「額の皮」としてしか残らなかった艦——妙高に衝突し、総員戦死したブーゲンビル島沖の陽炎型7番艦「初風」の全記録

1943年11月2日未明、ブーゲンビル島エンプレス・オーガスタ湾。視界不良の中、米艦隊の砲撃を回避しようと運動していた駆逐艦「初風」は、隊列から脱落し、重巡洋艦「妙高」の左舷に真正面から衝突した。艦首を完全に失った初風は、その場に取り残される。2時57分、アーレイ・バーク大佐率いる米第45駆逐群の集中砲火を浴び、初風は沈んだ。艦長・芦田部一中佐以下、乗組員260名。生存者はいなかった。翌朝、僚艦「羽黒」の乗員は、妙高の艦首にぶら下がる引きちぎられた鉄板を見て、こう呼んだという——「初風の額の皮」。

陽炎型7番艦として1940年2月に竣工した「初風」は、陽炎型19隻の中で唯一、神戸川崎造船所で建造された艦だった。スラバヤ沖海戦、ミッドウェー海戦、南太平洋海戦——第十六駆逐隊の一員として太平洋戦争の主要な海戦を戦い抜き、1943年1月には米魚雷艇の雷撃を受けながらも、自沈すら検討された絶望的な状況から奇跡的な生還を果たしてもいる。

そして——その生還の記憶からわずか10ヶ月後、初風は帰ってこなかった。艦は衝突事故という不運によって行動不能になり、味方の誰一人としてその最期を見届けることさえできなかった。生存者がほとんどいなかったため、戦友会も、慰霊碑も、長い間作られることがなかった。初風の最期を語れる人は、この世にほとんど残されていなかったのである。

■ 陽炎型7番艦「初風」基本諸元 ■
建造所
神戸川崎造船所
陽炎型19隻中、唯一この造船所で建造
起工 / 進水 / 竣工
1937年12月3日 / 1939年1月24日 / 1940年2月15日
基準排水量
2,033t
全長118.5m
最大速力
35.5ノット
出力52,000馬力
主砲
三年式12.7cmC型連装砲
3基6門
魚雷
61cm4連装発射管×2基
(九三式酸素魚雷)
艦長
芦田部一中佐
艦と共に戦死
所属駆逐隊
第十六駆逐隊
(雪風・天津風・時津風)
最終・結末
1943年11月2日
ブーゲンビル島沖 戦没
乗組員260名、総員戦死
「雪風の妹」——川崎造船所生まれの艦

初風は1937年12月3日、神戸川崎造船所で起工した。陽炎型19隻の中で、この造船所で建造されたのは初風ただ1隻である。1938年9月20日、姉妹艦「親」「夏」と共に命名。1939年1月24日進水——実は僚艦「雪風」よりも進水は早かった。しかし竣工は1940年2月15日と、雪風(1月20日)よりわずかに遅れることになる。この竣工日の逆転は、後年「初風は雪風の妹」と語られる際によく引き合いに出される小さな逸話でもある。呉鎮守府籍となり、第二水雷戦隊・第十六駆逐隊(雪風・天津風・時津風)に配属された。

太平洋戦争開戦時、第十六駆逐隊は第1小隊(司令駆逐艦「雪風」・時津風)と第2小隊(初風・天津風)に分かれて行動していた。開戦劈頭、初風は天津風・軽巡「神通」と共に、第四航空戦隊「龍驤」航空隊によるダバオ空襲を支援。以後、レガスピー、ダバオ、メナド、ケンダリー、アンボン、クーパンの各攻略作戦に転戦し、1942年2月27日にはスラバヤ沖海戦にも参加した。この海戦がほぼ終わった後には、軽巡「神通」を狙う米潜水艦シールへ、天津風を除く第十六駆逐隊各艦と共に爆雷攻撃を行っている(ただし取り逃がした)。また、ジャワ島バウエアン島付近では天津風と共にオランダ潜水艦K-10と交戦し、主に天津風が投下した爆雷によってK-10を自沈に追い込んだとされる。

6月上旬のミッドウェー海戦では、初風ら第十六駆逐隊はミッドウェー島攻略のための輸送部隊を護衛していたが、海戦の帰趨についてはほとんど知ることのないまま引き返している。8月にガダルカナル島の戦いが始まると、最新鋭駆逐艦の一隻である初風もこの激戦区に投入された。

■ 初風 全戦歴ハイライト ■
【1942年2月27日】:スラバヤ沖海戦に参加
【1942年6月】:ミッドウェー海戦、輸送船護衛
【1943年1月10日】:ガダルカナル輸送中に被雷、自沈も検討されるも生還
【1943年7月〜10月】:翔鶴・瑞鶴・妙高護衛、修理・整備
【1943年11月2日】:ブーゲンビル島沖海戦。妙高と衝突、艦首を喪失し戦没
【1989年】:ようやく呉の旧海軍墓地に慰霊碑が建立される
エピソード① 奇跡の生還——魚雷艇の雷撃を乗り越えて

1943年1月10日、初風は総撤退前のガダルカナル島輸送(鼠輸送)に投入されていた。ドラム缶などの物資を満載した輸送隊を守る警戒隊として、多くの駆逐艦と共にエスペランス岬に差し掛かったところで、米軍魚雷艇の襲撃を受ける。初風は艦橋付近に魚雷1本を被雷し、艦首部が若干沈下する大きな損傷を負った。戦死8名、負傷12名。通信装置と操舵装置が故障し、一時は行動不能に陥った。

被害の大きさから、第二水雷戦隊司令官・小柳富次少将は初風の自沈処分すら検討したという。しかし第四駆逐隊司令・有賀幸作大佐との協議の末、機関などの足回りには影響がなかったことから、初風は僚艦(時津風・江風・嵐)の護衛を受けて戦線離脱することが決まった。速力約16ノットというゆっくりとした速さで、翌日夕刻、初風はショートランド泊地へ無事到着する。この生還は、小柳司令官に大きな感銘を与えたと伝えられている。

■ 自沈処分の淵から生還した艦
太平洋戦争の駆逐艦の多くは、大破すればそのまま処分・喪失に至ることが少なくなかった。初風がこの時、自沈を免れ、ゆっくりとでも自力で港へ帰り着けたことは、乗員たちの練度と艦の頑丈さの証だった。つまりどういうことか——この時の「生き延びる力」があったからこそ、初風はこの後もさらに10ヶ月、戦い続けることができた。
エピソード② 雪風との駆逐隊司令交代——姉妹艦としての日々

1942年6月から9月にかけて、初風は僚艦「雪風」と1ヶ月ごとに駆逐隊司令の座を交代し合っていた。この密接な関係は、後に「雪風の妹」と語られる初風のイメージの土台にもなっている。修理を終えた1943年後半、初風は損傷した空母「翔鶴」・軽巡「瑞鶴」・重巡「妙高」の護衛任務にあたり、僚艦「時津風」と共に本土へ帰還した。この本土帰還のタイミングが、初風と時津風を太平洋戦争最大級の激戦の一つ、第三次ソロモン海戦への参加から遠ざけることになった。12月31日、初風は時津風・秋月と共に瑞鶴を護衛して再びトラック泊地へ進出している。

エピソード③ ブーゲンビル島沖海戦——衝突事故という不運

1943年11月1日、初風は第五戦隊(大森仙太郎少将)指揮下、第十戦隊司令官・大杉守一少将率いる第二警戒隊(旗艦「阿賀野」、駆逐艦「長波」「初風」「若月」)の一艦として、ブーゲンビル島タロキナへの陸軍逆上陸作戦支援に参加した。しかし米軍機に発見されたため、この逆上陸作戦自体は中止となる。それでも第五戦隊指揮下の連合襲撃部隊は、予定通りブーゲンビル島の連合軍輸送船団撃滅を目指して進撃を続けた。

11月2日0時27分、米軽巡「モントピーリア」がレーダーで日本艦隊を探知。0時45分、軽巡「川内」と駆逐艦「時雨」がほぼ同時に敵艦を視認し、距離約9,000mでブーゲンビル島沖海戦(米側呼称:エンプレス・オーガスタ湾海戦)が生起した。視界不良の中での激しい砲撃戦は、日米双方に誤射や衝突事故を多発させる。日本側の駆逐艦3隻が発射した魚雷のうち1本が米駆逐艦「フート」の艦尾に命中し航行不能にする戦果を挙げた一方、軽巡「川内」は集中砲火を浴びて炎上、行動不能に陥る。

そしてこの視界不良下の混乱の中、第二警戒隊の初風は米艦隊の砲撃を避けるため避弾運動を行っていたが、その最中に隊列から脱落し、第一警戒隊の重巡洋艦「妙高」の左舷に正面から衝突してしまう。この事故により初風は艦首を完全に喪失、航行不能となった。2時57分、アーレイ・バーク大佐率いる第45駆逐群の集中砲火を浴び、初風は沈没した。撤退する僚艦は他になく、艦長・芦田部一中佐以下、乗組員260名は総員戦死した。沈没地点は南緯06度00分、東経153度58分とされている。

この海戦では、初風だけが不運に見舞われたわけではなかった。同じ第二警戒隊の僚艦「長波」「若月」も混乱の中で行動を共にし、軽巡「川内」は集中砲火を浴びて炎上・航行不能となり、翌日沈没している。「川内」もまた僚艦「時雨」との衝突を間一髪で回避していた。視界不良下での同士討ちに近い混乱は日本側だけでなく、米軍側の第46駆逐群でも衝突事故が発生していたと伝えられる。双方が同じような悪条件に置かれながら、日本側がより大きな損害を被って敗退したという結果は、この海戦における指揮・連携の難しさを物語っている。

■ 11月2日未明、エンプレス・オーガスタ湾の時系列 ■
00:27
米軽巡モントピーリアがレーダーで日本艦隊を探知
00:45-49
川内・時雨が敵艦視認。砲撃戦開始
戦闘中
初風、避弾運動中に隊列から脱落、重巡「妙高」に衝突。艦首完全喪失
02:57
第45駆逐群の集中砲火を受け沈没。艦長以下260名総員戦死
■ 「初風の額の皮」——妙高に残された唯一の遺品
戦闘後、夜が明けてから「妙高」の艦首左舷には、衝突の衝撃で引きちぎられた初風の鉄甲板が引っかかっているのが発見された。これを目撃した僚艦「羽黒」の乗員は、これを「初風の額の皮」と呼んだと伝えられている。乗組員260名のほぼ全員を失った初風にとって、この鉄板の切れ端が、僚艦たちの目に映った唯一の「遺品」だった。つまりどういうことか——初風の最期を実際に見届けた者は誰もおらず、僚艦の艦体に残されたこの断片だけが、その壮絶な最期を物語る証拠となった。
猫工艦の考察

初風の本質は、優れた乗員の練度と艦の頑丈さで幾度も窮地を乗り越えながらも、最後には視界不良という戦場の混乱そのものに呑まれてしまった駆逐艦だったという点にある。1943年1月の被雷では、自沈さえ検討される絶望的な状況から生還を果たし、司令官に感銘を与えるほどの粘り強さを見せた。この経験は、初風という艦が単なる犠牲者ではなく、最後まで戦い抜こうとする意志を持った艦だったことを物語っている。

しかし、その10ヶ月後、初風を沈めたのは敵弾でも魚雷でもなく、視界不良の中での味方重巡との衝突事故だった。ブーゲンビル島沖海戦は日米双方で誤射や衝突が多発した混戦であり、初風の悲劇はその象徴の一つといえる。乗組員260名がほぼ全員戦死し、生存者がほとんどいなかったため、初風の最期を語り継ぐ声そのものが長く失われていた。慰霊碑が建立されたのは戦後44年を経た1989年——僚艦たちに比べても大幅に遅れてのことだった。

初風が残したものは何か。それは、戦闘で失われた艦であると同時に、「語られること自体が困難だった」艦の記録である。妙高に引っかかった鉄板の切れ端だけが、この艦の最期の唯一の目撃証言だった。猫工艦は、生存者がほとんど残されなかったがゆえに長く沈黙を強いられてきた初風の乗組員たちに、そして「雪風の妹」として戦い抜いたこの艦の意志に、深い敬意を表したい。

■ 44年の沈黙を破った未亡人の尽力
初風では沈没前に他艦へ転属して退艦できた元乗組員が20名に満たなかったとされる。生き残りが極めて少なかったため、他の多くの艦が持つような戦友会すら長らく組織されなかった。この状況を変えたのは、最後の航海長だった岩崎大尉の未亡人だった。彼女は他の遺族や数少ない生存者と連絡を取り合い、呉の旧海軍墓地に慰霊碑を建立する運動を進める。実現したのは1989年、戦没から実に44年後のことだった。つまりどういうことか——初風の乗組員たちの記憶は、生存者自身の声によってではなく、遺された家族の粘り強い尽力によって、ようやく形を得ることができた。

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■ 参考文献・資料

  • ・防衛省防衛研究所 戦史叢書58・96『南太平洋陸軍作戦<4>/南東方面海軍作戦(3)』朝雲新聞社
  • ・アジア歴史資料センター(JACAR)初風関連公文書・第十六駆逐隊戦時日誌戦闘詳報
  • ・当時「羽黒」信管手・海軍二等兵曹井上司郎『五戦隊「羽黒」ブーゲンビル島沖海戦』
  • ・重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦』潮書房光人社、2014年
  • ・外山三郎『図説 太平洋海戦史 第3巻』光人社、1995年
  • ・戦史研究家落合康夫『駆逐隊別「陽炎型駆逐艦」全作戦行動ダイアリィ』
  • ・Wikipedia「初風 (駆逐艦)」「陽炎型駆逐艦」「ブーゲンビル島沖海戦」
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