦「響」と位置を交代したばかりだった。そこに米潜水艦「ボーンフィッシュ」からの魚雷が接近する。魚雷は電の中部と後部に1本ずつ命中し、電は右舷側に45度傾斜、後部は二つ折れとなって間もなく沈没した。常盤駆逐艦長以下169名が戦死したが、121名は僚艦「響」によって救助された。生存者の中には、第6駆逐隊の軍医長で、1952年に「アリチアミン」を発見した藤原元典も含まれていた。
1944年6月10日、駆逐艦電・雷・天霧は初雪型駆逐艦から除籍された。同日付で軽巡「夕張」は軍艦籍から、雷・電・秋雲・天霧は帝国駆逐艦籍から除籍。暁・雷・電の相次ぐ喪失により、第6駆逐隊は響のみとなり、雷・電の除籍と共に第6駆逐隊も解隊された。特III型4隻のうち、終戦まで生き残ったのは響1隻だけだった。
しかし、その敬意を持つ艦自身は、最後は静かに、見えない敵の魚雷によって海に消えた。僚艦「響」と位置を交代した直後という偶然のタイミング、そして救助した121名のうちに、後に世界の医学に貢献する人物が含まれていたという事実は、戦争という記録が個人の人生の先までも刻んでいることを示している。
電が残したものは、撃沈数ではなく、敵兵への礼節と、最後まで人を救おうとした第6駆逐隊全体の気風そのものである。
▼ 関連記事
■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書29『北東方面海軍作戦』朝雲新聞社
- ・惠隆之介『敵兵を救助せよ! 英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長』草思社、2006年
- ・落合康夫「特型駆逐艦行動年表」『写真 日本の軍艦10 駆逐艦I』光人社、1990年
- ・田村俊夫「特型23隻の開戦時の兵装」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ70 完全版 特型駆逐艦』学習研究社、2010年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・林寛司(作表)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年
- ・野間恒『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』2004年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
- ・Wikipedia「電 (吹雪型駆逐艦)」