1942年3月2日、スラバヤ沖海戦の翌朝。重油の浮かぶ海に漂う422名の英米兵を発見した駆逐艦「雷」艦長・工藤俊作少佐は、ただ一言こう命じた——「おい、助けてやれよ」。前日の海戦で雷も加わって撃沈した英駆逐艦「エンカウンター」、米駆逐艦「ポープ」の漂流者たちだった。敵潜水艦が遊弋する危険海域で3時間に及ぶ救助活動を行い、乗員220名の雷は、その倍近い422名を救い上げた。
吹雪型駆逐艦23番艦・雷は、暁・響・電と共に第6駆逐隊(暁型・特III型)を編制した艦である。竣工は4隻のうち2番目だが、戦歴という意味では誰よりも長く記憶される一夜を持つことになった。救助された英国海軍少尉サミュエル・フォールは、後に外交官となり、半世紀以上にわたって恩人・工藤艦長の消息を探し続けた。
そして——その雷自身もまた、第三次ソロモン海戦で多数の命中弾を受けながら生き延び、最後は1944年、米潜水艦の魚雷によってわずか4分で姿を消すことになる。救う側だった艦が、最後は誰にも救われることなく海に消えた。
1930年3月7日
1932年8月15日 竣工
34.0kt
(特III型・暁型3番艦)
3基6門
9射線
(暁・響・雷・電)
自艦乗員の倍近く救助
米潜水艦の雷撃で4分後に沈没
ワシントン海軍軍縮条約による主力艦保有制限の中、補助艦艇の戦力強化を目的に建造された一等駆逐艦。凌波性能を追求した船形、密閉式艦橋による居住性改善、重武装(12.7cm連装砲3基、61cm魚雷9射線)により、当時の列強海軍に衝撃を与えた。雷は浦賀船渠で建造され、暁・響・電と共に空気予熱器付き新型ボイラーを採用した「特III型」(暁型)を構成した。日本海軍の艦船としては雷型駆逐艦「雷」に続いて2隻目にあたる。
雷は1930年3月7日、浦賀船渠で起工した。1931年10月22日に進水、1932年8月15日に竣工。1933年3月4日には昭和三陸地震の救援のため、第6駆逐隊僚艦「電」と共に釜石へ急行し、6日には盛(現・大船渡市)に入っている——戦争よりも前に、災害救援という形で人を助けた最初の記録である。
3月1日、重巡「足柄」「妙高」「那智」「羽黒」、駆逐艦「山風」「江風」と共に、英重巡「エクセター」、英駆逐艦「エンカウンター」、米駆逐艦「ポープ」を撃沈した。この海戦自体は日本側の圧倒的な勝利だったが、雷の物語が本当に始まるのは、その翌朝だった。
「諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである」
救助した英国海軍士官21名を前に、工藤俊作艦長が流暢な英語でこう述べた。
——1942年3月2日、スラバヤ沖海戦の翌朝。サミュエル・フォール元海軍中尉(後の英国外交官、フォール卿)はこの瞬間を生涯忘れなかったという。
この救助劇は、戦後何十年も日本では知られることがなかった。工藤艦長自身が一切語らず、戦友会にも姿を見せなかったためである。だが救助された英国海軍少尉サミュエル・フォールは、外交官となった後も恩人を探し続け、1987年には米海軍機関誌に工藤艦長を讃える投稿文を寄せている。工藤の消息が判明したのは2004年——本人はすでに1979年に他界していた。2008年、フォール卿(当時は卿の称号を得ていた)は66年の時を経て、川口市の工藤の墓前で感謝を伝えている。
海戦後、雷はフィリピン方面へ移動。3月17日、暁・響と共にルソン島南方タヤバス湾で米潜水艦「パーミット」を発見し、2日間にわたり攻撃。司令塔に損傷を与えたが撃沈には至らなかった。5月20日、北方部隊に編入され、AL作戦(西部アリューシャン攻略作戦)に参加。アッツ島・キスカ島の占領作戦を支援する。
7月、キスカ島では米潜水艦の攻撃で駆逐艦「霰」が沈没、「霞」「不知火」が大破していた。雷は曳航索を推進器に巻き込む事故に遭いながらも、7月28日に「霞」を逆引きで曳航してキスカを出港。「電」に曳航を引き継いで横須賀へ向かう途上、8月8日夜には見張員の誤認で銚子近海で座礁事故を起こす。軽い浸水はあったが、重量物を移動させて後進をかけ、離礁に成功した。地味だが、危機をくぐり抜ける判断力を見せた一幕である。
ガダルカナル島の戦いが緊迫化すると、第6駆逐隊は南方へ転戦。10月14日、暁・雷を含む増援部隊が陸軍兵士1,129名をガダルカナル島エスペランス岬へ輸送した。10月25日朝には、雷は暁・白露と隊伍を組んでルンガ泊地に突入。掃海駆逐艦「ゼイン」に命中弾を与えた後、艦隊曳船「セミノール」と沿岸哨戒艇「YP-284」を発見し、両艦とも撃沈している。
11月12日夜、戦艦「比叡」「霧島」の右前方に位置していた雷は、前方の僚艦「暁」がアメリカ艦隊から乱打を受けた直後、20センチ砲弾6発・15センチ砲弾8発を含む多数の命中弾を受けた。一番・二番砲塔、機銃台、給弾薬室、前部探照灯、煙突などに大きな損傷を受け、主機械も一時停止。三番発射管も弾片で使用不能になり、戦死者19名・重傷者57名という大きな被害を出した。それでも全速発揮が可能で、幸い水線下の被害がなく大事には至らなかった。大破した雷は残った発射管から魚雷6本を発射した後、戦線を離脱。一時行方不明と判定されながらも単艦でトラックへ帰投した。
修理後、1943年3月27日にはアッツ島沖海戦に参加。3月30日には嵐の中で駆逐艦「若葉」と接触事故を起こし艦首が圧し潰れる損傷を負ったが、これも乗り越えた。4月以降は内南洋部隊に転属し、日本本土とトラック間の船団護衛任務に従事。5月20日、ジャルート環礁付近で米潜水艦「ポラック」の雷撃により護衛していた特設巡洋艦「盤谷丸」が沈没する中、雷は爆雷で反撃し損傷を与えたが取り逃がしている。
1944年に入っても、雷は1年近くにわたって船団護衛任務に従事し続けた。1月、水中聴音儀と電波探知機を装備する工事を実施。3月、マリアナ諸島防衛強化のための「松輸送」にも従事し、サイパン島への輸送を成功させている。
1944年4月13日、雷は特設運送船「山陽丸」を護衛してメレヨン島からサイパンへ向かっていた。直衛機が潜水艦を発見すると、雷は山陽丸を残して制圧に向かう。実はこの時、米潜水艦「ハーダー」(艦長サミュエル・D・ディーレイ少佐)も、日本機に発見されて一度潜航した後、潜望鏡深度で雷のマストを発見していた。ディーレイ艦長は相手を「雷あるいは響クラス」と正確に見抜き、観測を続けてジグザグ航行する雷とほぼ垂直の好位置に接近する。18時59分、距離900ヤードでハーダーは魚雷4本を発射し、2本が命中。雷は黒煙と火災に包まれ30度に傾斜、船体は二つ折れとなり、脱出を図る乗員を巻き込みつつ4分ほどで沈没した。生永邦雄艦長以下238名全員が戦死した。
1944年6月10日、初雪型駆逐艦3隻(天霧・雷・電)が艦艇類別等級表から削除され、構成艦3隻(雷・電・暁)を喪失していた第6駆逐隊も同日解隊された。雷は帝国駆逐艦籍からも除籍されている。
しかし、その武士道精神を持つ艦自身は、最後は誰にも救われることなく海に消えた。米潜水艦ハーダーの精密な観測と魚雷4本——救う側だった艦が、今度は救われる側になることもできずに、わずか4分で沈んでいった。第三次ソロモン海戦で多数の命中弾を受けながらも生き延びた雷の生命力をもってしても、この最期は避けられなかった。
雷が残したものは、戦果としての撃沈数ではない。敵兵422名を救ったという事実、そしてその恩を半世紀以上忘れなかった一人の英国人の存在——この艦の物語は、戦争という記録の中に、敵味方を超えた人間の記憶を刻んでいる。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書29『北東方面海軍作戦』朝雲新聞社
- ・橋本衛『奇蹟の海から 特型駆逐艦水兵物語』光人社、1984年
- ・橋本衛『特型駆逐艦「雷」海戦記 一砲術員の見た戦場の実相』光人社NF文庫
- ・惠隆之介『敵兵を救助せよ! 英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長』草思社、2006年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・落合康夫「特型駆逐艦行動年表」『写真 日本の軍艦10 駆逐艦I』光人社、1990年
- ・田村俊夫『歴史群像 太平洋戦史シリーズ70 完全版 特型駆逐艦』学習研究社、2010年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
- ・Wikipedia「雷 (吹雪型駆逐艦)」「工藤俊作 (海軍軍人)」