特型Ⅰ型(吹雪型)· 吹雪型6番艦 · 第12駆逐隊 · 雲級
SHINONOME 東雲
吹雪型として太平洋戦争初の戦没——開戦9日後に消えた「夜明けの艦」
大日本帝国海軍・特型Ⅰ型(吹雪型)6番艦「東雲」。佐世保海軍工廠で建造され1928年竣工。 第12駆逐隊(雲級:叢雲・東雲・薄雲・白雲)の一艦として13年を過ごし、 太平洋戦争開戦直後のマレー半島上陸作戦・ボルネオ島攻略作戦に参加。 開戦からわずか9日後の1941年12月17日、ボルネオ島北方ミリ沖で消息を絶った。吹雪型として太平洋戦争最初の戦没艦。笹川博艦長以下228名全員戦死。
TECHNICAL SPECIFICATIONS
SPECIFICATIONS
基本諸元・建造データ
HULL TYPE
特型Ⅰ型(吹雪型)
吹雪型6番艦・雲級2番艦
SHIPYARD
佐世保海軍工廠
起工1926.8.12 / 竣工1928.7.25
DISPLACEMENT
1,680t(基準)
公試:1,980t / 全長118.5m
MAIN GUN
A型砲 40°
50口径12.7cm連装砲 3基6門
TORPEDOES
61cm三連装×3基
9門(九三式酸素魚雷)
FATE
1941.12.17 戦没
ボルネオ北方ミリ沖・全員戦死
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 艦名 | 東雲(しののめ)2代目 / 旧称:第四十号駆逐艦(1928年8月1日「東雲」に改名) |
| 艦型 | 吹雪型駆逐艦(特型Ⅰ型) 6番艦・雲級(叢雲・東雲・薄雲・白雲)2番艦 |
| 建造所 | 佐世保海軍工廠 |
| 起工 | 1926年(大正15年)8月12日 |
| 進水 | 1927年(昭和2年)11月26日 |
| 就役(竣工) | 1928年(昭和3年)7月25日(同年8月1日に「東雲」と改名) |
| 初代艦長 | 久我徳一 中佐(1928年6月15日〜1929年11月30日) |
| 最終艦長 | 笹川博 少佐→中佐(1940年10月15日〜1941年12月17日戦死・同日付で大佐昇進) |
| 全長 | 118.5 メートル |
| 全幅 | 10.36 メートル |
| 吃水 | 3.2 メートル(平均) |
| 基準排水量 | 1,680 トン |
| 公試排水量 | 1,980 トン |
| 機関 | 艦本式ロ号専焼缶 4基 艦本式ギアードタービン 2基2軸 |
| 出力 | 50,000 馬力 |
| 速力(計画) | 最大 38.0 ノット |
| 主砲(竣工時) | 50口径12.7cm A型連装砲 3基6門(仰角40°) 密閉式砲塔・特型Ⅰ型の標準仕様 |
| 魚雷発射管 | 61cm 三連装魚雷発射管 3基9門(九三式酸素魚雷) 爆雷投下軌条 2軌 |
| 乗員 | 約250名(最終定員:228名が全員戦死) |
| 所属駆逐隊 | 第12駆逐隊(叢雲・東雲・薄雲・白雲)*第20駆逐隊時期もあり |
| 所属水雷戦隊 | 第二水雷戦隊→第三水雷戦隊(旗艦川内・橋本信太郎少将) |
| 型の特記 | 雲級(吹雪型5〜8番艦)の2番艦。特型Ⅰ型の標準仕様(A型砲・仰角40°)。吹雪型として太平洋戦争最初の戦没艦。 |
| 最終・戦没 | 1941年12月17日 08:15以降消息不明。ボルネオ島北方バラム灯台北方約15キロ。笹川博艦長(同日付大佐昇進)以下228名全員戦死。沈没原因は空襲説(オランダ海軍Do 24飛行艇)が有力だが機雷説・誘爆説もあり諸説が残る。 |
■ 「吹雪型初の戦没」の正確な位置づけ
太平洋戦争で最初に沈んだ日本海軍の駆逐艦は12月11日のウェーク島攻略戦での「疾風」「如月」である。「東雲」が特別なのは「吹雪型(特型)として最初に沈んだ艦」という意味。旧資料では「特型駆逐艦として太平洋戦争における最初の戦没艦」と表記されることがあるが、正確には「吹雪型(特型)として最初」である。
太平洋戦争で最初に沈んだ日本海軍の駆逐艦は12月11日のウェーク島攻略戦での「疾風」「如月」である。「東雲」が特別なのは「吹雪型(特型)として最初に沈んだ艦」という意味。旧資料では「特型駆逐艦として太平洋戦争における最初の戦没艦」と表記されることがあるが、正確には「吹雪型(特型)として最初」である。
COMBAT HISTORY
BATTLE RECORD
全戦歴・タイムライン
「東雲」の戦歴は13年の平時訓練と9日間の実戦に集約される。マレー作戦からボルネオ攻略まで絶え間なく任務をこなした後、12月17日朝に突然消えた。
1926〜1928年 — 建造・竣工
佐世保海軍工廠にて起工・竣工
- 1926年(大正15年)8月12日起工。1927年11月26日進水。竣工直後の1928年8月1日に「第四十号駆逐艦」から「東雲」に改名。
- 1928年7月25日竣工。初代艦長:久我徳一 中佐。東雲・薄雲・白雲の3隻で第12駆逐隊を編制。12月10日付で第二艦隊・第二水雷戦隊に所属。
- 1929年5月10日:叢雲竣工で第12駆逐隊は雲級4隻体制に。
1931〜1936年 — 第20駆逐隊時代
第20駆逐隊(東雲・吹雪・磯波)に編入——第12駆逐隊を離れる時期
- 1931年12月1日:東雲・吹雪・磯波で第20駆逐隊を新編成。東雲は第12駆逐隊を離れた。
- 1933年2〜11月:一時的に第12駆逐隊(東雲・叢雲・白雲)に戻る期間あり。
- 1935年:第四艦隊事件(三陸沖台風)で東雲も甲板等に若干の損傷を受けた。
- 1936年12月1日:第20駆逐隊解隊。東雲は第12駆逐隊(叢雲・東雲・薄雲・白雲)に復帰し雲級4隻体制に。
1938〜1940年 — 第二航空戦隊・日中戦争
空母「龍驤」「蒼龍」護衛・日中戦争・北部仏印進駐
- 1938年末:第12駆逐隊は空母龍驤・蒼龍と第二航空戦隊を編制(以後、数年にわたり航空部隊の護衛駆逐隊を担う)。
- 1940年:第三水雷戦隊として第二遣支艦隊に編入。華南での沿岸作戦・北部仏印進駐作戦に参加。
- 1940年8月15日:薄雲が中国大陸沿岸で触雷・大破し長期修理のため第12駆逐隊から離れた。以降、第12駆逐隊は叢雲・東雲・白雲の3隻体制。
1941年4〜11月 — 太平洋戦争直前
内海西部での訓練・第二航空戦隊編制内示・三亜港集結
- 1941年4月〜:第三水雷戦隊は内海西部で訓練。6月5日に伊勢湾に入港し乗員は伊勢神宮に参拝した。
- 1941年9月12日:叢雲と東雲が次年度に空母蒼龍・飛龍と第二航空戦隊を編成する内示あり——太平洋戦争開戦で実現しなかった。
- 1941年11月20日:第三水雷戦隊が呉を出港。11月26日に三亜(海南島)着。東雲・叢雲が湾外哨戒任務に従事。
1941年12月4〜8日 — マレー作戦
三亜出撃——ターペ上陸支援・コタバル合流
- 12月4日:南遣艦隊主力・第25軍(山下奉文中将)輸送船団が三亜を出撃。マレー半島へ。第12駆逐隊司令・小川延喜中佐が指揮。
- 12月7日22時:東雲など第12駆逐隊と安藤支隊(歩兵第42連隊)を乗せた輸送船6隻がパタニ・ターペ方面へ分離。
- 12月8日 00:35:東雲が輸送船2隻(阿蘇山丸・鬼怒川丸)を護衛してターペへ。午前3時、ターペ・パタニの両上陸点で大きな抵抗なく上陸成功。
- コタバルでは守備隊の激しい抵抗。東雲などマレー半島北部の駆逐隊はコタバル方面へ移動。12月9日01:30に護衛隊集結・再上陸作戦を決行して成功した。
1941年12月9〜13日 — ボルネオ攻略部隊へ移行
カムラン湾への帰投・ボルネオ攻略第二護衛隊に編成
- 12月9日11:25:橋本少将が東雲など4隻(白雲・叢雲・東雲・朝霧)にカムラン湾帰投を命じた。途中、英東洋艦隊出現で再合流命令が出たが、英艦隊シンガポール反転により追撃断念。
- 12月11日:南遣艦隊がカムラン湾に集結。第12駆逐隊(叢雲・白雲・東雲)と第7号駆潜艇で第二護衛隊を編成。ボルネオ攻略部隊の護衛と上陸支援を命じられた。
- 12月13日:ボルネオ攻略部隊(第12駆逐隊・駆潜艇・由良・神川丸・輸送船10隻)がカムラン湾を出撃。ボルネオ島へ向かう。
1941年12月15〜16日 — ミリ到着・揚陸
ボルネオ北部ミリ到着——東雲はセリア沖での揚陸支援に従事
- 12月15日深夜〜16日未明:ボルネオ北部のミリに到着。護衛艦艇は各方面に展開。ミリ泊地に白雲と第7号駆潜艇、ルトン沖に叢雲、セリア沖に東雲(輸送船「日吉丸」護衛)が配備された。
- 川口支隊の上陸作戦は成功。ミリの油田施設も占領。神川丸の搭載機が周辺哨戒を実施した。
1941年12月17日 — 最期・消息不明
セリア沖の任務交代後——単独でルトンへ向かい消息を絶つ
- 12月17日朝、ミリ攻略部隊はたび重なる空襲を受けた。連合国軍基地から飛来したオランダ空軍グレン・マーチン爆撃機とオランダ王立海軍航空隊のDo 24飛行艇が波状攻撃を実施。神川丸の零式観測機が邀撃し、この日は飛行艇1機を撃墜した。
- 08:00頃:東雲はセリア沖の第7号駆潜艇と任務を交代。
- 08:15:東雲が単独でルトンに向かった後、消息を絶った。
- 08:50頃:白雪(ミリ沖警戒艦)がバラム灯台北方15キロで「音響と共に白煙天に冲するを認む」を目撃。叢雲が「飛行艇と交戦中」という発信者不明の電信を受信。
- 第7号駆潜艇が11時・12時15分に周辺海域を調査したが何も発見できず。
- 午後:神川丸の水上偵察機・叢雲が捜索。バラム灯台北方15キロに沢庵樽・重油を発見。
- 12月18日01:50:第二護衛隊指揮官が南遣艦隊司令長官へ「東雲ノ遭難ハ確実ナリ」を報告。
- 笹川博艦長(同日付大佐に昇進)以下228名全員戦死。吹雪型として太平洋戦争最初の戦没艦。
1942年1月15日 — 除籍
除籍・第12駆逐隊解隊
- 1942年1月15日:東雲は除籍。
- 1942年3月10日:第12駆逐隊解隊。残存艦の叢雲は第11駆逐隊へ、白雲は第20駆逐隊へそれぞれ編入された。雲級は完全に分散する形で解体された。
■ 沈没原因の諸説と現状
空襲説(オランダ海軍Do 24飛行艇・X32号艇、3発命中)が最有力。英・豪も自国機の戦果と主張。当初日本海軍は機雷説と判断したが後日調査で空襲説が有力に。米海軍年誌の機雷説は出所不明。宇垣纏参謀長は「爆雷の誘爆其因たるもの多し」と記した。生存者がゼロのため完全な真相は永遠に不明。
空襲説(オランダ海軍Do 24飛行艇・X32号艇、3発命中)が最有力。英・豪も自国機の戦果と主張。当初日本海軍は機雷説と判断したが後日調査で空襲説が有力に。米海軍年誌の機雷説は出所不明。宇垣纏参謀長は「爆雷の誘爆其因たるもの多し」と記した。生存者がゼロのため完全な真相は永遠に不明。
■ 「東雲」が第二航空戦隊と結んだ縁
1938〜1939年の第二航空戦隊(空母龍驤・蒼龍)所属を経て、1941年9月の内示では次年度に空母蒼龍・飛龍と再び第二航空戦隊を組む予定だった。この内示が実現していれば東雲はミッドウェーまで生存していた可能性がある——太平洋戦争開戦によって実現しなかった「もう一つの東雲」が歴史の余白に存在する。
1938〜1939年の第二航空戦隊(空母龍驤・蒼龍)所属を経て、1941年9月の内示では次年度に空母蒼龍・飛龍と再び第二航空戦隊を組む予定だった。この内示が実現していれば東雲はミッドウェーまで生存していた可能性がある——太平洋戦争開戦によって実現しなかった「もう一つの東雲」が歴史の余白に存在する。
SUMMARY
CONCLUSION
東雲の航跡が示すもの
特型Ⅰ型「東雲」の艦歴は13年の平時と9日間の実戦で終わった。マレー作戦でターペ上陸を成功させ、コタバルに合流し、ボルネオ攻略部隊に移行し、ミリの油田占領を支えた後——単独でルトンへ向かい、白煙を残して消えた。228名が誰一人帰らなかった。
連合艦隊参謀長・宇垣纏が「爆雷の誘爆其因たるもの多し」と記したこの喪失は、特型重武装の設計思想への最初の警告だった。その警告は、日本中が真珠湾の勝利に沸く最中に発せられ、戦略的優位の中でノイズとして処理された。「夜明け(東雲)」という名の艦が、戦争が始まった最初の夜明けから9日後に消えた——その皮肉な事実が、東雲という艦の最後の遺言として残っている。
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- ・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面 海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年
- ・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第3巻 蘭印攻略作戦』朝雲新聞社、1967年
- ・宇垣纏『戦藻録 明治百年史叢書』原書房、1968年(1941年12月17日の記述)
- ・クリストファー・ショアーズ、ブライアン・カル『南方進攻航空戦 1941〜1942』大日本絵画、2002年(Do 24飛行艇撃沈記録)
- ・志賀博(天霧先任将校)『海軍兵科将校』光人社、1985年(第12駆逐隊の行動・東雲捜索の直接証言)
- ・重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦』潮書房光人社、2014年(ISBN 978-4-7698-1577-8)
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年(ISBN 4-7698-1246-9)
- ・JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08030725700「昭和16年12月 第3水雷戦隊戦時日誌」
- ・Wikipedia「東雲(吹雪型駆逐艦)」「マレー作戦」「英領ボルネオ攻略」
- ・片桐大自『帝国海軍全艦艇史』ベストセラーズ
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